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特番本番:神カメラワーク完成形


本番の朝は、音より先に桁で来た。


待機モニターの数字が、まだ誰も剣を抜いていないうちから膨らんでいる。桁がひとつ増えた。増えたと思ったら、もうひとつ増えた。数字を読む速度より、数字が膨らむ速度のほうが速い。


増えている、ではない。

押されている。


空気そのものが、画面の向こうの人数で押し広げられているみたいだった。


中央昇降炉の仮設モニターには、特番ロゴと出場チームの一覧が並んでいる。ランキング上位。話題枠。スポンサー名。特設ハッシュタグ。その全部の下で、待機人数だけが生き物みたいに脈を打っていた。


透はその数字を一度だけ見て、それ以上は見ないことにした。


見続けると、足の裏が浮く。

浮いた足で立てる場所じゃないことは、昨日のリハでよく分かっていた。


---


中央昇降炉は、今日も高かった。


見上げると、格子状の補強材の向こうに薄い光がある。壁面の仮設モニター。安全線の黄色いテープ。固定カメラのレール。ドローン用の離着床。昨日のリハから一晩で、会場はさらに整えられていた。


整っている。


その事実が、少しだけ嫌だった。整った現場は、壊れたときに余計に人を油断させる。


白石がクリップボードを見たまま言う。


「右排気、仮設モニター一枚外して通した。だが完全じゃない」


昨日のざらつきの正体だ。直した。でも、消えてはいない。


透は天井を見る。風は見えない。だが、吊られたケーブルの揺れ方と、仮設幕の端の震え方で分かる。上から落ちる流れが一度右へ寄って、それから中央へ戻っている。昨日よりましだ。だが、綺麗ではない。


「中央に戻るの、少し遅いです」


白石が頷く。


「知ってる。だから真上固定は使いすぎるな」


短い。でも、それで十分だった。真上固定を使いすぎると、ドローンが戻り風を食う。高所レールカメラがあるからといって油断はできない。自分のカメラでしか拾えない流れがある。なら、使う場所を選ぶしかない。


ミラが少し前に立っている。黒いジャケット。右手のグローブ。今日はいつもより背中が静かだった。落ち着いているようにも見えるし、逆に落ち着きすぎているようにも見える。


透はその背中を見て、昨日の言葉を思い出した。


逃げない。ここで勝つ。


短い言葉ほど重いことを、この人の隣にいると嫌でも覚える。


---


特番は、最初から配信の温度が違った。


待機から本編へ切り替わる瞬間、コメント欄の流れが一段変わる。速いだけじゃない。密度が違う。一行ごとの間隔がなくなって、文字が面になる。


『来た』

『特番本番』

『MIRA話題枠から食えるか』

『昨日の火種ごと飲み込め』

『神回頼む』

『労災申請フォーム、今日は公式版ですか』


笑っている。笑っているくせに、全員が本気で覗いている。


透はカメラを構えた。右肩に落ちる重さ。前腕の縫い目の浅い痛み。ストラップの食い込み。全部が、もう体の位置を決めるための部品になっている。


ディレクターの声がインカムで全体へ流れる。


「前半、昇降炉外周の導入。中盤、中央床への寄せ。終盤でメイン大型入ります。固定は全体、レールは上抜け優先。佐久間さん、自由で」


自由。


この会場で一番危ない言葉だと思った。自由というのは、責任の別名だ。


ミラが小さく言う。


「聞こえた?」


「はい」


「今日、落とさないで」


落とすな。物理的にも、フレームとしても、流れとしても。


透は短く頷いた。昨日までの「分かってます」とは少し違う。もう、分かっているかどうかの話じゃない。回す。仕事として、それだけが残っていた。


---


最初の群れは、導電狐だった。


中央昇降炉の外周レールを伝って走る。灰色の細い体。背筋に沿って青白い筋。光と音に寄る癖。制御区画で何度も見た相手だ。


だが今日の違いは、空間の広さだった。


広い場所では、敵は数より散り方が厄介になる。狭い場所では流れが一本になる。広い場所では、その一本を何本にも割られる。割られた流れを、もう一度こちらでまとめ直さなければ、フレームも戦況も薄くなる。


グラナイト・ホロウが先に踏み込んだ。床を鳴らす一歩。正面のヘイトを引く。見せるための踏み込みだ。でも、今日はその見せ方が必要だった。広い場所では、主導権を誰が握ったかを最初に視覚で示さないと、映像が散る。


