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終わり方:バズは招待状


神回のあとに来るものは、拍手じゃない。


たいてい、追加だ。


まだ見ている。まだ流れている。まだ数字が落ちていない。だから、もう一本やれ。


この業界では、それがいちばん自然な流れだった。

そして、いちばん自然なものが、いちばんえげつない。


---


予備制御層は、会場の奥にあった。


中央昇降炉の白さと熱の外側。

仮設モニターも、スポンサー壁も、観客向けの見せ方も、そこでは急に薄くなる。整っていた特番会場の裏側に、整っていない現場がそのまま残っている。


床は狭い。壁は近い。天井は低い。


中央昇降炉のような、見せるための高さはない。

代わりに、押し込まれる圧がある。機械の残骸。死んだ配線。止まった制御盤。古い保守路。全部が近い。全部がこちらの動きの邪魔をする。


仮設照明は最低限。固定カメラは少ない。レールもない。ドローンを飛ばせる空間はあるが、余裕はない。


綺麗な会場の、綺麗じゃない奥。


玲奈が言った「固定は最低限」の意味が、現場に入った瞬間に骨の形で分かった。


白石が短く言う。


「ここからは、ほんとにお前の現場だ」


透は何も返さなかった。


返したところで、床の狭さは変わらない。風の癖も、仮設照明の少なさも、運営の欲の深さも、何も変わらない。


変わらないなら、見るしかない。


空間把握を薄く開く。


床の継ぎ目。制御盤の角。天井配線の垂れ。壁面の湿気。仮設灯の届く限界。届かない死角。


そして、その奥。


何かがいる。


まだ姿は見えない。でも音がある。低い。硬い。一歩ごとに機械の内臓を擦るような音だった。


息を吸った。空気が重い。さっきまでの昇降炉とは違う匂いがする。油と、錆と、通電の焦げた残り香。この場所は、綺麗にされることを諦められた場所だ。


---


追加ミッションの内容は、単純だった。


予備制御層の最深部に残された非常停止コアの再起動確認。


言い方だけ聞けば保守点検だ。

でも、そんなものを特番の追加枠でやらせる時点で、まともな仕事じゃない。


コアに寄る魔物がいる。機械熱と通電残渣に寄って棲みついた群れ。現場ではもっと短く呼ばれていた。


「アークハウンド」


白石が言う。


「小型はそれ。で、奥に親玉がいる」


「名前は?」


ミラが聞く。


白石はクリップボードを見たまま答えた。


「コアブレイカー」


嫌な名前だった。嫌な名前のものは、だいたい嫌な壊し方をする。名前に「壊す」が入っている時点で、もう現場が何を見てきたか分かる。


透は前を見た。予備制御層の通路は、途中で二層に割れていた。上段の保守路と、下段の制御床。中央にむき出しの配管束。そこを熱が通っている。熱に寄るなら、アークハウンドは下を取る。だが上にも来る。音が反響する場所だからだ。


広くはない。なのに、逃げ道が多く見える。


こういう場所がいちばん危ない。本当は逃げ道じゃないものまで、逃げ道みたいな顔をする。


---


配信は切られていなかった。


追加枠として、そのまま繋がっている。待機モニターの数字は、むしろ少し上がっていた。


『追加きた』

『まだやるのか』

『公式容赦ねえ』

『さっきの神回のあとで追加って何』

『労災申請フォーム、特番対応版に更新しました』


笑っている。でも、疲れた笑いだった。視聴者も分かっている。これはご褒美じゃない。搾り取りだ。それでも閉じない。閉じないから、運営は次を出す。閉じない視聴者と、止まらない運営。その間に立っているのが、自分たちだった。


透はカメラを構えた。右肩が鳴る。前腕の縫い目が脈を打つ。バッテリーは交換済み。でも体のほうは交換できない。さっきまでの特番本編の疲労が、まだ筋肉の裏に溜まっている。指先が少しだけ遅い。コンマ何秒の遅れを、頭が計算で埋めている。それはまだ動けるという意味だ。でも、体が頭に頼り始めたときが危ない。


ミラが前を向いたまま聞く。


「佐久間」


「はい」


「さっきの続きよ」


さっきの続き。

つまり、もう一度同じ精度を出せ、という意味だ。いや、同じでは足りないのかもしれない。特番本編のあとに押し込まれた追加枠なのだから、見ている側は、もう一段上を勝手に期待している。期待は、応えた瞬間に次の期待を産む。終わらない。


