1. ガラクタの値段
「そのガラクタで、うちの船に勝つつもりか?」
笑ったのは金獅子商会の主、ハーコンだ。朝の石の岸壁で、撫でつけた黒い髪が光る。恰幅のいい腹を揺らし、太い指の金の指輪を回している。
後ろの金獅子号は三本帆柱。舳先の金の獅子が、朝日を照り返す。初めての出航は、午後の引き潮だ。手前の古い一本帆柱の小船は、新しい青い塗りが鼻につく。値札は〈金貨五十枚〉。鴎の声が帆桁から降り、潮と松脂の匂いが風に混じる。
船主と人足の笑いが広がった。この船で新造船より先に港の口を出す、と言ったのは、この朝の、十九の俺の口だ。
父が三十年かけて貯めた金貨五十枚。その財布を握り直した。手のひらが柔らかい。綱だこが無い。岸壁の水に砂色の髪と青緑の目が映る。顔が若すぎる。水が揺れても、知っている顔には戻らない。
前の人生で、俺はこの船を言い値で買い、父の旗も箱のまま、十日目の午後に白岩の岬の沖で沈めた。財布の紐は、父の結んだ形のままだ。
それから四十八年、金獅子の旗の下で雇われ船長を務め、六十七の冬に死んだ。
自分の旗だけは、一度も揚げられなかった。
渡り板を渡り、帆柱の根元に膝をつく。受け木の青い塗りを親指で押した。濡れたパンみたいに沈む。青い薄皮の下は、黒い。釘は錆びた頭ごと塗られ、新しい釘が一本も無い。
薄い青の目が俺を見下ろす。ハーコンの整えた口髭は笑う形だが、目は動かない。俺は腐れの欠片を、その足元へ転がす。
「買う。ただし、その傷を隠した塗装まで、新品の値段には数えない」
「塗りは大工に任せたんだよ。腐れがあったなら、大工の見落としだ。私は船を売っているんだ」
渡り板の端へ皆の目が向く。桶を提げた女の赤茶の三つ編みが跳ねた。小柄なのに肩と腕が太い。桶の柄を握る手には、古い切り傷が三本ある。
前の人生では、沈没のあと、この大工を岸壁で責めた。目の前の大工は桶を置き、商会主へ顎を突き出している。
「見落としてない! 芯まで腐れてるって、紙に書いて渡したわよ! 塗れば直るなんて言ってない! 塗りと修理を一緒にしないで!」
「紙など受け取っていないね、大工。塗りの代は払ったよ」
「ふざけないでよ! 替えまで削ったのに、あたしのせいにするわけ? あたしが直した船みたいに言わないでよ!」
声が裏返る。俺は古い釘の頭を掘り出した。替えた跡は無い。
「新しい釘が無い。あんたがこの大工に払ったのは、塗りの代だけだろう。直した船の値を取るな。船は塗りで帆を支えるんじゃない」
「坊や、大きな船ほど荷は安く運べる。小船で張り合うなら、傷ぐらい我慢するんだよ」
船主たちが顔を見合わせる。咳払いに、笑い声が途切れた。俺は財布の口を開く。
「ガラクタなら、ガラクタの値で買う。金貨二十枚。この船をガラクタと呼んだのは、あんただ」
「値段の話をしているんだ!」
「俺もだ。口に出したら急に惜しくなったか? 船と、その船の値の話をしよう」
岸壁の向こうに門出の客の馬車が着いた。ハーコンは俺の財布と馬車を見比べる。
「……持っていけ。式の前に岸壁を空けろ。客を待たせるわけにはいかん」
金貨二十枚を渡した。はしばみ色の目が俺へ上がる。鼻のそばかすが、怒りの名残で赤い。大工はまだ太い眉を寄せたまま、俺と船を見比べている。
「私は船大工のマーリットよ。買うなら、あの腐れの上に帆柱を立てたまま出ないでよ。安く買えても、沈めたらおしまいでしょ」
「出ないさ。君は替えまで削ったと言ったな。それをお願いしたい」
「……払うの? あの人は、塗りの代しか払わなかったわよ。あたし、ただでは直さないからね」
「払う。釘代もだ。値を下げるのは船だけでいい。あんたの仕事までは値切らない」
船が沈む場所も、その理由も、若い船大工が見落としている使い道も知っている。
◇
