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神回は毒になる


神回は、翌日にいちばん汚れる。


終わった直後は拍手だ。すごい。やばい。伝説。映画。神。そういう大きい言葉だけが先に走る。


でも一晩置くと、人は落ち着く。落ち着くと、解きたがる。


どうして出来た。どこまで仕込みだ。誰が作った。何を隠している。

昨日まで熱狂だったものが、翌日には解剖台に載る。切り抜かれ、比べられ、遅延も疲労も空気も削られて、結果だけが別の顔をし始める。


神回は、たいていその時に毒になる。


GENESISを出たあと、透は駅とは逆の道をしばらく歩いた。


歩いたところで、答えが落ちているわけじゃない。それでも、すぐに電車へ乗る気にはなれなかった。

ガード下の薄い影に入って壁に背中を預け、端末を開く。


昨日の特番は、まだどこでも回っていた。中央昇降炉。予備制御層。コアブレイカー。白い刃。首筋に走った光。


切り抜きのタイトルが並ぶ。


『話題枠、特番を奪う』

『戦術カメラ、ついに完成』

『神回のあとに神回を重ねた女』

『いや、これ出来すぎじゃない?』

『未来視カメラ確定では?』

『MIRA、カメラいないと微妙説』


最後の一行だけ、喉の奥に残った。

微妙説。


透は無音の比較動画を開いた。左に昨日の特番。右に今日の午前配信。


左は、知っている画だった。寄る場所。抜く場所。危険がまだ危険の顔をしている距離。ミラの一歩目の前に、画面の空気そのものが整っていく。


右は、違った。


代役カメラが下手というより、遅い。遅くて、遠い。危険を危険として捉えるより先に、出来上がった結果だけを追いかけている。


ミラが踏み込む。半拍遅れて寄る。右の死角が潰れていない。本来なら補助灯で薄く切っておく位置にロックリザードが回り込む。ミラはそれを自分で拾うために、余計な半歩を踏む。そのせいで、次の斬り上げが浅くなる。


