第36話 家族
「三つの光が、寄り添いあいながら、ゆっくりと天へとのぼっていく」
—— 家族の結末
『ママ』
舌足らずな無邪気な声。
小さな光がぱっと両手を広げた。
『ママ、こっちだよ。はやく』
そこには責める色などみじんもない。
ただ母を呼ぶ優しい声だった。
その隣でもうひとつの光が静かに口を開く。
『リディア』
その声はとてもやわらかかった。
『……もう、いい。もう、十分だ。……一緒にいこう。私たちの、いるべきところへ』
リディアが震える瞳でふたつの光を見つめている……信じられないというように。
だが、その顔はみるみるくしゃくしゃに崩れていった。
リディアの目から涙があふれた。
それは苦しみの涙ではなかった。
『……リオ。……あなた』
朽ちた腕を、ふるえながら、ゆっくりと差し出す。
ふたつの光へと、伸ばしていく。
『……ごめんね。ずっと、ずっと、待たせて。……ただいま』
差し伸べられた朽ちた手を、小さな光が両手でぎゅっと握った。
もう二度と離すまいとするように。
――いや。
もう離さなくてもいいのだ。
リディアの顔にゆっくりと微笑みが浮かんだ。
それは、ただ心から安らいだ、やわらかな母親の微笑みだった。
たったひとりで、この地下の底に取り残されていた人。
その人の前に、いま、いちばん会いたかったふたりがいる。
顔も知らぬ両親の墓に手を合わせてきた私には、それがどんなに嬉しいことか……ほんの少しだけわかる気がした。
家族が迎えにきてくれるということが、家族のもとへ還れるということが。
私は、ただその光景を見つめていた。
ニナが、声を殺して泣いている。
セオは、その光景をまっすぐに見つめていた。
ハーヴィは、深く、深く、頭を下げていた。
やがて、リディアを包んでいたふたつの光が、そっと彼女を包み込んだ。
リオが母の胸に小さな顔をうずめる。
エドガーがそのふたりを大きな腕で包み込む。
――ずっと、こうしたかったのだと。
その姿が静かにそう語っているようだった。
リディアの体が光のなかへ溶けていった。
いつしか、光は、ふたつからみっつへと増えていた。
三つの光が、寄り添いあいながら、ゆっくりと天へとのぼっていく。
まるでひとつおおきな光のようだった。
それは家族が家路につくような、そんな姿に見えた。
そして、部屋に光が満ち溢れた。
その眩しさに私は目を閉じた。
――さようなら。
心のなかで、私はあの家族を見送った。
どうか、安らかに、幸せに、と。
---
光が薄れ、私は目を開けた。
寝台には、もう誰もいなかった。
人ではなくなってしまったものの末路なのか、それとも救われたことによるものなのか……それは私にはわからない。
ただ、ひとつだけわかっていることがある。
リディアは逝くことができたのだ。
その瞬間だった。
四隅の台座の輝きも、役目を終えたように、ひとつ、またひとつと、静かに消えていった。
そして、館中を重く覆っていた気配が、いっせいに晴れていくのを感じた。
肩にずっとのしかかっていた重石が、すっと下りたような、そんな感覚だった。
「……終わった、の?」
ニナが確かめるように呟いた。
私は深く頷いた。
「ああ……」
セオが、リディアのいなくなった寝台を見つめながら、呟いた。
「……あの人。最後に、笑ってましたね」
「うん」
ニナは涙を手の甲で拭った。
「……あたしたち、あの人を、ちゃんと送ることができたかな」
私も寝台を見つめた。
「ああ、そう信じよう。私たちは、彼女を、いや、あの家族を、弔うことができた、と」
ハーヴィがゆっくりと頷いた。
「……エドガー様も、リオ様も。……どうぞ、安らかに、お眠りください」
全員で静かに黙祷を捧げた。
---
目を開けると、不意に四つの台座が目に入った。
オルゴール。
母子像。
祈具。
そして、未来の絵。
役目を終えた弔いの品。
「……もとの場所へ、返してやりましょう」
ハーヴィが静かに提案してきた。
「この家を、あるべき姿に。……それが、自分の、管理人としての、務めですゆえ」
誰も異は唱えなかった。
それは、私たちみなの願いでもあったから。
