訓練①:寄れ(ただし死ぬな)
訓練場は、ダンジョンの中にあった。
やめてくれ、と思った。
地上のスタジオとか、空き倉庫とか、コーンを立てた駐車場とか。そういう場所でやるものだと思っていた。寄る訓練。画角を作る訓練。足場と距離の練習。そういうものは、死なない場所でやるものだと、まだどこかで信じていた。
甘かった。
自分の中に残っていた「普通」が、また一枚剥がれた気がした。
Aゲートの裏手。使われなくなった中層の採掘区画。採れるものは採り尽くされ、壁には古い削り跡だけが残っている。モンスターの湧きは弱い。弱いだけで、ゼロじゃない。落ちたら死ぬ高さもある。天井から鉱片が落ちる場所もある。壁際には、誰かが以前使ったらしい機材ケースがいくつか積まれていて、埃を被っていた。
ここで撮った人間が、前にもいたということだ。
その人間が今どうしているかは、考えないことにした。
白石が言った。
「現場で使うことは、現場で覚えろ」
声に温度がない。昨日と同じだ。この人の声はいつもそうだ。温度がないぶんだけ、意味だけが正確に届く。優しい言い方をされたら、たぶん俺は甘えていた。
ミラは当然みたいな顔で、先を歩いていた。黒いジャケット。右手のグローブ。細い背中。C-7で巣を斬り払った翌日の人間には見えない。疲労を隠しているんじゃない。疲労が表に出る前に、歩き方の底へ沈めている。そういう生き方を、たぶんずっと前からしている。
俺は新しいカメラを肩にかけ直した。右肩が鳴る。前腕の縫い目が、動くたびに皮膚の下で引きつる。体はまだ昨日のままだった。
昨日までの俺なら「無理です」と言っていた。
今は言わない。言ったところで訓練が消えないことを、もう知っている。消えないなら、口を閉じたほうが体力が残る。ここに来て覚えた、最初の節約だった。
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白石が足を止めた。
採掘区画の広間。天井は高い。壁には古い補強材が走っている。床には幅の違う鉄板が何枚も渡してあった。鉄板と鉄板のあいだに隙間がある。その下、三メートル。
落ちても死にはしない。
死にはしないが、骨は折れる。折れたら撮れなくなる。撮れなくなるほうが、今は死ぬより怖い。その優先順位が壊れていることには、自分でも気づいていた。気づいていて、直す気がない。直したら、たぶんここに立っていられない。
白石がクリップボードを脇に挟む。
「今日は“寄り”だけやる」
それだけで胃が重くなった。
ミラが剣を抜いた。鞘鳴りが、朝の冷えた空気の中で乾いていた。刃だけが先に目を覚ましている音だった。
「佐久間」
名前を呼ばれると、背骨が一本増えたみたいに姿勢が変わる。自分の意思じゃない。この人の声が、体を直接触ってくる。
「今日は盛る。敵は弱い。だから画だけで勝つ」
ひどい理屈だった。
敵が弱い。だから寄れ。
危険が少ない。だから距離を詰めろ。
本番じゃない。だから死ぬな。
全部正しい。全部嫌だった。正しくて嫌なものが、一番たちが悪い。逃げ場がない。
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最初にやらされたのは、戦闘ですらなかった。
白石が鉄板の上に立つ。ミラがその前に立つ。俺はカメラを構える。三人。鉄板。三メートルの空洞。それだけ。
「寄れ」
ミラが言う。
歩幅を一つ詰めた。
「まだ遠い」
もう一歩。
「顔が弱い」
もっと近づく。
「近いだけ」
言い方が最悪だった。
近いだけ。その通りだった。距離は縮めた。でも画は良くなっていない。ミラの顔が大きくなっただけだ。背景が死んだ。姿勢が窮屈になった。呼吸でフレームが揺れている。近づくことに意識を取られて、画を見る目が閉じていた。
近づくことが目的になっていた。
手段と目的を取り違えるのは素人だ。分かっている。分かっていて、まだやる。だから訓練なのだと、頭の端で理解した。
白石が横から言う。
「距離を詰めるのと、寄るのは別だ」
分かるようで、分からなかった。
ミラが剣を肩に担いだまま言う。
「寄りは“見せたいもの”を大きくすることでしょ。私の顔を大きくすることじゃない」
その一言が、腹の底に落ちた。
見せたいもの。
顔だけじゃない。
目線。
顎の角度。
剣の白。
足場の細さ。
呼吸は見せない。
でも緊張は見せる。
必要なものだけを一枚に入れる。そのために寄る。距離を詰めるんじゃなく、要らないものを削りに行く。
ミラが立ち位置を変えた。鉄板の端。下に三メートルの空洞。右肩に剣。左足が半歩前。風が下から吹き上がって、髪の先を揺らした。
