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完璧な職場


朝の白さとは、少し違う白だった。


GENESISの配信棟は、駅から近かった。

近いのに、音が遠い。


ガラス張りのエントランス。磨かれた床。受付の白。空調の一定な風。

足を踏み入れた瞬間に分かる。ここは、誰かが毎日ちゃんと整えている場所だ。


Aゲートとは違う。


Aゲートにも白はある。

白い壁。白い照明。白いモニター。

でも、あっちの白は、現場の前で人間を削る白だ。


ここは違う。

削る前提がない白だった。


透は受付証を首から下げて、相川の後ろを歩いた。


相川直樹は、画面越しより柔らかい顔をしていた。

四十前後。声が低い。歩幅が一定。笑うとき、相手を安心させる角度だけ知っている人間の笑い方をする。


「急なお呼び立てになってしまって、すみません」


「いえ」


「本当は、特番明けに休ませるべきなんでしょうけど」


相川はそう言って、ほんの少しだけ笑った。


「こういう業界ですから。目立った人材には、すぐ声がかかる」


綺麗だった。言い方が。


押さえる、を採用に変える。

囲う、を評価に変える。

そういう言葉の使い方に慣れている声だった。


エレベーターの壁に、自分の姿が薄く映った。

機材ケース。少しだけ寝不足の顔。まだ抜けきらない右肩の重さ。

その隣で、相川のスーツには皺がない。


会議室は、広かった。


長机。大型モニター。防音の壁。照明は明るいのに、目が痛くならない。水まで最初から置いてある。


相川は座る前にタブレットを机へ置いた。

画面には、透の名前と数字がもう並んでいた。


再生数。

平均維持率。

切り抜き波及。

スポンサー接触数。

安全性評価。

炎上率。


炎上率、という文字を見たときだけ、少し嫌だった。


「率まであるんですね」


「あります」


相川は隠さなかった。


「伸びる人材には、だいたいノイズがつきます。問題は量より、制御できるかです」


「制御」


「ええ。消す、ではなく」


正しい。たぶん、正しい。

この人は、現実を知っている。そのうえで、全部を綺麗な机の上に並べ直している。


相川が画面を切り替える。今度は契約条件だった。


報酬。医療。事故時補償。守秘。住居支援。固定給。歩合。


どれも昨日のメールで見たはずなのに、画面に並ぶと重さが変わる。

文字が、現実の骨になる。


「うちは、危険を否定しません」


相川が言う。


「ただ、危険を現場の善意で埋めるやり方は取りません」


透は黙っていた。


「あなたの映像は優秀です。でも、今の場所では、優秀さが個人負荷に寄りすぎている」


根性、という言葉よりは柔らかい。

だが意味は同じだった。

少しだけ、胸の奥が固くなる。


「だから今日は、体験だけ見てください。契約の話は、そのあとで構いません」


透は頷いた。

頷いたあとで、自分が断っていないことに気づいた。まだ、見ている側の姿勢だ。選ぶ側ではない。選ばれかけている側のままだった。

それが少し、嫌だった。


スタジオ兼シミュレーション区画は、もっと綺麗だった。


天井が高い。レールカメラ。固定カメラ。予備照明。予備回線。壁の向こうに編集室。別室に医療班。さらにその奥に機材倉庫。


広い。広いのに、どこも余っていない。

全部が、最初から役割を与えられている。


ダンジョン配信の設備なのに、現場の匂いが薄い。

ここでは事故すら、起きる前に書類になるのかもしれなかった。


相川が言う。


「今日の体験は、中層相当の模擬区画です。実戦に近いですが、制御は効いています」


制御。またその単語だった。


「後方固定四台。ドローン二台。レール一台。カメラ担当は三名です」


「三名」


「ええ。まずは、そのうち一枠を外から見てください」


外から。


現場に入る、ではなく。任される、でもなく。

まず見る。比較する。代替可能性を測る。そういう順序が、きちんとある。


それはきっと、人として正しい。

正しいのに、喉の奥に少しだけ何かが残った。


配信が始まった。


透は防音ガラスの向こう側を見る。

出演者は、GENESIS所属の中堅探索者二人組だった。

強い。上手い。顔も整っている。スポンサー受けもいいのだろうと思う。


