第05話 二人の生い立ち
ニナの今の住まいは、あの安酒場から通りを二本超えた先にある古い集合住宅の二階の部屋だ。
そして残念なことに私もこの部屋の合鍵を持っている。
……ニナが安酒場で今日のように寝てしまうためだ。
軋む階段を背中の重みを気にしながら上がった。
鍵を開け、扉を肩で押し、部屋の中へと進む。
そこは相変わらず散らかっていた。
書きかけの原稿と、丸めてゴミ箱に捨てそこねた紙くずと、読みかけの本。
足の踏み場を選んで私はニナを寝台に下ろした。
「ん……」
「起きなくていい」
寝ぼけた声に短く返して靴を脱がせてやる。
毛布を引き上げてやると、ニナはそれをたぐり寄せてまた丸くなった。
やっぱりこいつは猫みたいだ、と改めて思った。
起きているあいだはあんなにも騒がしいくせに……しゃべって、笑って、突っ走って、しくじって……そうして疲れ果てて、こうしてやっと静かになる。
私はニナのその繰り返しを、もう二十年以上見ている。
寝台の脇には書きかけの原稿が積んであった。
覗くつもりはなかったが、いちばん上の一枚が目に入ってしまった。
それは畳んだばかりの小さな仕立屋の記事だった。
名も売れないまま店を閉じることとなった老いた職人。
誰も記事にしないような、それで有名になれるはずもないことばかりを、ニナは律儀に書き続けている。
「ん……」
その声に改めてニナの方に視線を戻せば、ニナの首元から細い鎖がのぞいていた。
色の褪せた古い鎖のネックレスだ。
鎖はところどころ黒ずんで、飾りの石はとうに輝きを失っている。
それでもニナは肌身離さずにいる……取材のときも、こうして眠るときも。
たった一つの親との繋がりのネックレス。
私は毛布をもう少しだけ引き上げて鎖を隠してやった。
なんとなくそうしたかった。
枕元に水差しを置いて私は部屋を出て鍵を閉めた。
外はもうすっかり夜の帳が下りていた。
通りの人影は少なく、酒場の喧騒もこの通りまでは届かない。
自分の部屋までは歩いてもうしばらくかかる。
夜風に当たりながら歩いていると、昔のことばかりが頭に浮かんでくる。
ニナを送った夜はいつもそうだ。
私とニナは同じ町、同じ孤児院で育った。
この都からずいぶん離れた、この都で名前を言っても誰も知らないような田舎の町だ。
その町の外れに古い孤児院があった。
私が預けられたときには、ニナはもう孤児院に預けられていたそうだ。
わずかひと月ほどの違い。
そして私もニナも親を知らない。
ただその中身は少しだけ違っていた。
ニナは捨てられた側だ。
ニナを置いていった親はたぶんどこかでまだ生きている。
私は死に別れた側だ。
父は冒険者で私が生まれる前に遠くの依頼先で死んだそうだ。
もともと冒険者だった母も、私を産んですぐ後を追うように逝ってしまったとのこと。
冒険者二人の間に生まれた私は、近くに身寄りもなく、そのまま孤児院に預けられた。
だから私も両親の顔も声も知らない。
ただ、名前だけは知っていた。
小さいころ、ニナはよく孤児院の門にいた。
それは誰かが迎えに来るのを待つみたいだった。
道の先をじっと見て、日が暮れるまで動かない日もあった。
もちろん誰も来ない。
私はそんなニナの隣になんとなく座っていた。
もうあの頃の気持ちは思い出せないが、ニナを一人にしておくのは違う気がしたのだと思う。
やがてニナが立ち上がって「帰ろ」と言うまで私は隣に座っていた。
それがいつのまにか私たちの当たり前になっていた。
大きくなったニナは、じっとしていられない子になっていた。
暇があれば町のほうへ駆けていく。
珍しいもの、知らないもの、誰かの噂話。
何か気になるものがあれば後先も考えずに飛びついていく。
そのたびに私が追いかけた。
そして、転んで泣いているニナを見つけ、手を引いて連れて帰る。
誰に頼まれたわけでもない。
ただ、ニナを一人で行かせるのがどうにも落ち着かなかった。
