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嘘のあとに、本当の朝を  作者: 久遠 睦


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硝子の城、瓦解する:審判の門を叩く

第3章:硝子の城、瓦解する


第1部:審判の門を叩く


 霞が関にある家庭裁判所の、重苦しい空気が漂う待合室。  知美は、背筋を真っ直ぐに伸ばして、無機質な長椅子に腰掛けていた。  窓の外には、都会の喧騒が広がっているが、この厚い壁の向こう側は、外の世界とは切り離された「家庭という名の戦場」の終着駅だ。


「佐藤さん、準備はいいですか?」


 隣に座る弁護士、佐野の声は低く、そして頼もしかった。彼女の膝の上には、知美と協力して作り上げた、真治の「裏切りの履歴書」とも呼べる厚い資料が置かれている。


「ええ。……怖くはありません。ただ、一刻も早く、あの男と同じ名字を捨てたい。それだけです」


 知美の答えは、一点の曇りもなかった。  一週間前、知美は署名・捺印済みの離婚届と、調停の申立書を提出した。それは、十八年という月日に自ら終止符を打つ、冷徹な儀式だった。    まもなく、家庭裁判所の職員によって名前が呼ばれた。  調停室――。  六畳ほどの狭い部屋には、中央に古びた長机があり、その向こう側には二人の調停委員が座っている。穏やかそうな年配の男女。彼らは、これまで何百、何千という「壊れた愛の残骸」を見てきた人種だ。


 離婚調停において、当事者は顔を合わせないのが原則だが、壁一枚隔てた隣の待合室には、間違いなく真治がいる。  その気配を感じるだけで、肌に冷たい粘土を塗りつけられたような不快感が走る。


「佐藤知美さん。……申立書を拝見しました。ご主人の不貞行為、および共有財産の無断持ち出しについて、強い憤りを感じていらっしゃると」


 年配の女性調停委員が、同情を含んだ目で知美を見た。  知美は、その同情を丁重に、けれど断固として受け流した。


「憤り、という言葉では足りません。これは、一人の人間の人生に対する略奪です。私は、感情的な謝罪を求めているのではありません。奪われたものを、正当な法的手続きに則って、一円の狂いもなく返していただきたい。それだけです」


 佐野が横から、一枚の表を差し出した。  真治が持ち去った貯金総額、結婚生活中に築き上げた資産のリスト、そして、彼が河野こうのに貢いだと思われる高級ブランドやホテルの利用明細。  それは、知美が真治の財布から、ゴミ箱から、そして彼の甘い言葉の裏側から、執念で掘り起こした「嘘の証拠」だった。


「……これほどの資料、ご主人は認めていらっしゃるのでしょうか?」


「いいえ」佐野が冷徹に告げた。「相手方は、現金の持ち出しについては『今後の自分たちの生活のために必要な、自身の正当な分け前である』と主張し、不貞についても『婚姻関係はすでに破綻していた』と言い張っています」


 破綻していた。  知美の胸の奥で、乾いた笑いが漏れた。    彼があのマンションで、知美の作った食事を摂り、知美が洗ったシャツを着て、知美が整えた寝床で眠っていた、あの日々。  それを「破綻」と呼ぶのなら、世の中のすべての献身は、ただの「虚無」でしかない。    調停が始まり、真治側の主張が調停委員を通じて知美に伝えられるたび、知美の心は凍りついていった。   『真治さんは、知美さんの完璧主義が苦痛だった。家の中でも常に評価されているようで、安らげなかった。河野さんだけが、彼をありのままの自分として受け入れてくれた。だから、これは不倫ではなく、真実の愛への移行なのだ』   『現金を持ち出したのは、知美さんが感情的になって、陽菜さんの学費を盾に彼を攻撃することを防ぐための防衛手段だ』    ――防衛手段。    知美は、膝の上で拳を握りしめた。  奪う者が、奪われる者に対して「防衛」という言葉を使う。その厚顔無恥さに、知美は目眩がした。   「……知美さん、大丈夫?」  佐野が小声で囁く。 「ええ。……大丈夫です。彼の言葉が醜ければ醜いほど、私の決意は固まりますから」


