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オファー:安全という名の天国


朝は、痛みから始まった。


右肩。

前腕。

首の後ろ。


特番のあとに追加枠までやった身体は、寝たくらいでは元に戻らないらしい。


布団の中で一度だけ目を閉じたまま、腕を動かした。

動く。

動くが、軽くはない。


昨日の映像は、もう自分の身体から切り離されてどこかで回っている。

中央昇降炉。予備制御層。白い床。狭い通路。青い筋。ミラの白い刃。


神回、と呼ばれるものは、終わったあとも現場を終わらせてくれない。


枕元の端末が、無音で光っていた。


通知が多い。多すぎて、逆に感情が乗らない。

運営連絡。玲奈からの共有。切り抜きURL。未読の増加。


そのなかに、一つだけ、妙に整った件名が混じっていた。


---


件名:ご提案(極秘)


---


寝起きの目で見ても、分かる。

こういう文面は、だいたい金の匂いがする。


透は上半身を起こした。肩が鈍く鳴る。

喉が乾いていた。コップの水を半分だけ飲んでから、端末を開く。


差出人は、GENESISギルド配信部門だった。


見た瞬間に分かる。

昨日Aゲートで玲奈に見せられたVALKRAIDの接触より、さらに一段上だ。業界の上澄みを掬う側ではなく、業界の流れそのものを握る側。その法人ドメインが、直接こちらへ届いている。