透は短く頷いた。


ミラがほんの少しだけ口角を動かす。


「そう」


それだけでよかった。この人の「そう」は、信頼じゃない。確認だ。まだ使えるかどうかの確認。でも、確認してもらえるうちは、まだ現場にいていい。


---


最初のアークハウンドは、予想通り下から来た。


制御床の奥。配管束の影から、青白い筋を背に走る細い獣。レールハウンドより軽い。導電狐より重い。足音は少ないが、噛みつく角度が嫌だった。正面じゃない。膝裏や足首を取りに来る。


真正面で迎える相手じゃない。


透はまず、引いた。


さっきの特番本編みたいな広さはない。だからこそ、最初の一手で通路の幅を見せる必要がある。狭い場所で寄ると、ただ近いだけの映像になる。危険が消える。危険が消えると、速さも意味も死ぬ。


下段の床。上段の保守路。その間を走る配管束。アークハウンドの進路。ミラの立ち位置。全部を一枚へ押し込む。


アークハウンドが散る。一匹が下へ潜り、他の個体が配管束の左右へ走った。


ミラが下段へ踏み込む。正面からじゃない。半歩だけ左へずらし、通路の中心を外す。


そこで透は補助灯を切った。


仮設灯だけが残る。白く弱い光。その弱さの中で、アークハウンドの青筋だけが浮く。暗さは敵じゃない。暗さは選別だ。見えるべきものだけを残す暗さなら、味方になる。


「左、深い」


一語だけ出した。


ミラの刃が左へ走る。青白い線が途切れる。残りが、音の薄いほうへ寄る。


透はドローンを低く滑らせた。高く上げる余裕はない。上ではなく、床のすぐ上を通す。高いモーター音を、狭い通路の右へ反響させる。


首が流れる。


そこへ、ミラが二歩目で入る。白い刃。狭い通路。青い筋。最小の動きだけで、群れが全部、一本の流れに変わった。


コメントが跳ねる。


『はや』

『狭いのに見える』

『追加枠でも普通に精度高い』

『カメラしんでないのやばい』

『疲れてないのか?』


疲れている。でも、疲れていることを映す必要はない。疲れを映したら、それは記録だ。記録じゃなく、仕事を映す。仕事の中にある美しさだけを残す。


透はそこで初めて寄った。ミラの横顔、刃の白、その下の制御床。危険が消えない距離。顔だけが立つ距離。体が覚えている距離。いつ覚えたかはもう正確には思い出せない。鉄板の上だったか、吹き抜けだったか。でも手が知っている。手が知っていることは、もう自分のものだ。


---


二つ目の区画で、ドローンが本当に意味を持った。


予備制御層の中央には、停止したクレーンの残骸がぶら下がっていた。チェーンが垂れ、梁が斜めに折れ、その隙間に死角がいくつもある。


固定カメラでは拾いきれない。補助灯だけでは角度が足りない。


アークハウンドは、その死角を使って上段へ回った。


ミラの真後ろ。保守路の段差を挟んで、上から落ちる軌道。


透は言葉より先に、ドローンを上げた。真上じゃない。クレーン残骸の裏へ滑り込ませる。チェーンの影を避け、梁の折れ目だけを照らす高さ。


モーター音が死角の中で反響する。


その音に、隠れていたアークハウンドが一瞬だけ首を上げた。


補助灯を細く振る。線だけ出す。輪郭だけ拾う。


「上、来る」


ミラが振り向かないまま刃を返す。白い軌跡が短く上へ走る。先頭が落ちる。もう一匹は躱して右へ逃げる。


その逃げ先が、グラナイトのいない空間だったことに、少しだけ違和感があった。


透が一拍遅れて気づく。ここには、今日はグラナイトがいない。


当たり前だった。コラボじゃない。追加枠はミラ単独だ。


なのに体は、さっきまでの連携の感覚をまだ引きずっている。二人で作った戦況の癖が、まだ指の中に残っている。人と組むと、離れたあとにもその人の形が残る。右側に誰かがいた記憶。左から誰かが入ってくる期待。それが空振りする感覚は、思ったよりも寒かった。