透はそこで引いた。


寄らない。まず、空間を残す。


グラナイトの正面。ミラの左後方。導電狐の散り方。外周レールのカーブ。全部を一枚に入れる。いきなり盛らない。先に状況を残す。編集点はあとで作れる。今はまず、何が始まったか分かる構図だ。


導電狐が三方向へ散る。


透は補助灯を一度だけ低く振った。中央ではなく、右側の床すれすれ。光に寄る癖を、ほんの少しだけ引っかける。先頭の群れの首が流れる。


そこへグラナイトがぶつかる。


正面の圧を受ける役目は、今はグラナイトだ。なら、ミラの仕事は正面じゃない。


透はドローンを上げた。高くしすぎない。真上に入れると、まだ戻り風が怖い。斜め前。昨日壁に書いた数字より、ほんの少し低い高さ。


ドローンの音で、後列の端が左へ寄る。


「左、細い」


一語だけ出した。


ミラが入る。白い刃が、一番薄い線だけを抜く。


正面ではグラナイトが押し、左ではミラが最短を取る。導電狐の流れが二本に割れ、その二本がまた一度だけ中央へ戻る。


透はそこで初めて寄った。


グラナイトの肩越しにミラの白を通す。白い刃の奥に、まだ割れていない導電狐の背筋が見える。「次」が分かる一枚。現在と予感が同居するフレームは、視聴者を離さない。編集室で覚えた。熱量は、先を見せたときに跳ねる。


コメント欄が速くなる。


『うわ』

『もう分かりやすい』

『何起きてるか見える』

『固定より状況わかる』

『これ導入から完成してる』


その文字列を見た瞬間、胸の奥で何かが小さく鳴った。


まだ早い。自分でそう思って、コメント欄から意識を剥がした。


---


中盤で、空撮を使う場面が来た。


中央床へ降りる導線。外周から中央へ渡る細い橋が三本。下は昇降路の暗がり。落ちれば即死ではない。でも、戻っては来られない高さだった。


敵はスパークバット。青白い火花を散らしながら、上から落ちる。


地上の固定だけでは、何が起きたかが潰れる。誰がどの橋を選び、どこで落とされかけたのかが分からない。ここで必要なのは、顔じゃない。構図でもない。選択そのものが見える絵だ。


透はドローンを上げた。


戻り風。昨日のざらつきが、少しだけ指先へ伝わる。高い場所ほど、空気は正直だ。甘く操作すると、すぐに逃げる。


《微風》を一枚だけ走らせる。押し返さない。傾きを直すだけ。昨日の吹き抜けで覚えた手。風に勝つんじゃない。風と喧嘩しない姿勢だけを作る。


ドローンが安定した。


真上ではなく、やや前。三本の橋が全部見える高さ。ミラの進路と、グラナイトの進路が別れて、その先でまた交差する高さ。


下から見れば派手だ。上から見れば戦術になる。


スパークバットが落ちる。右橋に重く、中央に厚く、左橋にひとつだけ薄く。


グラナイトが中央を取る。ミラは左に見せかけて、途中で中央へ寄る。


その見せかけが上からだと分かる。下からだと、速かったで終わる。上からだと、騙したことが見える。


透はそこで光を入れた。補助灯を下から当てるんじゃない。橋の側面だけを薄く拾う。橋の幅が見える。危険が見える。危険が見えると、動きが速く感じるんじゃない。正確に感じる。


グラナイトが中央の群れを受ける。ミラがその影へ入る。上から見ると、二人の動線が一度だけ交差した。


その交点へ、スパークバットの影が落ちる。


透は一瞬だけ、ドローンを前へ滑らせた。交点の先を見せるためだ。今の一手じゃない。次の一手のための一枚。


ミラが見上げずに斬る。グラナイトが受け流した残りを、右橋へ押し出す。火花が散る。三本の橋の上で、青白い線と白い刃が同時に走る。


コメントが跳ねる。


『空撮やば』

『何してるか全部わかる』

『橋の幅見えるのこわい』

『上からだと戦術だ』

『カメラマン視点ほしい』


最後の一行が、少しだけ喉に引っかかった。


視点が欲しい。画面の向こうは、もう次を言い始めている。今できることを出した瞬間に、次の飢えが生まれる。


でも今は、それを考えている余裕がない。


ドローンを戻す。風に食われる前に、次へ繋げる。


編集前提。この一語が、今の透の中ではかなり大きい。綺麗な一枚を撮るだけじゃ足りない。あとで繋いだときに意味が増えるように、入りと抜けを残す。熱狂のあとに、ちゃんと次が来る絵。それを意識できるようになったのは、編集室の青い光の中で、何度も素材を墓場送りにしたからだ。