導入カットは、完璧だった。


固定で全景。レールで寄り。ドローンで上抜け。字幕位置まで最初から決まっているみたいに空いている。

編集しやすい。切り抜きやすい。事故が起きても補完が効く。


何も悪くない。

むしろ、よく出来ている。


中層相当の魔物が出る。隊列が崩れない。視線誘導も安定している。照明の当たり方まで綺麗だ。

コメントも流れる。


『安定してる』

『見やすい』

『上手い』

『GENESISさすが』

『綺麗』

『安心して見れる』


安心して見れる。


透は、その一行を少しだけ長く見た。


安心して見れるのは、良いことだ。悪いはずがない。

でも、続けて流れてくる文字の温度が、少しずつ同じだった。


見やすい。安定してる。綺麗。上手い。


どれも褒め言葉だ。

なのに、胸に残る熱が薄い。


相川が横で言った。


「うちは、継続率を重視しています」


「はい」


「瞬間最大風速は大事です。でも、それだけでは企業案件になりません」


それも正しい。すべてが正しい。


透は、レールカメラの動きを見た。

滑らかだ。迷いがない。でも、迷いがないからこそ、余白も少なかった。


この画面は、失敗しない。

代わりに、何かが起きそうな気配も少ない。


最初から正解のルートしか通らない映像。

その綺麗さを、透の手は少しだけ退屈だと思ってしまった。


そのことに気づいた瞬間、自分で少しだけ驚いた。


以前の自分なら、この現場を見て感動していたはずだ。

死ななくていい。機材が壊れない。一人で全部背負わなくていい。

それなのに今は、綺麗すぎる、と思っている。


汚れたのは世界の方か。

それとも自分の目か。


中盤、模擬区画の段差に一体が引っかかった。


小型の獣型。本来なら左へ流れるところを、ほんの少しだけ足を取られる。そこで、出演者の一人の体勢が半拍遅れた。


危険、というほどではない。ここは制御が効いている。

でも透の目には、別のものが先に見えた。


右。

そこじゃない。

半歩前。

その角度なら、もっと綺麗に抜ける。


防音ガラスの向こう側だ。ここから叫んでも届くはずがない。

頭では分かっているのに、喉の奥まで声が出かかった。

出かかったところで、無理やり飲み込んだ。


ここは自分の現場じゃない。

今は三人のカメラ担当がいて、出演者にもインカムが繋がっている。透が一語差し込まなくても、流れは成立する。


実際、成立した。


固定が拾い、レールが寄り、ドローンが補完する。転倒も怪我もなく、数秒後にはきれいに繋がっていた。


完璧だった。


完璧だったのに、透の手の中には、出さなかった一語だけが残った。


相川が気づいたのか、気づかなかったのか。どちらとも取れない声で言う。


「言いたいこと、ありましたか」


「……少し」


「それが、うちの足りないところです」


透は顔を上げた。

相川はモニターを見たままだった。


「破綻が少ないぶん、現場でしか生まれない判断の熱量が出にくい」


一拍。


「だから、あなたに声をかけています」


その台詞は、うまかった。

欲しい言葉を、欲しい形で渡してくる。

評価。必要性。欠けている場所。全部、正確だった。


なのに、そこでやっと別のことが見えた。


ここは、自分を欲しがっている。

でもそれは、自分でなければ生まれない一瞬を欲しがっているのではなく、この綺麗な仕組みの最後の欠けを埋める部品として欲しがっている。


部品。


その言葉が浮かんで、少し遅れて腹の奥に沈んだ。


体験配信は、最後まで綺麗に終わった。


事故なし。ノイズなし。回線安定。コメント安定。スポンサー満足。


終わった瞬間、出演者は笑顔で手を振った。スタッフは即座に次の確認へ入る。医療班は記録だけして引く。編集室では、もう切り抜き候補が色分けされている。


誰も叫ばない。誰も走らない。誰も、自分の身体で穴を塞いでいない。

正しい職場だった。


相川が水を差し出してきた。


「どうでしたか」


透は受け取って、少しだけ考えた。


「……すごいです」


「ありがとうございます」


「すごい、ですけど」


その先が少し詰まる。

相川は待った。この人は待つのがうまい。相手が言いにくいことほど、遮らずに待つ。


透は言った。


「俺じゃなくても、回りますよね」


