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嘘のあとに、本当の朝を  作者: 久遠 睦


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審判のペン先

第3部:審判のペン先


 二度目の調停の日は、朝から容赦のない雨が降っていた。  あけぼの荘の建付けの悪い窓が、風にあおられてガタガタと鳴る。知美は、小さなキッチンで一人、濃いめのコーヒーを淹れた。以前のような豆の産地にこだわったものではないが、自分の稼いだ金で買った粉の香りは、今の彼女にとって何よりも深い安らぎを運んでくれる。


「……お母さん、雨、ひどいね」  起きてきた陽菜が、制服のカーディガンを羽織りながら、知美の横顔を覗き込んだ。 「ええ。でも、恵みの雨かもしれないわね。すべてを洗い流してくれるような」


 知美は微笑んだ。その瞳には、かつての「捨てられた妻」の怯えは微塵もない。  今日、すべてが決まる。  真治が隠し通せると信じていた「嘘」のすべてを、裁判所という公の場で、白日の下に晒す日が来たのだ。


 知美は、以前よりも少しタイトな、濃紺のセットアップに身を包んだ。髪は耳にかけ、一ノ瀬のプロジェクトを成功させた自信を纏う。鏡の中の自分に、深く、短く頷く。  唇には、あの日選んだ深い赤。  それは彼女にとって、慈悲を捨てるための戦化粧だった。


 家庭裁判所の待合室は、今日も沈鬱な空気がよどんでいた。  だが、知美の隣に立つ弁護士・佐野の鞄の中には、真治の息の根を止めるための「数字」という名の弾丸が詰まっている。


「佐藤さん、あちらの弁護士から接触がありました。……かなり焦っているようです。おそらく、こちらの調査能力を過小評価していたのでしょう」  佐野が、眼鏡の奥の鋭い瞳を細めて言った。 「今日は、一切の妥協はしません。彼が持ち去った共有財産の全額返還、慰謝料五百万、そして陽菜さんの大学卒業までの学費の一括払い。これを一歩も引かずに突きつけます」


「よろしくお願いします。……彼に、自分のしでかしたことの『重さ』を、数字で教えてあげたいんです」


 調停室の重いドアが開く。  先に席に着いていた真治は、前回の威勢はどこへやら、ひどく老け込んだように見えた。目の下には深い隈があり、あの日百貨店で見せた「新しいパパ」の輝きは完全に消え失せている。


 調停委員が口を開く。 「さて、佐藤真治さん。前回の、資産隠しに関する疑義について、反論の準備はできましたか?」


 真治の弁護士が、苦し紛れに話し始めた。 「……ええ、それについては……。確かに、河野氏の母親名義の口座に一部送金があったことは認めます。しかし、それはあくまで『一時的な借入金の返済』であって、財産隠しという意図は全くなく……」


「借入金、ですか?」  佐野が、待っていましたとばかりに資料を叩きつけた。 「では、その借用書をご提示ください。そして、なぜ返済原資が、家族の共有財産である預金から直接引き出されているのか。さらには、河野氏の母親と真治さんの間に、これまで一度も金銭の授受があった形跡がないのはなぜか。……委員の方々、これをご覧ください。真治さんが河野氏に贈った高級ブランドバッグの領収書と、その直後にその母親の口座に振り込まれた金額が、一円単位で符号しています」


 調停室に、冷たい沈黙が走った。  真治の顔が、土気色から一気に真っ赤に染まる。


「それは……! それは、あの子が……河野が、将来の不安を漏らすから、俺が少しでも安心させようと……!」


「『あの子』を安心させるために、自分の実の娘の学費を盗むのが、あなたの正義ですか?」  知美が、初めて口を開いた。  感情を押し殺した、静かで冷徹な声。その声は、真治の浅ましい言い訳を真っ二つに切り裂いた。


「真治さん。あなたが彼女を愛しているというのなら、勝手にすればいい。でも、その『愛』を、私と陽菜の人生を削って賄おうとするのは、犯罪です」


「知美……! お前、そんなに冷たい女だったのかよ! 俺たちは十八年も……」


「その十八年を、一番最初に汚したのは誰?」  知美の視線が、真治を射抜く。 「あなたが『魅力がない』と言って捨てたのは、私の十八年間の献身そのものでした。……自分が捨てたものに、今さら執着しないで。見苦しいわ」


 調停委員の視線も、真治に対して明らかに冷ややかなものに変わっていた。  どんなに「愛」を語ろうと、裁判所において「家族の金を隠して愛人に流す」という行為は、弁解の余地のない裏切りだ。


 そこからの展開は、知美と佐野が描いたシナリオ通りだった。  真治の弁護士は、もはや法的勝利が不可能であることを察し、いかに「ダメージを最小限に抑えるか」という交渉に切り替えた。  しかし、知美は一歩も引かなかった。


