塵(ちり)の静まる場所
第4部:塵の静まる場所
役所の窓口で受け取った、一枚の受理証明書。 そこに記された名前は、十八年間名乗ってきた「佐藤知美」ではなく、旧姓の「河合知美」だった。たった数文字の違い。けれど、その紙の重みは、知美の人生を縛り付けていた透明な鎖が完全に千切れたことを物語っていた。
知美は、駅前の喫茶店で一人、窓の外を眺めていた。 十月に入り、街には秋の気配が忍び寄っている。行き交う人々は皆、自分の人生の重荷を背負いながら、足早に目的地へと向かっている。一ヶ月前までの自分なら、その群衆の中に紛れて、消えてしまいたいと願っていただろう。 けれど今の知美は、背筋を伸ばし、自分の名前が書かれた証明書をそっとバッグにしまった。
――これで、本当に、一人になった。
寂しさがないと言えば嘘になる。十八年という歳月は、たとえ最後が裏切りだったとしても、知美の身体の一部となっていた。けれど、その寂しさは、腐った果実を切り落とした後のような、清々しい痛みでもあった。
スマートフォンの画面が明るくなる。真治からの着信だ。 離婚届が受理され、法的な清算が始まったことを、彼も知ったのだろう。知美は迷うことなく、その着信を拒否し、メッセージの一覧を開いた。
『マンションの売却が決まった。来週、引き渡しだ。……お前は、本当にこれで満足なのか? 彼女は、もうすぐ生まれるんだぞ。路頭に迷わせるつもりか』
その文面には、最後まで自分を「被害者」だと思い込もうとする、男の浅ましさが透けて見えた。 知美は、返信を打つ代わりに、以前住んでいたあの「硝子の城」へと向かうことにした。 未練ではない。自分の人生の残骸が、どのように片付けられるのかを、この目で見届ける義務があると思ったのだ。
夕暮れ時の高層マンション。 エントランスの自動ドアを抜ける際、警備員が知美の顔を見て、一瞬不思議そうな顔をした。彼はまだ、この「優雅な奥様」が、今は六畳一間に住む「河合知美」であることを知らない。
二十二階。エレベーターを降りると、そこには引越し業者のトラックが停まっているのが、窓から見えた。 玄関の前まで行くと、ドアが開いており、中から怒鳴り声が聞こえてきた。
「だから! このソファーは持って行けないって言ってるだろ! 新しい部屋はこれの三分の一しかないんだぞ!」
真治の声だった。 かつての、あの自信に満ちた、余裕のある声ではない。余裕を失い、追い詰められた人間の、刺々しい叫び。
「だって、これ真治さんが『世界で一番似合う』って買ってくれたんじゃない! 安いアパートなんて嫌! 私は、ここに住めるから……っ」
河野の声が続く。泣きじゃくっている。 知美は、開いたドアの隙間から、その光景を静かに見つめた。
かつて自分が磨き上げ、一分の隙もなく整えていたリビング。 そこは今、ゴミ袋と無造作に詰め込まれた段ボール、そして積み上げられた「贅沢の残骸」で埋め尽くされていた。 河野は、大きなお腹を抱えながら、ボロボロになったカシミアの毛布を握りしめて床に座り込んでいた。 彼女が信じていた「真治という名の魔法」は、知美という土台を失った瞬間に解けてしまったのだ。
真治は、自分の髪を乱暴に掻きむしり、知美の存在に気づかないまま、河野に吐き捨てた。
「お前だって、俺の金目当てだったんだろ! 調停で全部持っていかれたんだ! 文句があるなら、俺じゃなくてあの女に言えよ!」
「ひどい……。私は、赤ちゃんのために……」
醜い。 あまりにも醜い光景だった。 知美は、その場を去ろうとした。これ以上、この澱んだ空気の中に自分の魂を留めておきたくはなかった。
その時。 振り返った真治と、視線が合った。
「……知美」
真治は、幽霊でも見たかのように、その場に固まった。 河野も、涙で濡れた顔を上げ、知美を見つめた。
かつては、この二人に対して、殺したいほどの憎しみを抱いていた。 自分の人生を盗み、笑いながら踏みにじった二人。 けれど、目の前に広がる凄惨な「現実」を前にして、知美の心に湧き上がったのは、復讐の快感ではなく、深い、深い虚無感だった。
「……お疲れ様。真治さん」
知美の声は、驚くほど穏やかだった。