違う。今日はまた、一人と一台だ。


その違いを、次の一手で修正する。


透は補助灯を低く落とした。逃げたアークハウンドの腹が白く浮く。ミラが追う。正面からじゃない。段差の縁を使って、半歩だけ高い位置から落とす。


白い刃。灰色の殻。制御床へ散る小さな火花。


コメント欄がさらに速くなる。


『ドローンやば』

『死角なくしてる』

『これ一人枠のほうが逆にえぐい』

『グラナイトいなくても完成してる』

『いやむしろミラ単独の完成形か?』


その文字列が、少しだけ胸に刺さった。


ミラ単独の完成形。そうだ。コラボ本番は神回だった。でも、今やっているのはその先だ。二人で噛み合ったから凄かったんじゃない。噛み合う前から、ここへ来るための積み上げがあった。それを、透自身がまだ完全には信じ切れていなかったのかもしれない。


信じ切れていない自分に気づいたことが、たぶん今日いちばんの収穫だった。


---


光を使う場面は、最深部手前で来た。


予備制御層の奥は、仮設照明が足りていなかった。白石が「最低限」と言った意味がそこにあった。灯りはある。だが、立てるための光じゃない。安全上、穴を踏まないための光だけだ。


その薄暗い空気の中で、コアブレイカーがいた。


最深部の非常停止コアの前。黒い装甲。厚い前脚。頭部の左右に、折れた工具みたいな角。バスファングの押し込みとは違う。こいつは壊すために前へ出る。壁も、配管も、床も、自分の進路の邪魔ならそのまま砕く。


だから名前がついている。コアブレイカー。現場がそう呼ぶということは、何かを何度も壊したということだ。


ミラが止まる。透も止まる。


距離を測る。床の継ぎ目。配管の逃げ道。照明の角度。コアブレイカーの首の高さ。


仮設灯のままだと、ミラの顔が死ぬ。顔が死ぬだけじゃない。首筋の角度が見えない。首筋が見えないと、どこへ刃を入れたか分からない。分からないまま派手なだけの映像は、もう今の透にとっては負けだった。


面光を作る。


薄膜を灯体の前に張る。微風で湿気を均す。もう説明しなくても手が動く。動いたあとに、頭が条件を追いかけてくる。白は上げすぎない。顎下は落としすぎない。目は一点。背景は死なせない。


考える前に指が動いて、考えたあとに光が立つ。順番が逆転していた。


それが、上手くなるということだった。怖いくらい静かに、当たり前のことが当たり前にできるようになる。派手な覚醒じゃない。ただ、昨日の手が今日の手に繋がっている。その繋がりが途切れなかった、というだけの話だ。


ミラの顔が立つ。疲労は消えない。でも、それが削れた顔じゃなく、意志のある顔に変わる。ここまでの全部を飲み込んだ顔になる。


コアブレイカーが動いた。


重い。だが速い。


真正面で受けると終わる。横へ逃げても、配管を砕かれれば退路が死ぬ。


透はそこで、引かなかった。


今は状況より、角度だ。こいつに勝つ角度を見せることが、結果的にいちばん状況を伝える。


半歩だけ右へ。レンズを低く。コアブレイカーの頭部と、ミラの横顔と、その間のわずかな首筋を一枚に入れる。


狭い。危険だ。でも、この距離しかない。


ミラが入る。白い刃が首筋へ走る。硬い。浅い。コアブレイカーが振り返す。


そこへ透は、初めて補助灯を敵のためではなく、刃のために使った。


首筋に沿って光を薄く這わせる。傷の線だけが、ほんの一瞬だけ浮く。


今まで補助灯は、敵を誘導するための道具だった。光で視線を切り、音で首を曲げ、流れを作るための手段。でも今、同じ道具が、ミラの目に答えを届けている。誘導じゃない。案内だ。ここを斬れ、という案内。


ミラの目が変わる。見えた目だ。答えを見つけた目。


二歩目。最短。白い刃が、さっき浮いた線をそのまま深くなぞる。


コアブレイカーの動きが止まる。


一拍。


その一拍の静けさが、異様に長かった。世界が息を止めた、なんて大げさなことじゃない。ただ、ファインダーの中だけが静かだった。さっきの昇降炉でも同じ静けさがあった。熱狂の中心にある、静かな核。それが今日二度目に来た。