 調停の第一回目は、平行線のまま終わった。  裁判所を出ると、夕暮れの冷たい風が知美の頬を撫でた。    その時だ。   「知美!」    背後から、聞き慣れた、けれど今は聞くだけで耳を塞ぎたくなる声が響いた。  振り返ると、真治が足早に歩み寄ってくる。彼の顔には、先ほどまでの「加害者」の面影はなく、どこかすがるような、情けない色が浮かんでいた。   「待ってくれ! あんなところで話すと、どうしても事務的になってしまう。……二人だけで、少し話せないか?」


「佐野先生、先に失礼してください。……大丈夫です。もう、この人に揺さぶられる私ではありませんから」


 知美は佐野を帰し、裁判所の前の広場で真治と対峙した。


「話って何? 調停委員の前で言い尽くしたはずでしょう? 私は強すぎて可愛くない、あなたの幸福を邪魔する悪魔だって」


「……そんなふうには言ってない。ただ、俺たちの関係を法的に清算するにしても、もう少し、お前にも納得してほしいんだ。……お前は今、一ノ瀬のところでいい給料を貰っているんだろう? なら、あんな古い通帳の数字にこだわらなくても……」


「こだわらなくていい? あれは、私が十八年、自分の時間を切り売りして守ってきたお金よ。陽菜の未来よ! それをあの女の出産費用に使うなんて、どんな神経をしていたら言えるの?」


「彼女は……あの子は、今、不安定なんだよ! お前みたいに強くない。お前に冷たく突き放されて、毎日泣いているんだ。……このままじゃ、生まれてくる子供に障る。頼む、知美。せめて現金の返還請求だけでも、取り下げてくれないか?」


 知美は、目の前の男を、まるで道端に落ちている汚物を見るような目で見つめた。    ――この人は、最後まで私を「母」や「妻」という便利な殻に閉じ込めて、搾取しようとしている。    自分が幸せになるために、知美の犠牲は当然だと思っている。  知美が「強い」から、傷つけてもいいと思っている。   「真治さん。……一つ、勘違いしないで」    知美の声は、低く、けれど鋭い刃のように空気を切り裂いた。   「私は、強いから戦っているんじゃない。あなたが、私を戦わせているの。……あなたが、私と陽菜から『平穏』という権利を奪ったから、私はそれを守るために、武器を手に取った。……それを『怖い』と言うなら、一生怯えていればいいわ」


「知美……」


「離婚届は、もう受理されます。あなたはもう、私の夫ではない。ただの、返済義務のある債務者よ。……次に会うのは、法廷か、あるいはもっと残酷な場所になるでしょうね」


 知美は背を向けた。  背後で真治が何かを叫んでいたが、その言葉はもう、知美の心には届かなかった。    その夜。  知美はあけぼの荘の小さな部屋で、陽菜と向かい合っていた。  机の上には、一ノ瀬が「お祝いで貰ったけれど、僕には必要ないから」と言って譲ってくれた、最高級の和牛が並んでいた。


「……お母さん、今日、お父さんに会ったの?」  陽菜が、肉を焼きながら静かに聞いた。 「ええ。裁判所の前でね」 「お父さん、なんて?」 「……助けてほしいって。自分が幸せになるために、お母さんのものを諦めてほしいって言われたわ」


 陽菜は、ふっと冷めた笑いを浮かべた。 「……お父さんらしいね。最後まで、お母さんのこと、自分のための道具だと思ってる」


「でもね、陽菜。お母さん、全然、悲しくなかった。……ああ、この人を捨てて、本当に良かったって。心からそう思えたの」


 二人は、狭い部屋で、豪華な夕食を囲んだ。    真治が今、あのマンションで河野とどんな豪華な食事を摂っていたとしても。  知美たちのこの六畳一間の食卓の方が、ずっと、ずっと「本当」の味がした。    知美は、グラスに注いだ麦茶を一口飲み、窓の外を見つめた。    ――見ていなさい、真治さん。    あなたが「壊れそう」だと愛でているあの女。  彼女が、あなたの財産が、地位が、プライドが、私の手によって一枚ずつ剥がされていった時。  それでもあなたのそばで笑っているかどうかを。    硝子の城は、もう瓦解し始めている。  そしてその瓦礫の下に埋もれるのは、私ではなく、あなたの方よ。


 知美の瞳には、かつての優しい妻の影はもうなかった。  そこにあるのは、すべてを失った者が手に入れた、最強の「自由」の光だった。


 審判の門は、今、開かれた。  知美は、その向こう側にある「本当の勝利」へと、一歩、力強く踏み出した。



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