審判の序曲
第4部:審判の序曲
プレゼン会場をあとにした知美の背中を、都心のビル風が激しく叩く。 真治の、あの狼狽した顔。 かつて自分を「魅力がない」と切り捨てた男が、自分の一言で言葉を失い、冷や汗を流していた。その光景を思い出すたび、知美の胸の奥には、冷たく澄んだ快感が広がっていく。
けれど、これはまだ「勝利」ではない。 知美は、駅へ向かう道すがら、何度も自分に言い聞かせた。 今の自分は、一ノ瀬の庇護のもと、仕事という仮面を被って彼を圧倒したに過ぎない。本当の意味で彼を、そして彼が選んだ「嘘の幸福」を断罪するためには、まだ超えなければならない高い壁がある。
その日の夜、知美は一ノ瀬に連れられ、銀座の静かなバーにいた。 重厚な革張りのソファ、磨き上げられたカウンター。あけぼの荘の安っぽい畳の匂いとは無縁の、成功者たちの休息の場所だ。
「……今日はよくやってくれた、佐藤さん」 一ノ瀬は、琥珀色のウイスキーをゆっくりと回しながら言った。 「あなたの分析がなければ、日本都市開発の傲慢な鼻をへし折ることはできなかった。役員たちも驚いていたよ。あの『地下』に、これほどの逸材が埋もれていたのかとね」
「……私はただ、必死だっただけです」 知美は、目の前のノンアルコールカクテルを見つめた。 「彼が、あんなに脆い人だとは思いませんでした。家ではあんなに絶対的な王様のように振る舞っていたのに」
「人間は、自分が支配していると思っている相手から反撃を受けることを、最も恐れるものだ」 一ノ瀬は知美を真っ直ぐに見据えた。 「君はもう、彼の支配下にはいない。だが、法的な繋がりが残っている限り、奴は何度でも君の平穏を脅かそうとするだろう。……準備はできているか?」
知美は深く頷いた。 一ノ瀬が紹介してくれた弁護士、佐野との打ち合わせは、明日に控えていた。 真治が持ち去った共有財産。不倫の証拠。そして、陽菜の養育費。 それらを一円たりとも逃さず奪還するための、血の通わない数字の戦争が始まろうとしている。
翌朝、知美は新宿にある佐野の法律事務所を訪ねた。 佐野は、知美と同年代の、隙のない眼鏡をかけた女性弁護士だった。彼女のデスクには、知美がこの一ヶ月、睡眠時間を削って作成した「真治の資産隠しに関する推測リスト」が広げられていた。
「驚きました、佐藤さん。……これ、ご自分で調べられたのですか?」 佐野が、感心したように書類を捲る。 「はい。家計を預かっていた頃の記憶と、真治さんが捨て忘れていた領収書、それに彼が以前口走っていた投資話の断片を繋ぎ合わせました」
「素晴らしいわ。……通常、主婦の方は感情的になってしまって、ここまでのデータは揃えられない。けれど、このリストがあれば、調停で彼を追い詰めるのは容易です。……彼、よほどあなたのことを『何も見ていない女』だと思っていたのね」
佐野の言葉に、知美は苦笑した。 真治にとって、知美は家庭というシステムを維持するための「背景」でしかなかった。背景が自分の財布の中身を監視し、虎視眈々と反撃の機会を伺っているなど、彼は夢にも思わなかっただろう。
「佐藤さん、一つ確認させて。……あなたは、彼に謝ってほしいの? それとも、彼の人生を終わらせたいの?」
知美は少しの間、沈黙した。 窓の外、新宿の喧騒が遠くに聞こえる。 「……謝罪なんて、言葉の礫に過ぎません。そんなもので私の十八年は報われない」 知美の声は、氷のように冷えていた。 「私は、彼が『自分は正しいことをした』と思い込みながら、新しい家族と贅沢に暮らすことを許せないだけです。……彼から、奪えるものはすべて奪います。それが、私と陽菜がこれから生きていくための、正当な対価です」
「……分かったわ。その覚悟があるなら、私たちは最強のチームになれる」
