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すれ違い:言えない理由


扉を開けたとき、最初に見えたのは顔じゃなかった。


右手だった。


机の端。

黒いグローブ。

指先だけが、まだ少し強く閉じている。


さっきの硬い音の正体は、たぶんタブレットだった。

投げたわけじゃない。ただ、丁寧に置く余裕がなかった音。


控え室は静かだった。

外の白い廊下より、少しだけ暗い。

でも暗いのは照明じゃない。空気のほうだった。


ミラは椅子に座ったまま、こちらを見なかった。


「……遅い」


最初の一言が、それだった。

透は扉を閉めた。


「戻りました」


「見れば分かる」


平坦だった。

だが、冷たさの下に疲労が混じっている。

前置き配信のあとだ。午前の配信もあった。今夜は公式深層枠がある。

削れていないはずがなかった。


透は立ったまま言った。


「午前の配信、見ました」


ミラの指先が一度だけ止まる。


「そう」


「画が死んでました」


そこで初めて、ミラがこっちを見た。

目が冷たい。

でも、それは怒っている目というより、痛いところを先に言われた人間の目だった。


「よく言うわね」


「言います」


「一回出ていった人間が」


透は黙らなかった。


「出ていったままなら言いません」


短い沈黙が落ちた。


外で台車の車輪が鳴って、すぐ遠ざかる。

壁の向こうでは誰かが早口で運営卓と話している。

控え室の中だけ、別の時間みたいに止まっていた。


ミラが視線を外す。


「で」


机の上のタブレットを指先で少しだけずらす。

画面は見えない。


「綺麗な天国はどうだった?」


綺麗な天国。

GENESISのことだと分かるまで、一拍かかった。


「綺麗でした」


「でしょうね」


「正しかったです」


「それもでしょうね」


「でも、息がしづらかったです」


ミラの指先が、また止まる。

今度はさっきより長かった。


透は続けた。


「全部揃ってました。固定も、ドローンも、編集も、医療も。事故が起きる前に、起きたときの処理まで決まってる現場でした」


「理想的じゃない」


「そうです」


「じゃあ何が不満なの」


不満。

その言い方に、少しだけ棘が混じる。


透は壁際へ視線をやった。

控え室の白い壁。差し込む照明。机の端。剣の鞘。


「俺がいなくても、回る場所でした」


ミラは何も言わない。


「逆に言えば、俺は最後の一枚の部品でしかなかった」


そこで、ミラが少しだけ鼻で笑った。

笑ったというより、息の角度が変わっただけだった。


「贅沢ね」


「そうかもしれません」


「必要とされてるんでしょ」


「必要です。でも、種類が違う」


ミラは椅子にもたれたまま、ようやく真正面から透を見た。


「種類」


「こっちでの必要は、欠けた現場をその場で繋ぐ必要でした」


一拍。


「午前の画を見て、よく分かりました」


ミラの目が少しだけ細くなる。

透は言った。


「三歩後ろに誰もいないと、あなたは全部一人でやるしかなくなる」


そこで空気が変わった。

一瞬で、とは言わない。

じわりと温度が下がる感じだった。


ミラは椅子から立ち上がった。

勢いはない。だが、立つだけで部屋の形が変わる。


「だから何」


声が低い。


「戻ってきて、そこを埋めたいって言いたいの?」


「はい」


「都合がいいわね」


透は答えなかった。


都合がいい。

そうだろうと思う。

出ていきかけて、戻ってきて、必要だと気づいたからまた立つ。綺麗な話じゃない。


ミラは机の端に手を置いた。


「午前の画が死んでたのは分かってる」


短い。

でも、その一言は思ったよりも重かった。

分かっている。つまり、気づいていないわけじゃない。


「じゃあ、今夜は」


「潜るわよ」


かぶせるように言った。


「公式が来た。数字も出た。今さら引けると思う?」


透は一歩だけ近づいた。


「引けないのは分かります。でも、あの画のまま深層に入るのは危険です」


「危険じゃない現場がどこにあるの」


「そういう話じゃない」


「じゃあ何」


ミラの言葉が少し速くなる。


「あなたは撮ってればいいの。線を引くのも、潜るのを決めるのも、私がやる」


その一言は、透の胸にまっすぐ入った。


一緒にやってるあいだに、少しずつ揃えてきた呼吸。言葉が少なくても成立していた共同作業。