「ここから、私の目と足場を同時に入れなさい」
正面から寄ると足場が消える。引くと目が死ぬ。横に回れば、俺が落ちる。
《空間把握》を薄く開いた。ミラの輪郭。足場の端。レンズの角度。自分のつま先の置き場。全部が白い線で浮かぶ。白い線は答えをくれない。選択肢を並べるだけだ。選ぶのは俺の足だった。
一歩、右。
膝を落とす。
レンズを少し下げる。
呼吸を止める。
ファインダーの中で、ミラの目と、左足の下の空洞が同時に入った。目の冷たさと、空洞の暗さが、一枚の中で繋がった。この人はいつも、こういう場所に立つ。足元が落ちる場所に、平気な顔で立つ。
「……それ」
ミラが言った。短い。短すぎて、続きがあるのかと思った。なかった。それだけだった。
初めて、一発で通った。
胸の奥で硬い音が鳴った。嬉しいとか達成感とか、そういう丸い感情じゃない。噛み合った、という音。ずれたまま回っていた歯車が、一瞬だけ正しい位置に落ちた感覚だった。
白石がすぐに言う。
「今の距離、言え」
距離。見た。感じた。合わせた。でも数字にしていなかった。していないことに、言われて初めて気づいた。体は覚えている。頭が追いついていない。
「……一メートルくらい」
白石の目が冷えた。
ミラが苛立った顔で言う。
「佐久間。二度と“くらい”で撮らないで」
白石が床にチョークで線を引いた。俺のつま先の位置。それからメジャーを伸ばす。レンズ先端からミラの目まで。
「九十三センチ」
言い切った。
「次からそれを覚えろ。感覚のまま撮ると、疲れた日に死ぬ」
九十三センチ。数字が入る。さっきまで“合った”だけだった場所に、座標が貼られる。偶然が再現に変わる瞬間だった。昨日の俺はまぐれで撮った。今日の俺は、まぐれに名前を付け始めている。
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次は動きが入った。
ミラが鉄板の上を歩く。狭い。左右に余白がない。下は三メートル。剣は抜かない。ただ歩くだけ。
「寄れ」
九十三を思い出す。でも静止と歩行では全部が違う。歩けば肩が揺れる。足場がしなる。ミラの歩幅に合わせて、こっちも動く。九十三は静止の数字だ。動く九十三は、もう九十三じゃない。
ミラの後ろを追う。九十三のつもりで寄る。ファインダーが揺れた。ほんの少し。でも、ほんの少しで画は安っぽくなる。編集室で見た。〇・二秒の迷いが、全部を殺す。
ミラが止まった。
「揺れてる」
「はい」
「怖がってる」
返事が一拍遅れた。認めたくなかった。でも嘘をつける相手じゃない。
「……はい」
白石が言う。
「怖がるな、とは言わない。怖がっていい。揺らすな」
無茶だった。怖くて揺れるのは、体の正直な反応だ。それを止めろと言っている。感情は許す。出力は許さない。体の中で完結しろ、と言っている。
でも白石の言葉はいつも構造が正しい。正しいから逃げられない。怖さは消えない。消えないなら、揺れに変換させなければいい。体の中で怖がれ。フレームには出すな。
白石が鉄板の脇を指す。
「膝で吸え」
言われてみれば、俺は上半身だけで抑え込もうとしていた。右肩は壊れている。壊れている部位に、さらに壊れる仕事を押しつけていた。痛い場所に頼るのは、信頼じゃなく惰性だ。
膝を緩める。足場のしなりに合わせて、下半身で先に沈む。カメラは少し遅れて追う。自分の揺れを、足で殺す。殺すという言い方が合っていた。揺れは生きたまま画に出る。だから殺す。
ミラがまた歩く。追う。
さっきより揺れない。ゼロじゃない。でも画が死んでいない。鉄板の端。ミラの足。目線。剣の柄。全部がばらけずに一枚の中に留まっている。
白石が言う。
「今の距離」
「百五くらい――」
「メジャー」
百七。
二センチ外した。でも九十三より大きい。歩くと離す。静止と歩行で数字が変わる。当たり前のことが、当たり前じゃない重さで体に入ってくる。知っていたのと、数字で持つのは違う。
白石がチョークを投げてよこした。受け取った。しゃがんで、鉄板の端に書く。
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汚い字だった。チョークの粉が指について白くなった。でも、これで次は迷う時間が減る。迷いを減らすために、地面に字を書く。地味だった。華やかさのかけらもない。でもこれが訓練で、これが仕事だった。
ミラがそれを見下ろした。口角がほんの少しだけ上がった。
「やっと脳が追いついてきたわね」
褒めてはいない。でも昨日までの「道具」とも違う声だった。道具は数字を書かない。道具は学ばない。学び始めた何かを、ミラは別の呼び方でまだ呼んでいないだけだった。