「……分かりました。持ち去った現金分は、分割で……」


「いいえ。一括です。マンションを売却すれば、手元に残るはずです」


「マンションを売る!? 無茶だ! 今、あそこには彼女が住んでいるんだ。身重の彼女を、どこへ行かせろって言うんだ!」


「それは、新しい『世帯主』であるあなたの仕事です」  佐野が冷たく言い放つ。 「こちらの依頼人は、すでにその場所を追われ、六畳一間で暮らしている。……あなたが守るべき順番を間違えた結果です」


 真治は、絶望したように頭を抱えた。  彼は気づいていなかったのだ。自分が手に入れたと思っていた「新しい幸せ」が、知美という完璧な土台があって初めて成り立っていた、危うい硝子の城だったことに。    知美がいなくなったことで、マンションの管理も、家計の管理も、親戚付き合いも、すべてが真治にのしかかった。  そして、彼が「守りたい」と言った河野は、現実に直面すると、知美のように彼を支えるどころか、不安から彼を責め立てるだけの存在になっていた。


 一時間の休憩を挟み、提示された最終合意案。    一、被告・佐藤真治は、原告・佐藤知美に対し、共有財産の返還金として一千二百万円を支払う。  一、慰謝料として五百万円を支払う。  一、娘・陽菜の大学卒業までの養育費として、月額二十万円、および入学金等の実費を全額負担する。    真治は、震える手でその書類にサインをした。    そして最後に、机の上に一枚の紙が置かれた。    ――離婚届。    知美がすでに署名を済ませている、あの「宣戦布告書」だ。   「……これで、終わりだね」  真治が、消え入るような声で言った。   「いいえ。ここからが、私の人生の始まりです」  知美は立ち上がり、真治に背を向けた。    裁判所を出ると、雨は小降りになり、雲の間から鈍い光が差し込んでいた。  佐野と別れ、知美は一人で歩き出す。  バッグの中には、離婚届の受理証明書に代わる、重い重い「自由」が入っている。    歩道の水たまりに、自分の顔が映る。  赤い口紅は、一滴の乱れもなく彼女の意志を物語っていた。    知美は、駅へ向かう前に、ふと思い立って、かつての自宅マンションが見える公園へと向かった。  遠くに見える、あの豪華な高層建築。  かつては、あの場所にいることが自分の価値だと思っていた。あの高い窓から街を見下ろすことが、幸福だと信じて疑わなかった。    けれど今、地上を歩く知美の足元は、雨に濡れたアスファルトの冷たさと、確かな土の匂いを感じている。  空高く浮いた硝子の城よりも、今ここにある、泥臭くも嘘のない「自分」の方が、ずっと誇らしい。    スマートフォンの通知が鳴った。  陽菜からではない。……一ノ瀬からだった。   『調停、終わったか。……お疲れ様。明日の朝、とっておきのコーヒーを用意して待っている。新しい人生の、最初のプロジェクトの話をしよう』    知美は、空を見上げた。  目尻に熱いものが込み上げてきたが、彼女はそれをこらえた。    ――お父さん。    ふと、田舎で農業を営む父の顔が浮かんだ。  真治との結婚を反対していた父。 「知美、お前はあんなキラキラした男についていかなくていい。お前自身が、自分の畑を耕せる女だろ」  あの時、父が言った言葉の意味が、四十三歳になった今、ようやく、痛いほどに分かる。    知美は、駅のホームで、あけぼの荘への電車を待った。    もう、真治の不倫に怯える夜はない。  通帳の数字が減るのを、震えながら監視する日もない。  「魅力がない」という言葉に、自分を責める必要もない。    彼女は、バッグから一冊の手帳を取り出した。  そこには、これからやりたいことのリストがびっしりと書かれている。  仕事でのステップアップ。陽菜との旅行。そして、新しい住処。  それは、誰かに与えられた贅沢ではなく、自分の力で勝ち取った、血の通った未来だ。    電車が滑り込んできた。  知美は人混みに紛れ、けれど誰よりも力強い足取りで乗り込んだ。    夕闇が迫る街。  あけぼの荘の、あの狭い窓から漏れる光が、知美を待っている。    知美は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。  肺の奥まで、新鮮な空気が満ちていく。    ――さようなら、佐藤知美。  ――こんにちは、私。    名前を捨てることは、自分を取り戻すことだった。  18年の嘘を清算し、彼女は今、本当の自分としての一歩を踏み出す。    窓の外、雨上がりの空に、細い月が昇っていた。  それは、明日訪れる「本当の朝」を予感させる、希望の爪痕のように見えた。


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