本文は短い。

簡潔で、礼儀正しく、余計な熱がない。


そのくせ、一行ごとにこちらの現実へ触れてくる。


破格の報酬。

完備された医療保険。

専用の編集チーム常設。

危険区域への同行義務の免除。


昨日、玲奈のタブレットに並んでいた「安全、高給、自由」という言葉が、今度は法的な拘束力を持った美しい文章に変わって並んでいた。


そして最後に、一文だけ、やけに人間の言葉みたいなものが置かれていた。


---


あなたは消耗品ではない。正しく評価される場所へ。


---


それを読んだ瞬間、腹の底が少しだけ冷えた。


嬉しい、ではなかった。

見られている、と思った。


こちらの怪我も。

睡眠不足も。

現場でいつ死んでもおかしくないことも。

「神カメラ」と騒がれたあとで、結局は裏方のまま擦り減っていく未来も。


全部、見られたうえで差し出されている。


甘い。

だが、甘いものほど口の中に長く残る。


透は端末を伏せた。


部屋は狭い。

安い机。

乾ききらないタオル。

端に寄せた機材ケース。

壁際のコンセントから伸びる充電線。


ここにあるものは、全部、現実だった。


神回は回る。

数字も出る。

名前も少しは知られる。

でも部屋は広くならないし、怪我は勝手に治らない。


端末がもう一度光った。

今度は玲奈だった。


「起きてます?」


短い。つまり忙しいのだろう。


透が「起きてます」と返すと、すぐにビデオ通話が飛んできた。


画面の向こうの玲奈は、今日も綺麗だった。

綺麗だが、目の下だけが少し薄い。寝ていない顔だ。たぶん向こうも同じだ。神回の翌朝は、全員の睡眠が何かに食われる。


「おはようございます。身体は」


「一応、動きます」


「動く、は現場基準ですか?」


「たぶん」


玲奈は小さく息を吐いた。笑ったわけではない。ただ、会話を前へ進めるための息だった。


「昨日の数字、かなり伸びています」


「でしょうね」


「でしょうね、で済ませる温度じゃないんですけど」


手元の端末に、玲奈からの共有画面が割り込んでくる。


グラフが伸びていた。

再生。待機。切り抜き。クリップ。特番後の追加枠まで含めて、どこを見ても線が上を向いている。業界の言葉で言えば、完勝に近い。


だが玲奈の顔は、勝った日の顔だけではなかった。


「問い合わせも増えています」


「そっちも、でしょうね」


「冷静ですね」


「昨日の朝から、だいたい嫌な流れだったので」


玲奈は一度だけ頷いた。共有画面が切り替わる。


短尺切り抜き。

スレッドまとめ。

匿名掲示板。


昨日までの熱狂が、そのまままっすぐ称賛になるほど、この業界は素直じゃない。


『追加枠まで回したの化け物』

『神回のあとに神回を足すな』

『いやでも出来すぎじゃない?』

『カメラマン誰だよ』

『未来視では?』

『今度はどこの現場にいる?』


最後の一行だけ、少し嫌だった。


どこの現場にいる。

それは、見ているだけの声じゃない。探している声だ。


「まだ実害の段階ではありません。ただ、熱狂と探索は近いです」


「……はい」


「それと、もう一つ」


玲奈が一瞬だけ言葉を選んだ。選ぶ時点で、嫌な内容だと分かる。


「引き抜き、来ていませんか?」


透は少しだけ黙った。

玲奈はすぐに理解したらしい。画面の向こうで、営業の顔が一枚だけ薄くなる。


「昨日より上のところからです。GENESISから直接」


玲奈が笑った。

今度は薄く、本当に笑った。人を褒める笑いじゃない。業界の汚さを見慣れた人間の笑いだった。


「綺麗ですね」


「ええ、とても」


「綺麗な檻ほど、高いんですよ」


檻。

その単語が、耳に残った。


玲奈はそれ以上は言わなかった。引き留めもしないし、煽りもしない。玲奈は人が何に揺れるかを知っているから、正面からは押さない。


「今日は昼、白石さんも入れて短い確認があります。来られますか」


「行きます」


「あと」


玲奈が少しだけ間を置く。


「MIRAさんには、自分で言った方がいいです。その後の面倒が少ないので」


優しさみたいな口調で、実務の話をした。

その正確さが、逆にありがたかった。


---


Aゲートは、昨日より静かだった。


静か、というより、低い。


人の声の高さが半音だけ下がっている。特番が終わった翌日の現場は、たいていそうなる。大きい仕事が終わった解放感より、次に何が来るか分からない緊張のほうが長く残る。


白石は壁際で缶コーヒーを持っていた。


「顔色わるいな」


「そっちもです」


「俺はもともと悪い」


乾いた返しだった。

この人のこういう音だけは、現場を少しだけ現場に戻す。


白石は缶を傾けてから言った。


「来たか」


「……綺麗な話が、一件」


「だろうな」


白石はそこで初めてこっちを見た。


「で。揺れたか」


質問は短い。

でも逃げ場がない。


透は少し考えてから答えた。


「……揺れました」


「そうか」


責めもしないし、慰めもしない。


「揺れないやつのほうが信用ならん。まともな条件なら、揺れるのが普通だ。問題は、何に揺れたかだ」


一拍。


「MIRAには言え。あと、向こうが甘いこと言ってきたなら、その甘さが何を切り捨てる前提かも見とけ」


それだけ残して、白石は離れた。説明の多い人ではない。でもこの人は、言葉を少なくする代わりに、残るものだけ置いていく。


---


ミラは、控え室の奥にいた。


黒いジャケット。

右手のグローブ。

椅子に座って、タブレットを見ている。


特番翌日なのに、姿勢が崩れていない。この人は、疲れているときほど輪郭が鋭く見える。


透が入ると、ミラは視線だけを上げた。


「遅い」


「すみません」


「言い訳は」


「してません」


「そう」


タブレットが机に置かれる。

それだけで空気が少し変わる。画面の中を見ていた人間が、目の前の現実へ戻る音だった。


透は立ったまま言った。


「話があります」


ミラは少しだけ眉を動かした。


「……何」


「引き抜きの件です」


「でしょうね」


先回りだった。

透が息を呑むと、ミラはつまらなそうに言った。


「玲奈の顔見れば分かるわよ。どこ」


「GENESISギルドです。昨日のVALKRAIDより、さらに上から」


ミラの指先が、机の端で一度だけ止まった。

本当に一度だけだった。見逃してもおかしくないくらいの、小さな停止。


「条件は」


透は朝見た文面の記憶を、ぽつり、ぽつりと口に出した。


「報酬の桁が違います。専用の医療と編集チームがついて、危険区域への同行義務がない専属契約です」


言いながら、自分でも綺麗すぎると思った。泥の匂いが一つもしない、人を死なせないための無菌室の言葉だ。


言い終わるまで、ミラは一度も口を挟まなかった。

最後まで聞いてから、少しだけ顎を引く。


「いいんじゃない」


「……」


「安全でしょ。清潔だし、保険もある。あなたみたいなのは、そういう場所の方が長持ちするんじゃない」


平坦だった。怒っているようにも見えない。むしろ、整えて言っている。だから、余計に刺さる。


透は少しだけ言葉を詰まらせてから、言った。


「……まだ、返事はしていません」


「してないから何」


その返しは、少しだけ速かった。ほんの少しだけ。


「止めてほしかった?」


突き放すような、ひどい聞き方だった。

わざとひどく言っているのか、本当にどうでもいいと思われているのか、今の透には判断できなかった。ただ、その真っ直ぐで冷たい声が、自分が思っていた以上に深く刺さったことだけは確かだった。


透が黙り込むと、ミラは視線を外した。

机の上のタブレットではなく、少し右。何もない壁の方だった。


「行けば。あなたの人生でしょ」


控え室は静かだった。

外では機材の車輪が一度だけ鳴って、すぐ遠ざかった。


正しい。

たぶん、正しい。

正しいから、余計に冷たい。


ミラはもうこっちを見ていなかった。完全に終わらせるには、少しだけ硬い背中だった。


透は何も言えず、一度だけ頭を下げて控え室を出た。


扉が閉まる直前、背中で小さく硬い音がした。

タブレットが机に投げ出された音なのか、それとも、ずっと何かを堪えていた指先が机を叩いた音なのか。確かめる資格は、今の透にはない気がして、振り返れなかった。


Aゲートへ戻る廊下は、昼なのに少し冷えていた。壁の白さが、妙に遠い。


端末が震える。


朝のメールと同じ法人ドメイン。

本文は、一行だけ。


---


本日中であれば、直接ご説明できます。場所はそちらに合わせます。


相川直樹

GENESISギルド配信部門 プロデューサー


---


透は立ち止まったまま、その名前を見た。


背中では、さっき閉まった控え室の扉が、もう何の気配も出していない。

手の中の端末だけが、小さく熱を持っていた。


安全な現場。

使い潰されない正当な評価。

自分が裏方として正しく息ができる居場所。


甘い言葉は、だいたいそういう「まともな現実」の顔をして口を開けている。


透は端末を伏せなかった。

伏せられないまま、しばらくその場に立っていた。


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