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三回目で、敵が出た。
白石が言った。弱い群れ。灰色の小型。足場の下から這い上がってくるタイプ。速くない。でも低い。足元から来る。ストラップに爪をかけるには十分な速さで、地面を這う。
配信は回していない。コメントもない。見ているのは白石とミラだけ。
なのに、配信のときより怖かった。
何万人に見られているほうが、まだ楽だ。数が多ければ視線が散る。今は二人しか見ていない。二人とも、嘘が通じない目をしている。
寄生型が足場の下から這い出た。灰色の外殻。鉄板の端に爪がかかる音が、小さく、硬く響いた。
ミラが剣を抜く。白い冷気。狭い鉄板。下は三メートル。
「寄れ」
来た。
九十三。いや、動く。百七。いや、敵が下から来るなら、もっと低くないと見えない。膝を落とす。右肩を固めるな。膝で吸う。ミラの目と、足場と、敵の上がり口を同時に入れる。
寄る。
近い。
怖い。怖いが、揺らすな。体の中で怖がれ。フレームに出すな。
寄生型が足場に爪をかけた。灰色の頭が鉄板の端からのぞく。ミラの剣が落ちる。白い軌跡。殻が割れる。黒い飛沫が上がる。
《微風》を薄く走らせた。レンズ前の空気だけを撫でる。飛沫が端へ流れる。画は汚れない。
ミラが二体目へ踏み込む。俺も半歩だけ寄る。九十三に近い距離。でも今は動きがある。百七。いや、もう少し近い。頭の中で数字がぶつかる。ぶつかっている間にも、ミラは前に出ている。置いていかれる。数字を追うか、画を追うか。
画を追った。数字を捨てた。
ミラが止まった。
「遅い」
心臓が詰まる。
「今、迷った」
見られていた。数字と画の間で迷ったことが、全部見えていた。ファインダーの中のミラは完璧に見えていたのに、ミラのほうからはこっちの迷いが丸見えだった。
白石が言う。
「迷うのはいい。迷う時間を短くしろ」
寄生型の残骸を靴で払って、続ける。
「今のは一秒二。お前が迷ってから足を出すまで」
一秒二。長すぎる。深層なら死んでいる。C-7でも危なかった。本番で一秒二の迷いは、そのまま落下に繋がる。一秒二は、考えている時間じゃない。怖がっている時間だ。怖がること自体は許されている。でも一秒二も怖がることは許されていない。
俺はチョークを拾って、鉄板に追記した。
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汚い数字が増える。増えるたびに、感覚が座標に変わる。座標に変わるたびに、再現に近づく。再現できるということは、明日もやれるということだ。明日もやれるということは、まだ辞めないということだ。
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昼前には、鉄板の端が数字だらけになっていた。
距離。距離。秒数。足場ごとの補正。寄りすぎたとき何が消えるか。全部をチョークで書いた。最後の一行は、
寄りすぎ=足場消える
書いてから少し笑いそうになった。当たり前すぎることを、わざわざ鉄板に書いている。でも当たり前のことを体が忘れるから、地面に書く。笑ったら腕が痛むからやめた。痛みが笑いを止める。便利な体になったものだと思った。便利だと思ったことが、少し怖かった。
ミラは一度も休まなかった。休んでいるのかもしれない。でも俺に分かる形では休まない。剣を下ろす。呼吸を一つ整える。それでもう次に入る。休憩と準備の境目がない。全部が地続きで、全部が本番の一部だった。
白石はもっと休まない。コーヒーを一本追加しただけで、ずっと見ている。見て、捨てて、言う。良い。遅い。近いだけ。揺れてる。必要な言葉しか出さない。必要な言葉以外を出さないことが、この人の優しさなのだと気づいたのは、たぶん三周目の途中だった。余計なことを言わないのは、余計なことで俺の頭を埋めないためだ。
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三周目の最後。ミラが鉄板の先端で止まった。
足場の終わり。その先は空洞。下は三メートルの暗がり。ミラの足先が、鉄板の縁からほんの少しはみ出していた。
「最後。ゼロ距離」
胃が締まった。
ミラが剣を肩に担ぐ。
「私の頬の線、剣の白、足場の空洞。この三つ。全部入れて」
《空間把握》を開く。
ミラの頬。剣の角度。足場の切れ目。俺のつま先の置き場。全部が白い線で重なる。線が多い。多すぎて、答えが見えない。
――削る。