打ち合わせを終え、事務所を出た知美のスマートフォンが震えた。 表示された名前に、知美の指が止まる。 『真治』 あの日、プレゼン会場で再会して以来、初めての連絡だった。 知美は迷うことなく通話ボタンを押し、耳に当てた。
『……知美か』 電話越しの真治の声は、以前のような威圧感はなく、どこか疲れ果てた響きを帯びていた。 『昨日は……驚いたよ。あんなところで、お前に会うなんて』
「お仕事の話でしたら、一ノ瀬を通していただけますか? 私はただのアシスタントですので」
『そんな事務的なことを言うなよ! ……お前、あんな男のところで働いているのか? 一ノ瀬って奴、業界じゃ有名なやり手だが、冷酷な男だぞ。お前みたいな女が務まるような場所じゃない。……苦労してるんじゃないか?』
知美は思わず失笑した。 この期に及んで、彼はまだ「自分の方が知美を知っている」という幻想の中にいる。
「一ノ瀬さんは、私のことを一人の人間として評価してくれています。……少なくとも、あなたの十八年間の『評価』よりは、ずっと正当なものです」
『……知美。悪かったよ。あの日、あんな言い方をしたのは。……彼女が不安定で、俺も余裕がなかったんだ。……一度、二人で会って話さないか? 陽菜のことも含めて、これからのことを、冷静に……』
「冷静に? 貯金通帳を持って逃げた人が、よくそんなことが言えますね」
『それは……彼女の出産費用や、新しい生活の準備にどうしても必要だったんだ。お前には、あのマンションを残しただろう? ローンだって俺が……』
「マンションはもう引き払いました。あなたの『施し』の上に住むのは、吐き気がするからです」
電話の向こうで、真治が絶句するのが分かった。 「真治さん。あなたが今、河野さんとどんなに幸せな『ごっこ遊び』をしていても構いません。けれど、忘れないで。あなたが踏みにじった私の十八年、そして陽菜の未来。……そのツケは、これからきっちりと払っていただきます」
『……知美、お前、変わったな。怖いくらいだ』
「ええ。あなたのおかげで、本当の自分に会えましたから」
知美は一方的に電話を切った。 震える手で、バッグの中から一通の封筒を取り出す。 ――離婚届。 すでに、知美の欄には署名と捺印が済んでいる。 あけぼの荘の小さな机で、陽菜が寝静まったあと、街灯の光の下で書いた文字だ。 かつて婚姻届を書いた時、知美の胸は希望に満ちていた。この人と、一生を添い遂げるのだと。共に老いていくのだと。 けれど今、この紙に記された自分の名前は、戦士がその身に刻む紋章のように誇らしかった。
知美は、駅のホームで電車を待つ間、陽菜にメッセージを送った。 『陽菜、今日はお母さん、少し遅くなるわ。お夕飯、冷蔵庫にあるもので食べていてね。……お祝いに、ケーキを買って帰るわ』
陽菜からはすぐに、スタンプと共に返信が来た。 『お母さん、お疲れ様。お祝いって、何かいいことあったの?』
『ええ。……明日から、本当の戦いが始まるの』
電車が滑り込んできた。 知美は、人混みの中に紛れ込みながら、自分の足が地面をしっかりと踏みしめているのを感じた。 四十三歳。 夫に捨てられ、財産を奪われ、泥水を啜るような思いをしてきた一ヶ月。 けれど、その泥の中から拾い上げたものは、何物にも代えがたい「自分自身」という光だった。
――真治さん、そして河野さん。 ――あなたたちは、もうすぐ知ることになる。 ――一人の女性が、失うものをすべて失った時に、どれほど残酷で、どれほど美しくなれるのかを。
知美は、夜の帳が下り始めた街を、凛とした表情で歩き出した。 バッグの中の離婚届は、今や彼女にとっての「宣戦布告書」だ。
あけぼの荘に戻ると、窓から漏れる光が見えた。
そこには、愛する娘が待っている。
嘘のない、本当の生活がある。
知美は、玄関のドアを開けた。
「ただいま、陽菜」
その声は、夜の静寂を切り裂き、輝かしい未来へと繋がる、確かな調べを奏でていた。




