侵食する真実
第2部:侵食する真実
復讐とは、衝動的に刃を振るうことではない。 それは、相手が自分たちの足元に掘った穴を、時間をかけて、静かに、確実に広げていく作業だ。
知美は、経営戦略室の自席で、画面に並ぶ膨大なエクセルデータと対峙していた。一ノ瀬から任された仕事は、今や彼女の「盾」であり、同時に「矛」でもあった。数字は嘘をつかない。感情を排した冷徹な数字こそが、混乱した世界において唯一信頼できる地図だった。
「佐藤さん。例の件、動きがありました」
一ノ瀬が、周囲に聞こえない程度の声で知美に歩み寄った。彼は知美の個人的な事情を深く追求することはないが、彼女が「戦い」を完遂するために必要なリソースを、さりげなく、かつ完璧なタイミングで提供してくれた。
「調査会社からの報告です。ご主人の……いえ、佐藤真治氏の最近の資産動向。君の予測通り、かなり巧妙な操作が見られます」
知美は受け取った封筒を、デスクの引き出しにそっとしまった。 午後、知美は半休を取り、弁護士・佐野の事務所へと向かった。
佐野のオフィスに入ると、彼女はすでにいくつかの金融機関の記録を並べて知美を待っていた。
「佐藤さん、驚いたわ。あなたの記憶力と、執念の勝利ね」
佐野が示したのは、真治が知美に「生活費に必要だ」と言って持ち去った共有財産とは別の、不自然な資金の流れだった。
「彼はこの二年間、自分の給与の一部を、ある口座にコツコツと移していたわ。それも、本人の名前ではなく、河野の母親名義の口座にね。贈与税を回避するつもりだったのか、あるいは離婚を見越した財産隠しか。……いずれにせよ、これは悪質な隠匿罪に当たる可能性がある」
知美は、その口座の履歴を指でなぞった。 真治が「仕事が忙しい」と言って週末も家を空けていた時期。 陽菜の進学費用について「今の会社じゃ先行きが不透明だから、少しずつ切り詰めよう」と知美に説教していた時期。 彼はその裏で、愛人の親にまで金を流していた。
「……真治さんは、いつもこうでした」 知美の声は、自分でも驚くほど静かだった。 「自分が最も正しい場所に立っていると思わせるために、周囲に細かな嘘を散りばめる。その嘘を維持するために、一番身近な私を『足りない人間』だと思い込ませようとした」
「でも、その嘘もここまでよ。この記録を突きつければ、調停での優位は揺るがないわ。彼は持ち去った全額に加えて、慰謝料、そして将来の教育費の先払いも命じられることになるでしょう。……佐藤さん、あなたは彼を完全に破滅させたい? それとも、ただ正当な対価を奪いたいだけ?」
「破滅、ですか……」 知美は窓の外の、午後の気だるい日差しを見つめた。 「私が手を下さなくても、彼は勝手に破滅していく気がします。……彼が選んだ新しい世界が、それほど強固なものだとは到底思えませんから」
その直感は、数日後に証明されることになった。
知美は仕事帰り、陽菜の塾に届ける差し入れを買うために、以前住んでいたエリアに近い大きな駅の近くを通った。 そこで、偶然にも「彼女」の姿を見かけたのだ。
河野。 真治が「壊れそうに脆い」「俺がいないとダメだ」と熱っぽく語っていた二十四歳の女性。
百貨店で見かけた時の彼女は、真治にエスコートされ、幸福の絶頂にいるようだった。けれど、一人で駅前のドラッグストアから出てきた今の彼女は、その時とはまるで別人のようだった。
大きく膨らんだお腹を抱え、彼女はどこか怯えたような、疲れ切った表情をしていた。 かつての瑞々しい輝きは消え、髪は手入れが行き届かず、少しパサついている。 彼女が手に持っていたのは、特売の大きなトイレットペーパーのパックと、安っぽい惣菜の袋だった。
ふとした瞬間に、彼女が誰かに電話をかけているのが見えた。
「……うん、分かってる。でも、もうお家のお金、底を突きそうなの。真治さん、いつになったらあのマンション、売れるの? ……え、ローンが残ってるから無理って、そんなの聞いてない……」