突っ走るニナとその後ろをついていく私。
あのころから今日まで何ひとつ変わっていない。
ある日、ニナが何かを決心したかのように私に宣言をした。
「あたしはね、有名になるんだ」
夕暮れの、孤児院の裏庭。
膝を抱えて座ったニナは、まだ語彙も少ないくせに、いっぱしの口で力強く宣言をしていた。
「うんと有名になってさ。あたしの名前を、みんなが知るくらいになったら――」
ニナはネックレスを握りしめた。
「あたしを捨てた親を、見つけ出してやるの。そんで、一発、ぶん殴ってやるんだ」
小さな拳を振り上げて、ニナは笑っていた。
泣きそうな顔で笑っていた。
それからというもの「有名になるんだ」「有名になりたい」という言葉は、ニナの口癖になっていた。
酒場でニナが口にした「有名になりたい」、その背景はこういうことだ。
でも、ニナの本当の願いはその先……見つけて殴る、置いていった相手に、自分はここにいると、思い知らせてやる。
私はそのニナの願いについていった。
十五歳になった年、私たちは二人そろって町を出た。
ニナが「都へ行く」と言い出し、私が「なら私も行く」と答えた。
それだけのことだ。
都でなら有名になれる。
都でならいつか親を見つけられるかもしれない。
ニナはそう信じていたし、私はニナを一人で行かせる気にはなれなかった。
それは孤児院の門に一緒にいた時と同じだ。
孤児院を、町を出たあの朝、ニナは孤児院も町も一度も振り返らなかった。
でも私は何度か振り返った。
置いていくものなんて何もない町だったのに……ただ顔も声も知らない両親のお墓があるというだけの町だったのに。
都に着いてからの暮らしは楽ではなかった。
はじめは二人で狭い部屋を借りて一緒に住んだ。
ニナは伝手をたどって新聞社の下働きにもぐり込み、私は冒険者ギルドに冒険者登録をした。
どちらもしばらくは失敗の繰り返し、暮らしが楽になるなんてことはなかった。
パンひとつを半分こした日もあれば、家賃が足りずに大家へ揃って頭を下げた日もあった。
それでも、あのころの忙しさも貧乏も不思議と悪くはなかった。
ニナが初めて署名入りの記事を載せた日のことは今でもよく覚えている。
通りの隅の小さな花屋がひとつ店を畳んだ、というだけの短い記事だった。
こんな小さな記事でとからかったら、ニナは本気でむくれて、それから二人で腹を抱えて笑った。
自分の名前が刷られた新聞をニナは何度も指でなぞっていた。
消えていくものを書き留めた記事を、自分の名で世に出せたこと。
それが、あのころのニナには何より嬉しかったらしい。
そんな日々を送っていくうちに、それぞれの仕事が安定し、気が付けば別々の部屋で生活するようになっていた。
それでも、二人の関係はこうして続いている。
私はなぜニナについてきたのだろうか。
……たぶん、大した理由なんてない。
ただ、ニナを一人で行かせるのが、昔からどうにも嫌だった。
それだけは、今も変わっていない。
いつのまにか自分の部屋の前まで来ていた。
鍵を開けて灯りも点けずに寝台へ倒れ込む。
背中にはまだニナの重さの名残がある。
子供みたいに軽いあの重さが。
ニナを送り届けた夜はいつもこうだ。
昔のことを一通り思い出す。
変わったようで、私たちは何も変わっていない。
ニナは相変わらず突っ走り、私は相変わらずその後ろをついていく。
明日はしっかりと依頼を受ける。
ニナの取材とは関係のない私だけの一日をこなす。
そうしてまた夜になればどちらからともなく落ち合うのだろう。
まだ、あの温もりが背に残っている気がした。
不思議とニナを担いで帰った夜はいつもよく眠れる。
そんな考えのまま、深い眠りへと落ちていった。
2日目は3話連続掲載で、第6話は20時に公開予定となっています。
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