二度来た。


偶然は一度だ。二度目は、技術だ。


透は寄った。ミラの目。刃の白。砕けかけた首筋。一枚の中に、勝つ瞬間の全部を押し込む。


コアブレイカーが崩れる。前脚が沈み、頭部が制御床へ落ちる。黒い破片と、飛ぶ油と、白い刃。


コメント欄が壊れた。


『うわあああ』

『今のやばい』

『首筋見えた』

『何で見えたんだ』

『神回超えた』

『これもう伝説だろ』


胸の底で、音が鳴った。


大きくはない。派手でもない。でも、今まででいちばん深い場所で鳴った。


完成した、という音だった。


寄り。空撮。光。戦況作り。撤退判断。編集前提の入りと抜け。全部が、今の一連で、はじめて同じ呼吸になった。


神カメラワーク。画面の向こうが勝手につけた名前だと思っていた。でも今だけは、その名前に追いついてしまった気がした。


追いついた瞬間に、もう次が見える。追いつくというのは、ゴールじゃない。景色が変わるだけだ。今まで見えなかったものが見え始める。自分に足りないもの。まだ届かないもの。完成した瞬間に、未完成の輪郭がくっきりする。


それが少し怖かった。でも、嫌じゃなかった。


---


終わった、と思ったのは会場のほうだった。


コメントは頂点を越えていた。切り抜き班がもう叫んでいる。玲奈は電話を同時に捌いている。ディレクターは運営卓に向かって早口で何かを報告している。


数字は壁を破った。誰が見ても分かる。今日の特番の主役が、最後に話題枠へ持っていかれたことが。


でも、透の中ではまだ終わっていなかった。


カメラを下ろして、最深部の空気を一度吸った。重い。機械油と、死んだ通電の匂いと、終わったばかりの熱が混じっている。


その空気の中で、やっと息を吐く。


吐いた瞬間に、体が少しだけ揺れた。膝じゃない。腰でもない。もっと内側の、力の元になっている場所が、ほんの一瞬だけ空回りした。気づいたのは自分だけだった。でも、その一瞬で分かった。今日の分はもう出し切った。次に同じものを求められたら、たぶん足りない。


ミラが剣を納めた。それから、振り返らずに言った。


「……落とさなかったわね」


短い。褒め言葉じゃない。でも、今のミラがこれ以外の言い方をするとは思えなかった。この人は、いちばん大事なことをいちばん短い言葉で言う。飾らないんじゃない。飾る隙間がないほど、言葉の密度が高いのだ。


「ぎりぎりです」


「いつもでしょ」


その返しに、ほんの少しだけ熱が混じっていた。冷たさの奥に、抑えきれないものが一滴だけ落ちるような音。


それだけで十分だった。


---


Aゲートへ戻るころには、モニターがもう次の世界になっていた。


『伝説回』

『神カメラワーク完成』

『MIRA、特番を奪う』

『話題枠から主役へ』

『#戦術カメラ』

『#指揮官カメラマン』

『#カメラマン誰』


最後のタグだけが、まだ消えていなかった。消えない。神回が伝説になるほど、そのタグもまた太くなる。


玲奈が電話を切って、まっすぐこちらへ来た。


営業の顔だった。でも今日は、その顔の奥に、少しだけ隠しきれていない高揚があった。数字が出たあとの玲奈は、いつもより半歩だけ歩幅が広い。


「三件です」


「何が」


白石が聞く。


「接触です」


玲奈がタブレットを開く。公式。スポンサー。大手ギルド。


「まず公式」


玲奈がひとつ目を開く。


『本日の特番追加枠、極めて高い成果を確認しました。佐久間透様の撮影・状況判断スキルについて、別件でご相談したく存じます』


相談。綺麗な言い方だった。だが、相談じゃない。引き込みだ。相談という名前の、椅子を差し出す動作。座ったら最後、立ち上がるのに理由が要る。


「次、スポンサー」


別の窓。


『今後の案件において、専属カメラマン込みの枠で優先的に編成したい』


玲奈が三つ目を開く前に、白石が鼻を鳴らした。


「最後が本命か」


玲奈が頷く。


「ええ」


画面に、VALKRAIDのロゴ。その下に短い文。


『正式に話したい。条件は安全、高給、自由。チーム単位でも、個別でも検討可能』


自由。


その単語が、少し遅れて胸の奥に落ちた。


安全。高給。自由。


会議ブースで並んでいた条件が、今度はもっと露骨な形で戻ってきた。包装紙が減っている。向こうも、もう飾る必要がないと判断したのだ。結果が出たから。伝説回になったから。欲しがる理由が、誰の目にも見える形になったから。