その震える声。 知美は、物陰に隠れるようにして、その様子を観察した。 かつて自分が真治に抱いていたのと同じ、言い知れぬ不安と孤独が、今、あの若い女性を蝕み始めているのが手に取るように分かった。
真治は、自分の「英雄願望」を満たすために、彼女を理想化して奪ったのだ。 自分を支えてきた知美という土台を失った彼は、今やただの「ローンを抱えた、給料以上の贅沢を好む中年男」に過ぎない。 共有財産を隠した金があるとはいえ、調停が始まればそれも差し押さえられる。 豪華なマンションの維持費、新しい愛人との生活費、これから生まれる子供の費用。そして何より、知美から突きつけられる莫大な返還請求。
真治が彼女に語っていた「バラ色の未来」が、一気に泥色の現実に変色していく。 河野は電話を切ると、深く溜息を吐き、重い足取りでバス停へと向かっていった。 その背中に、かつての自分を重ねるような感傷は、不思議と湧かなかった。 ただ、一つだけ確信した。
真治という男は、自分がピンチに陥った時、一番身近な人間を「盾」にする。 知美がその盾であることを拒否した今、次に盾にされるのは、あの「壊れそうな」彼女なのだ。
「……お母さん、おかえり」
あけぼの荘に戻ると、陽菜がいつものように出迎えてくれた。 狭い部屋、一口コンロ。 けれど、そこには知美が自分の手で稼いだお金で買った、確かな生活があった。
「陽菜。……お母さん、今日、ちょっと怖いことを思ったわ」 「何が?」 「……相手を許さないことが、最大の救済になることもあるんだって」
陽菜は、少しだけ大人びた顔で微笑んだ。 「お母さん。……お父さんたちはね、自分たちが何をしたか、本当は分かってるんだよ。だから、あんなに必死に『自分たちが正しい』って言い訳するの。……お母さんが許さないのは、お母さんが自分を大切にしてるからだよ。私は、そんなお母さんが大好き」
陽菜の言葉に、知美の心に澱んでいた最後の一滴の迷いが消えた。
数日後。 次回の調停に向けて、佐野が真治の弁護士に「最終通告」を送った。 隠し口座の存在、不貞期間の精査、そして、共有財産の返還がなされない場合の刑事告訴の可能性。
その書類が届いたであろう翌日、真治から知美の個人用スマートフォンに、狂ったような勢いでメッセージが届き始めた。
『知美、やりすぎだ! こんなことをして、俺を刑務所に送るつもりか!』 『彼女が倒れたんだぞ! ストレスで早産の危険があるって言われた。お前のせいだ!』 『金なら返す! だから、刑事告訴の準備だけは取り下げてくれ。頼む、知美。昔の仲じゃないか……』
昔の仲。 その言葉が、知美の心を冷え冷えとさせた。 「魅力がない」と切り捨てた相手に、窮地に陥ると「昔の仲」と縋りつく。その一貫性のなさが、かつての自分をどれほど疲弊させていたか。
知美は、返信を打たなかった。 代わりに、そのすべてのメッセージをスクリーンショットに撮り、佐野に送った。 「証拠がまた増えました」と、一言だけ添えて。
知美は、新しい自分にふさわしい、真っ白なシャツの襟を正した。 明日からは、新しいプロジェクトの大きなプレゼンが控えている。 真治との決別という過去の清算と、自分のキャリアを築くという未来の構築。 その両輪が、今、力強く回り始めている。
夜、窓を開けると、心地よい夜風が吹き込んできた。 遠くに見える高層マンションの光は、もはや「憧れ」でも「未練」でもない。 それは、いつか崩れ落ちる砂の城の灯火にしか見えなかった。
――硝子の城は、外から壊す必要すらなかった。 ――内側から、自分の嘘と欲望に耐えきれず、自重で瓦解していく。
知美は、陽菜の寝顔を見つめながら、静かに目を閉じた。 嘘のあとに訪れる、本当の朝。 その朝を、誰にも邪魔させない。 知美は、泥の中から立ち上がった自分の足の裏に、確かな大地の鼓動を感じていた。