弔いの品を手に私たちはこの部屋をあとにする。
扉を閉め、大きな石の母子像を戻し、地下への道を閉じる。
もう二度と、あの部屋に、誰も入ることがないように、そう願いを込めて。
――最初に戻すのは未来の絵、遊戯室へ。
ハーヴィはその絵をもとの壁へと掛け直した。
そして、しばらくその絵を見上げていた。
「……自分は」
絞り出すようにハーヴィが言った。
「この館を、ただの、古い空き家だと。取り壊すだけの、建物だと、思っておりました。……ですが、いまは」
その声が震える。
「ここで、たしかに、あたたかな家族が、暮らしていた。……そのことだけは、生涯、忘れずに、おります」
私もその隣に並び、絵を見上げた。
「……ええ。私も、忘れません」
ニナも、セオも、静かに頷いていた。
――二番目に戻すのは母子像、応接室へ。
ニナが両手でその像をもとの場所へと返す。
そして、そっと母の頬に指を触れた。
「……ちゃんと、会えたね。あの子に」
その顔に悲しみはない、あるのは慈愛のような微笑み。
「あたし、この像の、大きいほうを、壊しちゃったでしょ」
ニナが少しだけ苦笑いをする。
「ずっと、悪いことしちゃったって、そう思ってた。……でも、いまは違うんだ。あれを壊したから、あたしたちは、あの家族に、会えたんだって」
「……そうだな」
私は静かに、そう答えた。
――三番目に戻すのは祈具、妻の部屋へ。
セオが肖像画の前の小卓にそっと戻す。
「エドガーさん、何回も、これを握って、祈ってたんですよね。……縁が、こんなになるまで」
「……その願いは、届いたよ」
セオの呟きにニナがそう返した。
「はい、僕も、そう信じています」
――最後に戻すのはオルゴール、子供部屋へ。
私は、ねじをそっと巻き、そして蓋を開けた……
――ぽろん――
澄んだ音がこの子供部屋に響き渡る。
その優しい旋律を、誰もが、ただ静かに聴き入っていた。
やがて、旋律はゆっくりと途切れていった。
私は、それを机の上に戻した。
そして、そっと蓋を閉じた。
「幸せな、夢を、見るんだよ」
---
すべてを返し終え、私たちは本館の広間へと戻ってきた。
目の前には大きな玄関の扉。
どれだけ押しても、どれだけ引いても、けっして開かなかった、あの扉。
私たちをこの館に閉じ込めていた、あの扉。
私たちはその前に立っている。
私は、大きく息を吸い込むと、その扉に手をかけた。
そして、ゆっくりと力を込める。
――ぎい――
扉は、拍子抜けするほど、あっけなく開いていった。
その隙間から――光が差し込んできた。
朝の光だった。
思えば、この館に閉じ込められてから、私たちはずっとまともな光の下にいなかった。
魔道具の、淀んだ灯り。
撞球室から見上げた、月もない、異様な薄明かりの空。
そして、この建物は黒いもやに包まれていた。
だが、これは違う。
扉の向こうから流れ込んでくるのは、まぎれもない、朝の光。
あたたかく、まっすぐで、なんの翳りもない。
私は、大きく扉を開き、全身で、その光を浴びた。
冷えきっていた身体の芯まで、じんわりと、あたたまっていく。
朝の光とともに飛び込んできた風は、草の匂いと夜露の冷たさを連れていた。
私はそれを大きく吸い込んだ。
胸の中のすべてが洗い流されていく。
――生きて、ここを、出られる。
誰ひとり、欠けることなく。
四人、みんなで。
私は、その光のなかで、うしろの三人を、振り返った。
「……帰ろう。みんなで」
セオが、こくりと大きく頷いた。
「はい。……帰りましょう」
ハーヴィも、こめかみの傷をそっと押さえながら、静かに微笑む。
「……ええ。長い、夜でございました」
そして、ニナは大きな笑顔で応えてくれた。
「うん。……帰ろう!」
これにて第三部の終了となります。
家族を弔うこともでき、四人も、無事、館から出ることができました。
本編としてはこれで終了となり、次からはエピローグになります。
できれば最後までお付き合い、よろしくお願い致します。
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