「何しに来たんだ……。笑いに来たのか? 俺が、全部失うのを見て、せいせいしたか?」
「いいえ。……ただ、この部屋に、私の『嘘』が残っていないか、確認しに来ただけよ」
知美は、かつて自分が家族の写真を飾っていた、今は空っぽになった棚を見つめた。
「真治さん。あなたが守りたかったのは、彼女でも、新しい命でもなかった。……あなたは、自分を『特別な男』だと思わせてくれる、鏡が欲しかっただけなのよ」
真治の顔が、屈辱で歪む。
「私がその役を降りたから、あなたは彼女を鏡にした。でもね、彼女はまだ若くて、鏡になるには脆すぎたの。……これから、本当の苦労が始まるわね。でも、それはあなたが選んだ道よ」
「知美、待ってくれ! 頼む、……あの一千二百万、せめて半分だけでも、返してくれないか。彼女の出産費用が本当に……」
真治が、縋るように知美の手を掴もうとした。 知美は、その手を軽やかにかわした。
「それは、私があなたに捧げた十八年間の、退職金です。……一円も、返すつもりはありません」
知美は、一度も振り返ることなく、その部屋をあとにした。 背後で、河野の悲鳴のような泣き声と、真治が何かを叩きつける音が聞こえた。 けれど、それらはもう、二十二階の高度から吹き抜ける風の音の中に消えていった。
地上に降りると、夜の帳が完全に下りていた。 知美は、駅へ向かう道すがら、一ノ瀬に電話をかけた。
「……終わりました」
『そうか。……よく頑張ったな』
一ノ瀬の声は、いつも通り低く、そして温かかった。
『佐藤……いや、河合さん。明日の朝食、一ノ瀬のプロジェクトチームの決起会があるのを忘れていないか? 君がリーダーとして、最初の指示を出す日だ』
「……はい。忘れていません。明日は、最高の朝食を食べてから伺います」
電話を切り、知美は大きく伸びをした。 身体が、羽が生えたように軽い。 あけぼの荘への帰り道、彼女はスーパーに寄り、上質な卵と、小さな一束の菜の花を買った。
狭い玄関を入り、一口コンロの前に立つ。 もう、真治の帰りを待つために、何種類もの料理を作り、結局冷めてしまうのを寂しく見つめる必要はない。 自分のため、そして、隣の部屋で一生懸命に受験勉強をしている陽菜のためだけの、ささやかな、けれど真実の食事。
知美は、卵焼きを焼いた。 菜の花の苦味が、春の訪れを予感させる。
「お母さん、おかえり」
陽菜が、ドアを開けて顔を出した。 彼女の瞳には、かつての不安な影はもうなかった。母親が、泥の中から立ち上がり、新しい光を掴み取る姿を一番近くで見てきた少女は、自分自身の足で歩く強さを手に入れていた。
「お父さんのところ、行ってきたの?」
「ええ。……もう、全部終わったわ」
「そっか。……ねえ、お母さん。私、決めたよ。大学、法学部に行く。……お母さんみたいに、守るべきものを守れる人になりたいから」
知美は、包丁を置き、陽菜を抱きしめた。 かつての硝子のマンションでは、お互いの気配を探り合うように生きていた。けれど今、この狭い六畳一間で、二人の鼓動はしっかりと重なっていた。
「陽菜。……お母さん、四十三歳で、全部なくしたと思ってた。でも、違ったわ」
知美は、窓の外の夜空を見つめた。
「なくしたのは『嘘』だけだった。……本当に欲しかったものは、ずっとここにあったのね」
翌朝。 知美は、あけぼの荘の小さな窓から差し込む、真っ直ぐな朝陽の中で目を覚ました。 彼女は、陽菜と一緒にテーブルを囲んだ。 炊きたてのご飯、お味噌汁。そして、昨日焼いた菜の花入りの卵焼き。 豪華な家具も、シャンデリアもない。 けれど、窓から見える銀杏の木は黄金色に輝き、二人の横顔を優しく照らしていた。 知美は、箸を手に取り、静かに微笑んだ。 「いただきます」 その一口は、驚くほど滋味深く、身体の隅々にまで「真実」という名の力を届けてくれた。 嘘のあとに訪れた、本当の朝。 硝子の城は砕け、その塵さえも、朝の光の中で静かに消えていった。 知美は、新しい名刺が入ったバッグを手に取り、玄関のドアを開けた。 そこには、どこまでも広く、どこまでも自由な、彼女だけの「本当の人生」が広がっていた。