要らない線を消す。壁は要らない。天井も要らない。ミラの背中も、今は要らない。頬。剣。空洞。三つだけ残す。
少し左。膝を落とす。レンズを斜め上に傾ける。呼吸を止める。足の裏が、鉄板の冷たさを感じている。指先が、カメラの重さを感じている。目だけが、ファインダーの中にいる。
入った。
頬の線。その横に剣の白。白の下に、足場の終わり。三つが一枚に重なった。
距離は、ほとんどなかった。九十三より近い。でも触れていない。近いだけじゃない。必要なものだけが残っている画。要らないものが全部消えている画。
寄るとは、こういうことだったのかと、ファインダーの中で思った。距離を詰めることじゃない。要らないものの居場所を消すことだ。
ミラが動かなかった。
沈黙が落ちた。長い沈黙だった。鉄板の軋む音も、地下の風も、全部が遠くなった。ファインダーの中のミラの目だけが近かった。冷たい目。でも、その奥の奥に、ほんの微かに揺れているものがあった。
何に揺れたのかは分からない。
「……今の距離」
白石が言う。
口の中が乾いていた。舌が上顎に貼りついている。でも、今度は答えられた。
「七十四」
メジャーが伸びる。
「七十六」
二センチ。
白石が、初めてはっきりと頷いた。一回だけ。深く。それで全部だった。
ミラが口を開きかけて、閉じた。開きかけたことのほうが珍しかった。何を言おうとしたのかは分からない。代わりに出てきた言葉は、いつもの声だった。
「やっと“寄れ”の意味が分かった?」
「……少し」
「遅いわね」
そう言って、ミラが剣を下ろした。
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そのときだった。
壁際に積まれていた機材ケースの一つから、甲高い音が鳴った。
モーターの回転音。小さくて、軽い。
機材用の小型ドローンが、ケースの蓋を押し上げて浮き上がった。古い機体。埃を被っている。誰かが置きっぱなしにしていたものだ。
白石が舌打ちした。
遠くで作業スタッフが手を挙げる。
「すみません、バランステストだけです!」
白石の顔から、温度が消えた。もともと少ない温度の、最後の一度が消えた。
ドローンは三人の頭上を一周した。古い。小さい。軽いぶんだけ地下の気流に煽られて、ふらふらと不安定に回っている。煽られた先にあるのは三メートルの空洞だった。
ミラが上を見た。
俺も見た。
見た瞬間、頭の中に画が浮かんだ。
――空から見たら、全部が変わる。
足場の細さ。ミラの動線。敵の配置。地上からでは重なって見えないものが、上からなら全部分かれる。戦況カメラの、もう一つの目。
危険は増える。操作する手が要る。風に弱い。落ちたら機材ごと空洞に消える。でも――画が変わる。今まで撮れなかったものが、撮れるようになる。
考えるな。考えたら、やりたくなる。
遅かった。もうやりたくなっていた。
ミラが、こちらを見た。ほんの少しだけ笑っていた。嫌な予感しかしないときの笑いだった。この人がこの顔をするとき、次に来るのはいつも地獄だ。
「次、空から撮るわよ」
白石が即答する。
「落ちたら終わりだな」
止めない。この人も止めない。使えると思った瞬間に、次の場所へ進む。二人とも同じだ。見えた可能性を、見なかったことにできない人間だ。
ミラが俺を見た。まっすぐに。
「佐久間。次は空撮」
胸の奥が静かに冷えた。冷えたのに、指先は熱かった。怖いのに、カメラを握る手が緩まない。矛盾している。矛盾しているまま、ここに立っている。
白石がクリップボードに何かを書きつけた。
「明日、ハーネス増やす。風も要る」
風。
俺の《微風》のことだった。最初から計算に入っている。隠す段階はとっくに終わっていた。この人は見ていた。鉱層のときから。C-7のときから。レンズの前を撫でる小さな風を、全部見ていて、今日まで何も言わなかった。言わなかったのは、俺が自分で使うまで待っていたからだ。
鉄板の足元に並んだ数字を見下ろした。
93 / 107 / 76 / 1.2 / 0.8
地面に書いたはずの数字だった。地面に刻んだ、今日の全部だった。この数字は鉄板の上で、いつか誰かに踏まれて消える。消えても、体に残っている。残っていれば、また書ける。
寄れ。ただし死ぬな。
今日の訓練は、その二つだけだった。
次は――落ちるな、が加わる。
地面の数字が、空に繋がろうとしている。
ミラが歩き出した。訓練場の出口に向かう背中。黒いジャケットの肩が、少しだけ下がっていた。疲れている。やっと見えた。訓練の終わりにだけ、ミラは肩を一センチだけ落とす。
それを撮りたいと思った。
撮らなかった。
その一センチは、まだ誰にも見せていいものじゃなかった。