---


光を完成形で使えたのは、その次だった。


中央制御盤の残骸付近。天井の非常灯が白く硬い。横の仮設モニターが青い。床の油膜が鈍く返す。普通に撮れば全部が喧嘩する。顔も、刃も、背景も、全部がそれぞれ勝手に主張して、結果として何も残らない。


しかもここで入ってきた敵が、レールハウンドと導電狐の混成だった。強くはない。でも混じると軌道が読みにくい。


グラナイトが前へ出る。ミラが半歩遅れて入る。


ここで、二人の映り方がぶつかった。


グラナイトは正面から立ちたい。ミラは横顔を死なせたくない。


昨日までの透なら、ここで薄めていた。両方少しずつ拾って、どちらも少し足りない一枚にしていたと思う。


今日は違った。


順番がある。


一番上は生き残ること。次に状況。その次に主導権。そのあとに、誰をどう立てるか。


主導権は今、ミラだった。


グラナイトが圧を受けている。ミラが細い線を見つけている。なら今は、ミラを立てる。


面光を作る。昨日までは手順だった。灯体の前に薄膜を挟み、《微風》で均す。今日は手が勝手に覚えている。考える前に指が動いて、考えたあとに光が立つ。順番が逆転していた。


それが、上手くなるということなのかもしれない。


白を上げる。上げすぎない。目に一点だけ入れる。顎の下は殺しすぎない。髪の線だけ拾う。飛沫は芯だけ外して端を残す。


昨日金属台の上に書いた条件が、今日の手の中でそのまま動いた。


ミラの顔が立つ。疲れは消えない。でも、削れた顔じゃなく、戦っている顔になる。剣の白が刺さらない。面で広がる。導電狐の青筋と、レールハウンドの灰色が、背景へ沈まずにちゃんと別れる。


そこへ、レールハウンドが横から走った。


透は補助灯を振らなかった。今の光を殺したくなかったからじゃない。今の主導権はもう出来ているからだ。


ミラが、そのまま斬った。白い刃。灰色の殻。青白い筋。面光の中で飛ぶ飛沫。


綺麗だった。


綺麗なだけじゃない。何がどう斬られたか分かる綺麗さだった。


それを、透はほんの少しだけ寄って撮った。


寄りすぎない。頬の線、剣の白、その下の足場。三つだけ。この距離を、体が覚えていた。何話前に鉄板の上で刻んだ距離か、もう正確には思い出せない。でも手が知っている。手が知っていることは、もう自分のものだ。