前回は断った。条件が良すぎて歯が痛くなるくらいだった。でも今回は歯が痛くならない。痛くならない代わりに、もっと深い場所が軋む。前回は「まだ早い」で済んだ。今回は「もう遅くない」が見えている。


玲奈がタブレットを閉じる。


「やっぱり、数字が出ると向こうから来ますね」


静かな声だった。営業の勝利宣言にも聞こえるし、面倒ごとの開幕にも聞こえる。


白石が缶コーヒーを開けた。


乾いた音。今日何度目か分からないその音が、やっと最後の区切りみたいに聞こえた。


「で」


短い。いつもの声。


「どうする」


誰に向けた問いかは、言わなくても分かった。


透はすぐには答えなかった。答えられなかった。


安全。高給。自由。


どれも、昨日までなら喉から手が出る条件だった。今だって、魅力が消えたわけじゃない。むしろ、今日の特番のあとなら、その重さはもっと具体的だ。ここに残れば、これからはもっと燃える。もっと見られる。もっと危ない場所へ押される。体の奥で空回りしたあの一瞬が、次はもっと長くなるかもしれない。


分かっている。分かっているのに。


透は右肩の重さを思い出した。カメラを持つ手の熱。今日、コアブレイカーの首筋に光を這わせた瞬間。ミラの一歩が、その線へ迷わず入った瞬間。あの一枚が出来た瞬間の、静かな核。


安全な現場でも、綺麗な映像は撮れるだろう。高給な現場でも、上手い切り抜きは作れるだろう。


でも、あの一枚はどうだ。あの一瞬の、危うくて、正しくて、全部が噛み合った静けさは。


あれは、ここまでの全部があって初めて出来た。


透はようやく口を開いた。


「……今は、まだ」


それ以上は出てこなかった。


白石は何も言わなかった。缶を傾けて、最後の一口を飲んだだけだった。その沈黙が、待っている沈黙なのか、認めている沈黙なのかは分からない。でも、急かさなかった。白石はいつもそうだ。感情の居場所を作らない代わりに、判断の時間だけは正確に残す。


その沈黙を破ったのは、ミラだった。


黒いジャケットの背中が、一歩だけ前へ出る。右手のグローブ。その指先が、静かに閉じる。


それから、振り返らないまま言った。


「……次も、落とすなよ」


短い。


でも、その一言に、ここまでの全部が入っていた。


最初の「盛れてない」から、今日の追加枠まで。衝突も、妥協も、編集室も、鉄板の距離も、吹き抜けの空撮も、炎上も、擁護も、特番も。全部を通ったあとで、最後に残ったのがそれだった。


次も。落とすな。


命を。絵を。自分を。たぶん、その全部を含んだ言葉だった。


透は答えなかった。答えるより先に、胸の奥で何かが静かに鳴った。


嬉しい、とは少し違う。認められた、でも少し違う。もっと深くて、もっと狭い場所で鳴る音。


ここにいろ、と言われた音だった。


---


Aゲートの白い光が、通路の先に広がっている。


玲奈はもう次の電話に出ていた。白石は缶を持ったまま、少し前を歩く。ミラはその前。透は三歩後ろ。


その距離は、最後まで変わらなかった。


でも、その三歩の意味は、最初の出勤の日とはもう違っていた。


最初は、ただ置いていかれないための距離だった。今は違う。その三歩は、流れを見切るための距離で、守るための距離で、支えるための距離だった。


三歩後ろが、いちばん近い場所だった。


モニターの向こうでは、まだ伝説回の文字が流れている。その下では、もう新しいタグが生まれ始めていた。


『#引き抜きあるか』

『#佐久間透』

『#次はどこへ行く』


もう始まっている。次の火が。次の選択が。次の、まだ名前のない季節が。


神回は終点じゃない。


ただ、ここまでの区切り方としては、たぶんいちばん正しかった。


バズは、終わりじゃない。

招待状だ。


その招待状を、透はまだ開いていない。でも、手の中にはもうある。右肩の重さと一緒に。次の火種と一緒に。ミラの一言と一緒に。


Aゲートの白い光の中を、三歩後ろから歩く。


その距離は変わらない。



第2章 神カメラワーク育成編 完


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