画の遅れが、そのまま戦闘の遅れになる。


透は動画を止めた。

ひどい、と思った。


危険だからじゃない。映像として、戦術として、破綻している。


三歩後ろに、誰もいない。

その事実だけが、画面の中でずっと鳴っていた。


玲奈から着信が来たのは、その少しあとだった。


「見ましたか」


挨拶もない。


「……見ました」


「比較、かなり回っています」


玲奈の声は、綺麗に整っていた。整っているときのほうが、この人は忙しい。


「スポンサーは二つに割れています。昨日の数字で強く乗りたい側と、今日の空気を見て様子見したい側」


「運営は」


「面白がっています」


即答だった。


「神回が毒になる流れごと、数字に出来ると思っています。今夜の公式深層枠、押し込まれる可能性が高いです」


透は少しだけ黙った。


「MIRAさんは」


「さっきまで黙っていました」


さっきまで。

それだけで、嫌な予感がした。


玲奈は続ける。


「今から短い前置き配信を入れるそうです」


「前置き」


「ええ。声明文を出す案は潰されました」


少しだけ間があった。


「たぶん、綺麗にはやりません」


それは、そうだろうと思った。


透はガード下の壁に背中を預けたまま、端末の画面を凝視した。

数分後。通知と共に始まった前置き配信は、いつもの場所――Aゲートの白い壁の前だった。


昨日の特番会場じゃない。いつもの白だ。白い壁。白い照明。ノイズの少ない空間。

その中央に、ミラが立っていた。


黒いジャケット。右手のグローブ。剣は抜いていない。戦う前の姿のまま、カメラの真正面に立つ。


コメント欄が流れる。


『来た』

『何言うんだ』

『声明?』

『カメラマンの件か』

『MIRA午前の画ひどかったぞ』

『比較出回ってる』

『労災申請フォーム、今日は説明欄つきですか』


笑っている。笑っているくせに、全員が本気で覗いている。


ミラは、最初の数秒を何も言わずに使った。その沈黙だけで、コメントの流速が一段変わる。


「うるさいわね」


一言目が、それだった。

いつもの声だった。少し低い。少し冷たい。でも、今日はその奥に熱があった。


「昨日の画が出来すぎに見える?」


コメントが跳ねる。


『そこ触るか』

『来た』

『未来視説明して』

『カメラマン誰なん』

『午前との差がえぐい』


ミラは続ける。


「見えるなら勝手に見てなさい。こっちは別に困らない」


困らない、という言い方だった。困っていないように聞かせるための言い方だ、と透には分かった。


「ただ、私の配信に、お前らの都合のいい意味を後から足すな」


白い壁の前で、その声だけがまっすぐ通る。


「チートだの仕込みだの、文脈を切って遊ぶのは勝手。でも、現場の人間にまで勝手に値札を貼るな」


値札。

その言葉が、透の足を止めた。


「昨日の画が成立したのは、成立させた人間がいたからよ。分かる? あんたらが面白がってる“神回”は、勝手に湧いたんじゃない」


コメントがさらに速くなる。


『認めた』

『やっぱカメラマンありきか』

『値札って引き抜きのこと?』

『所有物宣言?』

『MIRAキレてる?』


ミラは、少しだけ顎を引いた。


「ありき、とか、いないと何も出来ないとか、そういう安い話に落とすなって言ってるの」


声が少しだけ硬くなる。


「使えるから使ってる。必要だから立たせてる。私の現場の人間よ。画の外で勝手に弄るな」


最後の一行だけ、少し速かった。

画の外で勝手に弄るな。それは視聴者にも、切り抜きにも、引き抜きにも、全部へ向けた言葉だった。


ミラはそれ以上は説明しなかった。釈明もしない。綺麗な言葉にも直さない。


「以上。夜は潜る。見たいなら黙って見てなさい」


そこで配信は切れた。

切れた瞬間、コメント欄だけがしばらく流れ続けた。


『いやこれ擁護だろ』

『言い方終わってるけど庇ってる』

『現場の人間って言い方刺さる』

『値札って誰のことだよ』

『今夜潜るの確定?』

『公式深層マジ?』


透は、切れた黒い画面をしばらく見ていた。


綺麗じゃなかった。優しくもなかった。でも、届く言葉だった。

前には「私の所有物」と言い切ったくせに、今は「現場の人間」と言った。本人は気づいていないのかもしれないが、そこには明らかな温度の違いがあった。


あれが擁護だと気づくまで、一拍かかるくらいには不器用で、ひどく鋭かった。


白石からメッセージが来たのは、その直後だった。


『戻るなら早くしろ。戻らないなら、それでもいい。今日で流れが変わる』


短い。でも、それで十分だった。

今日で流れが変わる。


神回の翌日。比較動画。引き抜き。公式深層枠。ミラの前置き配信。

どれも別々に見えて、もう一本に繋がっている。


ここで動かなければ、そのまま別の流れに乗る。綺麗で、安全で、正しい側へ。

透は端末を伏せなかった。画面を見たまま、ゆっくり息を吐く。


GENESISのロビーで感じた息苦しさと、今のざらついた空気は、種類が違う。どちらも楽ではない。でも、片方には自分の居場所が見えなかった。


もう一度、午前配信の切り抜きを思い出す。

ミラの剣は強い。強いが、孤立している。


一歩目を読む目。二歩目の前で死角を消す光。危険を危険のまま残す距離。そういうものが全部抜けた画面は、強い人間をただ忙しく見せる。

ただの不機嫌な剣士に見える。

それが、たまらなく嫌だった。


透はガード下から歩き出した。

駅とは逆だった。でも今度は、迷って出した一歩じゃない。


Aゲートへ戻るための足だった。


夕方のAゲートは、朝よりさらに低かった。


人の声の高さ。モニターの白さ。機材を押す車輪の速度。全部が半拍だけ重い。

神回の翌朝より、神回の翌夕方の方が現場は暗い。数字が確定し、問い合わせが増え、次の案件が具体的な圧になって降りてくるからだ。


透が自動扉を抜けると、何人かが一瞬だけこちらを見た。

その視線の中には、驚きも、安堵も、面倒の予感も少しずつ混ざっていた。戻ってきた、と分かる空気だった。


玲奈が先に気づいた。

電話を切る前に、こっちへ一度だけ目を寄越す。それから短く何かを言って通話を終え、まっすぐ歩いてきた。


「早かったですね」


「近くにいました」


「そうですか」


玲奈はそれ以上は聞かなかった。聞かない代わりに、目だけで何かを測っていた。


「公式深層枠、受ける方向です」


「ミラは」


「まだ最終返答前です。でも、受けると思います」


当然だった。数字が出たあとで運営が出してくる深層枠なんて、断りやすい仕事のはずがない。


玲奈が少しだけ声を落とす。


「比較動画、今も伸びています。午前配信の荒れも、逆に燃料になりました」


「……はい」


「それと」


玲奈が、ほんの少しだけ視線を横へずらした。


「さっきの配信、かなり効いています」


効いている。炎上を消した、ではなく。効いた。あの言い方らしい結果だった。


透は答えず、白い廊下の奥を見た。

控え室の扉は閉まっている。その向こうに、ミラがいるのだろうと思った。


まだ怒っているのか。もう決めているのか。それとも、配信で使い切った熱のあとを一人で整えているのか。

分からない。


分からないまま、透は機材ケースの持ち手を握り直した。

右肩の重さが、少しだけ元の位置へ戻る。


Aゲートの白い光は、相変わらず人間を削る白だった。ざらついた空気も、低い声も、早い歩幅も、全部そのままだ。


なのに、GENESISの綺麗な空調より、こっちの方が肺が楽だった。


玲奈が言う。


「白石さん、奥です」


短い案内だった。

透は頷いて、白い廊下を進んだ。


戻ってきた、と思ったのは、そのときが初めてだった。


控え室の扉の前で、一度だけ足を止める。向こう側の様子は分からない。


透は息を一つ整えて、ノックをした。

中から返事はない。


その代わり、少し遅れて、扉の向こうで何か硬いものが机に置かれる音がした。タブレットか何かを、少しだけ乱暴に手放したような音。

昨日、自分がこの部屋を出ていくときに、背中越しに聞いたのと同じ音だった。


あのときは振り返れなかった。

でも今は、その音の正体を確かめるためにここにいる。


透はもう一度だけノックした。


「……入ります」


短く言って、扉のノブに手をかける。


話は、ここからだった。


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