相川はすぐには否定しなかった。そこも、うまかった。


「はい」


あっさり認める。


「今は回ります」


今は。

その二文字だけが、机の上に残る。


「でも、上を取りにいくなら足りません」


「上」


「視聴者が言うところの『伝説』です」


綺麗な声だった。まるで、伝説という不確かな熱狂すら、運用表の一項目みたいに聞こえる。


「偶然のバズではなく、設計され、再現性を持った伝説。そこに、あなたは必要です」


必要。

また、その言葉だ。


でも今度は、少し違って聞こえた。

Aゲートでの必要は、欠けた現場をその場で繋ぐ必要だった。ここでの必要は、綺麗な完成品をもう一段上へ押し上げる必要だ。


どちらも必要。どちらも間違っていない。

なのに、胸の奥で鳴る音は、同じじゃなかった。


端末が震えた。


玲奈だった。


短い通知。それだけで、指先が少しだけ先に冷えた。

開く。


『今日の夜、MIRA側に公式深層枠の打診。かなり危険。まだ返答前』


その一行だけだった。


透は画面を見たまま、少しのあいだ動かなかった。


相川が言う。


「悪い知らせでしたか」


「……少し」


「今のお返事でなくても構いません」


相川は立ち上がる。


「ただ、うちはいつでも同じ条件で迎えます。今日だけ優しくして、明日から削るようなことはしません」


その言葉も、たぶん本当だった。


本当だから、怖かった。

嘘なら切れる。本当な甘さの方が、人を深く迷わせる。


相川は最後に名刺を机へ置いた。


「佐久間さん」


透が顔を上げると、相川は柔らかく笑った。


「才能は、壊れる前に移した方がいい」


会議室を出てからもしばらく、その一言が耳に残った。

壊れる前に。移した方がいい。


正しい。何もかもが正しい。

それでも、エレベーターの鏡に映る自分の顔は、さっきより少しだけ硬かった。


GENESISの一階ロビーは、来たときと同じように静かだった。ガラスの外を、人が整った速度で歩いていく。


透はそこで、端末をもう一度開いた。


玲奈からの追加メッセージが入っている。


『公式側、今夜中に返答を求めています。MIRAさんはまだ黙っています』


その下に、リンクが一つ貼られていた。


『午前配信。代役カメラ。数字は出ていますが、画がかなり荒れています』


透はロビーの隅へ移動して、無音でそのリンクを開いた。


映し出された中層の岩場を見て、眉間が寄る。


ひどい、と思った。


危険だからではない。

映像として、戦術として、破綻しているのだ。


カメラが、ミラの一歩目を読んでいない。常にフレームが半歩遅れる。

右の死角。いつもなら透が補助灯で潰す位置に、ロックリザードが回り込む。ミラはそれを自分で処理するために、余計な半歩を踏んでいた。そのせいで、次の剣の威力が落ちる。


三歩後ろに、誰もいない。


ミラが全部一人で背負って、全部一人で画面を成立させようとしている。

画面の中の悪魔が、ただの不機嫌な剣士に見えた。


そのことが、妙に胸に刺さった。


ロビーの空気は清潔だった。喉に何も引っかからない。服にも匂いがつかない。

なのに、透はふいに、Aゲートの白い壁を思い出した。


白石の乾いた缶の音。玲奈の早い歩幅。ミラの短い一言。現場が崩れかける直前の、ざらついた空気。


ここなら死なないかもしれない。

でも、ここでしか生まれない一枚は、たぶん少ない。


そして、透の三歩後ろは、ここにはない。


透はロビーのガラス越しに、自分の首から下がった来訪者証を見た。

仮の名前。仮の所属。仮の居場所。

ポケットの中で、名刺の角が少しだけ指に当たっていた。


外へ出る。


空気が少しだけ汚くなって、やっと肺が楽になった。


端末の画面には、まだ玲奈の文面が残っている。


『MIRAさんはまだ黙っています』


黙っているのは、返事を迷っているからか。怒っているからか。もう決めているからか。

分からない。


分からないまま、透は駅とは逆の方向へ一歩だけ足を出した。

どこへ向かうのか、まだ自分でも決め切れていない。


ただ、綺麗な天国の空気を吸ったあとで、少しだけ息がしづらかったことだけは、はっきり分かっていた。


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