コメント欄が、そこで一度だけ止まった。


止まって、一拍遅れて爆発する。


『うわ』

『顔えぐ』

『今の角度やば』

『何これ』

『これ配信か?』

『現場で編集してるみたい』


その言葉を見た瞬間、胸の奥が少し熱くなった。


嘘じゃない。

でも、まだ足りない。


嘘じゃないことを、もう一枚で証明する。


---


終盤で、大型が入った。


昇降炉の奥。死んだシャッターの向こうから、重い音が響く。一歩ごとに床の下の鉄骨が鳴る。金属を踏むというより、空間そのものを押してくる音だった。


ディレクターがインカムで短く言う。


「大型入ります。メインです」


その声に少しだけ熱があった。言葉を整える余裕がない声。本当に欲しかった絵が、今から来るときの声だ。


出てきたのは、ガルドレッドだった。


レールハウンドやバスファングとは違う。大きい。硬い。遅くない。正面から受けると、流れが一度全部止まるタイプの獣。押し込みじゃなく、圧殺だ。


グラナイトが低く笑った。


「これ、好きじゃない」


ミラが短く返す。


「珍しく意見が合うわね」


二人とも嫌っている。嫌っているのに、前に出るしかない。


ガルドレッドの厄介さは、正面を受けた瞬間に左右の逃げ道まで殺すことだった。広い会場なのに、こいつが中央を取ると全部が狭くなる。


透は床を見る。油膜。中央の継ぎ目。固定カメラの死角。レールカメラの滑走範囲。ドローンの音が最も効く角度。空間把握が一気に線を吐く。


ここで、全部が重なった。


寄り。空撮。光。戦術。撤退判断。編集前提の絵作り。


今まで別々に持っていたものが、やっと一つの動きになろうとしている。体の中で、ばらばらだった引き出しが同時に開く感覚。怖い。怖いのに、手が震えていない。


ガルドレッドが正面を来る。グラナイトが受ける準備をする。ミラは左から入る構え。固定カメラは正面のヒーローショットを狙っている。


それでは足りない。


透は、引いた。


大胆に。正面から外す。


この瞬間、一番大事なのは顔じゃない。必殺でもない。どう勝つかが見えることだ。


ガルドレッドの進路。グラナイトの受け。ミラの回り込み。床の油膜。その全部が一枚に入る位置へ、自分の体を置いた。


ドローンを低く上げる。真上ではない。少し斜め後ろ。退路が見える高さ。


ガルドレッドの視線が上を向く。音だ。音に反応した。一拍だけ、首が上がる。


その一拍で、透は補助灯を右へ薄く振る。眩ませない。視線を切るだけ。ガルドレッドの重心が、ほんの少しだけ右へ流れる。


グラナイトが真正面を受ける。だが受け止めない。半身で流す。重い。靴底が床を削る音が、インカム越しに聞こえた。


その右流れの隙間へ、ミラが左から入る。


最短。


白い刃が、ガルドレッドの首の付け根へ入る。だが、それだけでは足りない。硬い。


透はそこで、初めて空撮を一段下げた。斜め上から斜め横へ。必殺の角度へ、自分から寄っていく。


ガルドレッドが首を振る。刃が外れかける。


その瞬間、グラナイトが押した。真正面ではなく、肩で。ミラの白い刃が、押された首筋に沿って一段深く沈む。


そこへ、面光が当たった。


白すぎない。冷たすぎない。死んで見えない。目の一点、刃の白、飛ぶ飛沫、その全部が一枚の中で喧嘩しない位置。


ミラの横顔。グラナイトの肩。ガルドレッドの崩れる頭部。その向こうに、中央昇降炉の高い天井。


全部が、ぴたりと噛み合った。


その一瞬だけ、会場の音が消えた気がした。


本当は消えていない。コメントも、インカムも、機材音も、全部鳴っている。でもファインダーの中だけが静かだった。


静かな一枚だけが、あとで長く残る。編集室で覚えた。熱狂の中心には、必ず一瞬だけ静かな核がある。


シャッターを切る。


ガルドレッドが崩れる。白い刃が抜ける。飛沫が光る。グラナイトの肩が沈み、ミラの目だけがまっすぐ前を見ている。


これは偶然じゃない。


全部選んだ。場所を。光を。角度を。タイミングを。全部選んで、ここに立って、この一枚を作った。


胸の底が熱い。嬉しいのとは少し違う。もっと静かで、もっと深くて、もっと怖い。できてしまった、という感覚。


できてしまったものは、次からは「できて当然」に変わる。その気配が、もう背中に乗り始めていた。


コメント欄が完全に壊れた。


『うわああああ』

『えぐい』

『今の何』

『映画超えた』

『これ伝説だろ』

『カメラ入ってなかったら意味わからん』


伝説。


その言葉は、今はまだ早い。

でも否定できる自信もなかった。


---


配信が終わったあと、会場の熱はすぐには落ちなかった。


固定カメラが停止する。待機音が消える。照明が一段落ちる。


それでも、人の体だけがまだ本番の中にいる。スタッフの歩幅が速い。切り抜き班がもう秒数を叫んでいる。玲奈は電話を取る前から営業の顔をしていた。


コメント欄の残り火が、まだ流れている。


『うわああああ』

『えぐい』

『今の何』

『映画超えた』

『これ伝説だろ』