昼、船を岸壁の端へ寄せた。焼いた魚の煙が流れる。マーリットが樫の受け木を担いで戻ってきた。館からは客を迎える声がする。人足に帆柱を抜かせ、マーリットは木を下ろす。
「替えはもう削ってある。商会主が払わないから、小屋で寝てたの。手間は金貨二枚と釘代。釘一本、銅貨二枚よ。釘はおまけにならないからね」
工具袋の横に金貨三枚を置く。釘を数える手が止まった。俺は束を示す。
「釘代だ。余りで足場も直せ。いい木を据えても、そこへ降りる人が落ちる船じゃ困る。釘は惜しむな。余りを返すより、船に打ってくれ」
渡り板の釘、滑る甲板、梯子、擦れた索。先に足を置く所を確かめた。顎鬚を撫でようとした手が、鬚の無い尖った顎をなぞる。
「嬢ちゃん、梯子の三段目が緩んでる。そこから荷を降ろすなら、先に締めてくれ。荷より先に俺が落ちそうだ」
「私はこれでも二十四よ! 嬢ちゃんはやめて。あんたより年上でしょ! 顎はつるつるのくせに、口だけ爺さんにならないでよ!」
「あんた……ね。船倉より足場だ。受け木が据わったら、そっちも頼む」
樫が穴へ収まるとき、切り傷のある手を上から押さえた。木はもう傾かない。触れたところが温かい。この手が、今、俺の船を直している。
「若いのに頑張るねぇ」
俺は手を離した。マーリットは膝で樫を押さえ、八重歯を見せて笑う。
「その顔で、何十年も船に乗ってきたみたいなこと言うのね」
「ははっ、長い話になる。先に、出航だ」
◇
午後、金獅子号が先に岸壁を離れた。水先人の小舟を追い、中洲を大回りする。岸壁では、門出の客の横にハーコンがいる。
マーリットは綱を放し、甲板で跳ねる。
「あたしの受け木が持つか、この目で見るんだからね。あんたの無茶で傷めたら、修理代は取るわよ。出航ーっ!」
突堤の脇へ舳先を向けた。引き潮が白い泡を引く。マーリットが甲板に足を踏ん張る。
「ちょっと、そっちは浅瀬よ! こんな平たい船底、外の海じゃ揺れるだけなのに、そこへ入るわけ? 出てすぐ修理に戻るのは嫌よ!」
「この船は浅いのが取り柄だ。だから、ここを通れる。大きい船が回ってる間にな。揺れるのは、外へ出てから付き合ってやる」
舵柄が跳ね、柔らかい手のひらが擦れた。握り直す。帆柱が軋む。船底は触らない。
裏瀬を抜けると、金の獅子が横に来た。向こうの船べりで水夫たちが身を乗り出す。岸壁の人垣では、恰幅のいい影だけが動かない。俺の舳先は、もう金獅子号の前だ。マーリットが金の獅子を振り返る。
「抜いた……! ほんとに抜いたわよ、あんた! あっち、まだ回ってる!」
「まだ港の口だ。喜ぶのは外へ出てからにしろ。船べりから落ちるなよ」
小舟から、白い髪の爺さんが怒鳴る。
「おい小僧! そこは俺様の裏瀬だぞ! 勝手に先へ出るな! 俺様より先なんて、ずるいぞ!」
マーリットが小舟と俺を見比べる。
「誰よ、あの爺さん? 海まで自分のものなの?」
「港一番の水先人だ。怒らせておけ。口は騒がしいが、海を見る目は確かだ」
荷袋から父の旗を引き出した。〈白い地に紺の波が一本〉。畳み目を残した布を綱へ結ぶ。マーリットが旗の端を見上げる。
「何の旗よ? それ、ずっと袋に入れてたの? 畳み目だらけじゃない」
「親父のだ。自分の船を持ったら揚げろって、俺に託してくれた旗だ。今、揚げる」
布が開いた。紺の波が風を受ける。畳み目の内側まで、日が当たっている。舵柄を握る手だけが、なかなか緩まなかった。マーリットが、まぶしそうに目を細める。
「……いい旗じゃない。波が一本だけって、ずいぶん欲がないのね」
「一本でいい。越えるのは、いつも目の前の一本だ」
マーリットが俺を振り返る。
「で、どこまで行くの? 荷も積んでないのに。あの船に勝ったら、それでおしまい?」
「湾の入口の灯台を回って、日暮れに戻る。帰りの荷は、明日から探す。こいつにも稼いでもらう」
擦れた手で舵柄を握る。父の波が頭の上にある。
「今度はこの船で、港一番の船主になる」




