2. 菓子箱ひとつ
夜明け前、船の上で目が覚めた。まだ鳥も鳴かない。起きる癖だけ、体より古い。朝露に濡れた桟橋は黒く、湾の向こうが薄く白んでいる。頭の上で、父の旗が揺れていた。見上げたまま、しばらく起き上がれない。畳まなくていい旗が、そこにある。
昨日の夕方から桟橋につないである俺の船へ、マーリットが工具袋を提げて来る。
「おはよ、船長。寝てる間に船底が抜けなくてよかったわね。受け木、あたしが見るまで帆を上げないでよ。いきなり泳いで帰るのは嫌だからね」
返事をする前に、桟橋を駆ける足音がした。菓子屋の女主人は、白い布を掛けた菓子箱を腹に抱え、足を止めても声を急がせる。
「鴎島へ運べるかい? 明日の朝が婚礼なんだよ。島の舟は帆桁が折れて出られない。商会は、小口は月末にまとめて運ぶってさ! 菓子は焼けてるのに、運べないのは困るんだよ」
箱から甘い焼き菓子の匂いがする。その背後で、売った船のほうへ歩いて来たハーコンが口髭を撫でた。女主人の箱を見て、通り過ぎかけた足を止める。
「菓子箱ひとつに船を出す馬鹿はいない」
「旦那、……あんた。月末まで待ったら、婚礼が終わっちまう。待てる荷と、待てない荷があるだろう?」
言い慣れた呼び方が先に出る。マーリットは工具袋に顔を伏せ、肩を揺らしていた。ハーコンは眉を上げ、口髭の端だけで笑う。
「旦那? 坊や、もう私に雇われるつもりかね? 月末なら運び賃は安い。船を出すのは、箱を抱えて走るほど簡単じゃないんだよ」
女主人は箱を抱き直す。俺は渡り板の綱を引き、足場を確かめた。箱を置く場所なら、もう空いている。俺はうなずいてみせる。
「運びます。運び賃は銀貨五枚です、女将さん。濡らさず、今晩までに。島で受け取れる人はいますか?」
女主人が花嫁の母を頼めると言う。マーリットは船倉に箱を据え、白い布の端を箱の上へ折り返した。俺は箱の脇に空いている場所を示す。
「帰りの荷は、島で探す。箱に海水が掛からないように締めてくれ。戻るときまで、船倉を空にしておく手は無い」
渡り板の手前で、女主人が俺の旗を仰いだ。箱を離した腕はまだ丸く、女主人は旗から俺へ目を移す。
「頼むよ。で、この船、名は何ていうんだい? 島へも、店へも、名前が分からなきゃ頼めないからね」
「ガラクタ号です。船主はロアル。箱が着いたら、その名で呼んでください」
ハーコンの金の指輪を回す手が止まった。女主人は商会主のほうへ向き直る。俺の船の渡り板に足を置いたまま、箱を抱いていた腕をゆっくり下ろす。
「二十年、あんたの商会に頼んできたけどね。今日限りだよ、商会の旦那。婚礼に月末の船は要らない」
「菓子屋一軒で、商会の帳面は一行も変わらんよ。大きな荷をまとめるから、皆が安く運べるんだ」
女主人が店へ戻ると、水先人の小舟が桟橋に寄った。真っ白な髪を後ろで結んだ爺さんが、ひょいと飛び移る。小さく痩せ、背は曲がっているのに、足は跳ねる。
「小僧。昨日の裏瀬、どこで覚えた? 俺様の小舟より先へ出るなんて、面白くないぞ」
前の人生で、破産した年の秋に裏瀬を俺へ教えたのは、この爺さんだった。小舟の綱を結ぶ手が、今も同じ動きだ。
「ヨス……爺さん。見れば分かる。突堤の水の筋を見たか?」
「見て分かるもんか! 俺様が五十年かけて覚えた瀬だぞ。水先人のヨスタ様だ。名前も覚えとけ、小僧!」
小さな黒い目が俺の顔を覗き込む。日に焼けたしわだらけの顔で、欠けた前歯が見えた。あんたに習った、とは言えない。
ヨスタは船へ移り、菓子箱の脇に腰を下ろす。
「賭けるか? 小僧が島に着く前に青くなるほうに、干し杏ひと袋だ。俺様が乗って見張ってやるもんね」
「乗る。箱の上には座るなよ。売り物より爺さんの尻が高いとは、俺は思わん」
◇