それを、ここで切られた気がした。


透は少しだけ息を整える。


「それ、午前の配信でもう崩れてました」


ミラの目が鋭くなる。


「……喧嘩売ってる?」


「違います」


「じゃあ何」


「あの死んだ画のまま、あなたが潰れるのを見たくないんです」


短い沈黙。

透は続ける。


「今のままじゃ勝てないです」


ミラはしばらく何も言わなかった。

怒鳴りもしない。机も叩かない。

その代わり、右手のグローブだけが静かに閉じていく。


「……GENESISは」


不意に、別の方向から聞かれた。


「何ですか」


「まだ生きてるんでしょ、その話」


透は少しだけ黙った。


「はい」


「条件は」


「変わってません」


「そう」


その「そう」は、妙に薄かった。

以前のときの冷たさとも違う。もっと奥で何かを切っている音だった。


ミラは視線を落とす。

机の上のタブレット。その隣に、紙が数枚あった。


透は意識してそこを見ないようにした。

でも、裏返しきれていない端だけが目に入る。


医療機関のロゴ。

高額な請求書。

見覚えのない深層素材名。


そこまで見えたところで、ミラが紙を素早く裏返し、タブレットの下へ隠した。


ほんの一瞬だった。

でも、明らかに焦った、隠すための動きだった。


「行けば」


また、その言葉だった。


前より少し低い。少し疲れていて、少しだけ掠れていた。

以前のときのような、相手を切り捨てる冷たさじゃない。自分に言い聞かせるような、ひどく脆い音だった。


「安全で、綺麗で、壊れにくい場所なんでしょ」


透は動かなかった。

ミラは続ける。


「今日の深層は、午前の比じゃない。画も荒れる。たぶん、死ぬほど面倒。あなたが嫌がる条件しかない」


「嫌がってません」


「じゃあ何」


「あなたが一人で背負ってるのが嫌なんです」


言った瞬間、部屋の空気が止まった。


ミラの表情は変わらない。

変わらないのに、何かが一段深く閉じたのが分かった。


「余計なお世話」


その声だけが、やけに静かだった。


「背負うかどうかは、私が決める」


「そうです」


「あなたが決めることじゃない」


「分かってます」


「分かってないから、そういう顔してるの」


透はそこで、はじめて自分の顔が強張っていたことに気づいた。

言い返そうとして、やめた。

今ここで押せば、もっと壊れる。


ミラは机の端に置いてあったタブレットと、その下に隠した書類をまとめて抱え上げた。

それから短く言う。


「二十分後、運営卓」


返答の時間なのだろうと思った。


「白石にも玲奈にも、戻ったなら勝手に動くなって言っておいて」


「……はい」


「それと」


ミラが顔を上げる。


「今夜、もし入るなら」


一瞬だけ、言葉が止まった。


「足、引っ張らないで」


冷たい。

でも、それは拒絶の言葉というより、条件だった。


透は短く頷いた。


「引っ張りません」


ミラは何も返さなかった。

そのまま透の横を通り、扉へ向かう。すれ違う瞬間、薬品みたいな薄い匂いがした。消毒液か、医療系の何かか。現場の血や鉄じゃない匂いだった。


扉が開く。

白い廊下の光が、控え室の空気を一瞬だけ押し広げる。

出ていく直前、ミラは振り返らなかった。振り返らないまま、短く言った。


「遅刻しないで」


透は息を止めた。


足を引っ張るな、のあとに来る言葉としては、少しだけ温度が違った。

命令だ。でも、入ってこい、の形でもあった。


扉が閉まる。


控え室に残ったのは、白い静けさと、さっきの薬品の匂いの名残だけだった。

透はそこへ立ち尽くしたまま、ミラの隠した手元の動きを思い出した。


医療機関のロゴ。

高額請求。

深層素材名。


言えない理由がある。

暴君として君臨し、数字に執着し、死ぬほど危険な公式深層枠を断れない理由が。


そう確信するには、十分だった。


透は扉の方を見た。

二十分後、運営卓。深層枠。足、引っ張らないで。遅刻しないで。


戻ることは、許されたわけじゃない。

でも、もう画の外には置かれていない。


透は機材ケースを持ち上げた。

右肩に重さが乗る。その重さが、少しだけ前より馴染んだ気がした。


まだ終わっていない。

むしろ、ここからだった。


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