伝説。その言葉は、今はまだ早い。

でも否定できる自信もなかった。


グラナイトが近づいてきた。笑っている。だが、今日はいつもの軽さだけじゃなかった。


「……次は、もうちょっと前に出るわ」


冗談っぽく言う。でも目だけは本気だった。悔しさのある笑いは信用できる。悔しがれない人間より、ずっとましだ。


ミラが一瞥もくれずに言う。


「どうぞ。追いつけるなら」


グラナイトが一瞬だけ黙り、それから本当に笑った。声の奥に、負けを認める音が混じっていた。


白石が缶コーヒーを開ける。


「浮かれるな。まだ終わってない」


短い。だが、その一言で昇降炉の熱が少しだけ現場へ戻る。


まだ終わってない。


透もそう思った。ガルドレッドは落とした。コメントは壁を越えた。でも、終わった感じがしない。


終わった直後に、空間が少しだけ静かすぎた。


その静けさが、昨日から首の後ろに残っているざらつきと、どこか同じ匂いをしていた。


透はカメラのバッテリー表示を見た。残量が底に近い。充電器を探そうとして、ケースの留め具に手をかけた。体が休もうとしていた。


その手が止まる前に、玲奈が電話を切った。


少しだけ速い歩幅。少しだけ作った表情。


「運営です」


嫌な言葉だった。数字が出た直後の「運営です」は、たいてい良い知らせの顔をして近づいてくる。でも中身は、現場にとってあまり良くないことが多い。


玲奈がタブレットを向けた。公式ロゴ。内部連絡。簡潔な文面。


『追加ミッション要請』


透の喉が、少しだけ乾いた。


ミラが先に聞く。


「内容は」


玲奈が答える。


「本番後の特設追加枠です。会場奥の予備区画で、特番限定の追加入場をかけたいと。今の数字なら、視聴維持も新規流入も見込めると判断されています」


視聴維持。新規流入。


綺麗な言い方だった。要するに、今が一番見られているから、もっと危ない場所へもう一回入れ、ということだ。


白石が缶を机に置いた。


「ふざけるな」


珍しく、即答だった。


玲奈は営業の顔のまま続ける。


「断ることは可能です。ただ、特番枠の評価には影響が出るかもしれません」


影響。


その一語で、また金と数字の匂いが戻ってきた。勝った直後の空気に、もう次の鎖が差し込まれている。


ミラは何も言わなかった。ただ、右手のグローブの指先だけが静かに閉じていく。


透はそこで、はっきり分かった。


終わっていなかった。今日の神回は、終わりじゃない。次の扉だった。


しかもその扉は、最初から少しだけ壊れている。


中央昇降炉の上で、仮設モニターの裏の風がまだ少しだけ濁っていたように。完璧に見える会場ほど、次の危険は綺麗な顔をしてやって来る。


ミラがようやく口を開いた。


「……場所は?」


白石が低く言う。


「聞くな、ミラ」


でもミラは、前を向いたままもう一度言った。


「場所は、どこ」


玲奈がタブレットを見下ろす。


「会場奥、昇降炉の予備制御層。仮設照明は入りますが、固定は最低限です」


最低限。


その一言だけで十分だった。綺麗な会場の、綺麗じゃない奥だ。


透はカメラを持ち直した。右肩が鳴る。前腕の縫い目が脈を打つ。さっきまで神回のあとだったはずなのに、もう体は次の現場の重さを探している。さっき休もうとした手が、もう道具を握り直している。体は知っている。ここで降りる選択肢がないことを。


ミラがほんの少しだけ振り返った。


「佐久間」


「はい」


「まだ、落とせる?」


問いだった。命令じゃない。だが、だからこそ重かった。


透はすぐには答えられなかった。答えられないまま、特番会場の高い天井を一度だけ見上げた。


世界が見てる。


その言葉の意味が、さっきまでと少し変わっていた。見ている世界に勝つだけじゃない。見ている世界に、もっと危ないほうへ押されることも含めて、世界だった。


透は、ゆっくり息を吸った。


「……場所を見ます」


それが今言える、いちばん正しい言葉だった。


ミラの目が、ほんの少しだけ細くなる。否定しない。肯定もしない。ただ、その目の奥に、さっきの戦闘中と同じ光があった。


信じているんじゃない。試している。


でも、試されることを嫌だと思わなかった。試される場所に立てている。それだけで、昨日までとは違う。


昇降炉の仮設モニターでは、さっきの必殺がもう切り抜きで再生されている。白い刃。崩れる巨体。あの静かな一瞬。


神回は、もう過去になり始めていた。過去になった瞬間から、運営は次を欲しがる。


それがこの業界の速さだった。


そして、その速さの先にある追加ミッションは、たいていたちが悪い。


肩の上の空気が、また一段厚くなった。さっきの「できてしまった」の感覚と、今の「まだやるのか」が、同じ場所に重なっている。


透は歩き出した。ミラの三歩後ろ。その距離は変わらない。


変わらないことだけが、今は少しだけ心強かった。


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