昼の湾には、日を砕いた光が舳先の先まで散っている。白い布の下から、焼き菓子の甘い匂いが上がってくる。艫で舵柄を握った。短い波が続く。風も潮も、帆の張りも読める。胃だけが、波のたびに置いていかれて脳を揺らす。体だけが、初めて海に出た十九のままだ。
舳先で足をぶらつかせるヨスタが、俺を振り返る。
「船酔いする船乗りなんて居るかね? 干し杏は俺様のもんだ。箱に吐いたら、菓子屋にも払えよ!」
「……舵は、ぶれてない。箱も揺らしてない。顔の色まで運び賃に入れるな」
俺の胃は返事を待たず、また浮く。箱の綱を確かめていたマーリットが、こっちを見て吹き出した。
「あはは、船長、真っ青! その顔で強がらないでよ。箱より先に、船長を縛っとこうか?」
「船長を荷物に数えるな。舵は離さない。あんたは菓子を見ててくれ」
「見てるわよ! でも、船長が落ちたら菓子も届かないでしょ。意地張って、海にまで迷惑かけないでよ!」
「落ちない。頼むから、落ちる話をするたびに海を見るな。俺も見てしまう」
「あははっ、そっちを見なきゃいいでしょ! 船長の胃袋まで、あたしの修繕代に入れとく?」
俺は舵柄を押さえ直し、菓子箱の向こうへ目を戻す。
「それは払わない。船底より先に、財布に穴が開く」
夕方、鴎島の港が見える。島の家の白壁が夕日で赤く、浜で子供たちが手を振っていた。海の照り返しの中で、その小さな腕がよく見える。入口の底は明るい。浅い所だけ波の頭が崩れる。大きな船なら底を擦る浅さでも、この船の平たい腹なら通れる。
舵柄を押し、浜の桟橋へ着けた。白い布は乾いている。菓子を待って浜に出ていた花嫁の母は、俺の開けた船倉を覗き、箱を見つけて口を開けたままになる。
「間に合った……! 菓子の無い婚礼になるかと思って。娘に、なんて言おうかって……! せっかく焼いてもらったのに、諦めておくれって、そんな……!」
「箱は濡れていません。確かめてください。女将さんからお預かりしたままです」
母が布の端をめくり、顔を上げる。
「濡れてないよ! 船の名前を教えておくれ。娘に言うんだから」
「ガラクタ号です」
母は青い船べりを見回す。
「まあ……。でも、いい船だねえ」
母が箱を受け取り、布を頬へ押し当てた。箱を抱えた腕は動かず、肩だけが小さく揺れている。俺はその端が濡れる前に、舵柄へ目を戻す。波はもう、船を揺らさない。
◇
花嫁の母から運び賃を受け取り、浜で銀貨五枚を手のひらに並べた。父の財布へすぐには入れられない。握ると、硬い縁が柔らかい皮に食い込む。開けば、夕日を映す丸い光が並んだ。父の金貨は、父が三十年担いだ荷の重さだ。この五枚は、俺の船が運んだ菓子箱の重さになる。夕方の浜は、焚き火の煙と、婚礼の前の晩の笑い声で騒がしい。
銀貨を見ている俺へ、マーリットが口を尖らせる。
「船長、笑いすぎ」
「自分の船で稼ぐのは、久しぶりでね」
「昨日買ったばっかりでしょ?!」
銀貨は握ったままだ。手の中でまだ温めていると、横からヨスタが顔を出した。
「久しぶり? 小僧、海に出て二日目だろうが。さっきまで真っ青だったくせに、口だけ急に老けるな!」
「……言い間違いだ。俺の船が稼いだんだ。笑うくらい、好きにさせてくれ」
「ひっひっひ。小僧の皮をかぶった爺みたいな口だもんね。まず、俺様の杏を忘れるなよ」
マーリットは手を開いたり閉じたりして、使った釘と、昨日受け取った釘代の残りを突き合わせている。古い切り傷が、夕方の光に白く浮かんだ。菓子箱を濡らさず運んだ手が、今は忙しく銅貨の数を追っている。
工具袋の口は開いたままだ。顔を上げた彼女が、銀貨の縁を見ながら八重歯を見せる。
「釘一本、銅貨二枚よ。船長が胃袋に負けても、釘代はまけないからね」
「まけなくていい。足りなければ言え。その分も払う」
「……変な船長」
帰りの船倉は、まだ空いている。




