第35話 罪
「もう二度と、会えるはずのなかった、ふたりが……いま、たしかに、そこにいた」
—— 家族の迎え
うつろだったリディアの瞳が、ゆっくりと焦点を結んでいく。
宙をさまよっていた視線が、やがて、私たちをとらえた。
『……だれ』
掠れた細い声。
だが、そこにあの憎しみの棘はもうなかった。
『あなたたちは……ここは……』
寝台の上で、リディアはぼんやりとまわりを見まわした。
青白い薄明かりの室。
四隅の、光る台座。
そして、見知らぬ、四人の姿。
覚めたばかりの頭は、まだなにもうまく掴めずにいるようだった。
ここがどこか、いまがいつか、そのことがわからない。
徐々に、その顔に不安の色がにじんでいく。
私はゆっくりと寝台へ歩み寄った。
脅かさないように。
牙を剥いていたあの"影"は、もうどこにもいない。
ただ痩せ細ったひとりの女の人が、心細そうに私たちを見上げているだけだった。
「……気がつかれましたか」
私は、できるだけ静かに告げる。
「私たちは、冒険者です。……眠りについていたあなたを、迎えに来た者です」
リディアは私の顔をじっと見た。
それから、ひとり、またひとりと、残りの三人へと視線を移していく。
ニナを。
セオを。
そして、ハーヴィを。
誰にも覚えはないというように首を傾げる。
それでも、その目に私たちを恐れる色はなかった。
ハーヴィがこらえるように唇を結んだ。
手記で知ったこの館のかつての奥方。
その変わり果てた姿を前に、掛ける言葉を探しあぐねているようだった。
やがて、リディアはふっと力なく微笑んだ。
『……そう。……ごめんなさい。わたし、ずいぶん、長く、眠っていたみたいね』
そのあまりに穏やかな声に、胸が締めつけられた。
この人はまだ思い出していない。
自分がなにをしてきたのかを。
――できることなら、このまま、思い出さないでほしい。
そう、願ってしまうほどに。
ニナがこらえきれず口を開いた。
「……ううん。謝らないで。あたしたち、あなたに、会いに来たんだよ」
ニナの声は震えていた。
リディアはその言葉に少しだけ安心したように目を細めた。
『……そうなん、ですね。ありがとう、ございます』
見ず知らずの相手にも、こんなに優しく礼を言える人。
これがほんとうのこの人なのだ。
エドガーにはじめて温もりを与えた――そんな人の素顔。
そして、リディアはもう一度まわりを見わたした。
何かを思い出すかのように、何かを探すように……
『……あの』
ためらいがちに、リディアは言った。
『……リオは。わたしの、あの子は、どこ……に……?』
――ぴしり――
空気が凍りついた。
誰も答えられなかった。
その痛いほどの沈黙が、なによりも雄弁に答えを告げてしまっていた。
その瞬間、リディアの穏やかだった顔が……ゆっくりとこわばっていった。
『あ……』
思い出したのだ。
その名とこの空気が鍵となって、記憶の扉が……開いてしまった。
あの子が手すりから落ちたこと。
自分の目の前で亡くなってしまったこと。
その現実を受け入れることができず、自分が壊れてしまったこと。
そして――憎しみに我を忘れ、あの"影"となり、この館でなにをしてきたのかを。
リディアの体から、またあの"影"が溢れ出してきた。
ふたたび彼女の想いが、私たちのなかに流れ込んでくる。
世界のすべてを呪い、この館を呪い、すべての者へ牙を剥いた日々。
縁もゆかりもない私たちにさえ、あの"影"で幾度も襲いかかった。
『わたしは……こんなに、たくさんの人を、傷つけて……』
そして、思い出してしまった。
『愛していたあの人にさえも、この手で、傷つけて……』
声が絶望に沈んでいく。
『こんな、わたしが……いまさら、なにを、赦されるというの』
凪いでいたはずのこの部屋の気配が、ふたたび暗く濁っていく。
台座の光が、ふたたび明滅しはじめた。
――まずい。
流れ込んでくる想いが告げていた。
この絶望はさっきまでのものとは、違う。
憎しみは、リオを喪った悲しみの裏返しだった。
だが、いま彼女を呑もうとしているのは――あの"影"となって、その手で振るってしまった、たしかな罪の意識。
自分を責める心が、いったん手放したはずの憎しみの壁の内側へ、もう一度、彼女を引きずり込もうとしている。
――そうか、"赦された"だけでは、足りないのだ。
あの子の死は、あなたのせいではない。
そう伝えて、我が子を死なせたという原初の自責は、たしかに解けた。
だが、我を忘れて人を傷つけた記憶は、"あなたのせいではない"の一言では、拭えない。
それはまぎれもなく彼女自身の罪だから。
その新たな罪の意識が、鎮めたはずの原初の自責までも、ふたたび呼び覚ましてしまった。
罪を、なかったことには、できない。
罪の意識を、消してやることも、できない。
ならば――。
この人に、リディアに、いま届けなければならないのは、赦しではなかった。
そのさらに先。
――どれほどの罪を背負ったあなたでも、それでも、あなたは、愛されている、と。
道標に記されていた、最後の品。
叶わなかった、未来の絵。
エドガーが託した、その願いの意味が、いま、はっきりとわかった。
「ハーヴィさん」
だが、ハーヴィは、私の言葉を待たず、もう動いていた。
胸に抱き続けた、一枚の絵。
傷ひとつつけまいと守り抜いてきた、あの絵を。
歯を食いしばりながら、最後の暗いままの台座へと捧げるために、一歩、一歩、進んでいく。
その足取りは、力強かった。
"この館の管理人、自分の務め"――そう言い切った、あの言葉のままに。
「……奥さま。どうか、これを、ご覧ください」
そして、四つ目の台座へ、未来の絵を、そっと立てかけた。
明るい陽射しの下、青々とした野原。
父と、母と、その間に小さな男の子。
手をつないで、いまにもどこかへ駆け出していきそうに笑っている。
子供の足元には、小さな花が幸せそうに揺れていた。
もう、叶うことのないはずの、その未来。
「これは、エドガーさんが……独りで、描いたものです」
私はリディアに向けて、ゆっくりと、しかし、はっきりと告げた。
「なにもかもを失って、それでも、あなたの夫は、こんな未来を、心の中に描いてた。叶わないとわかっていても……あなたと、あの子と、三人で、笑う日を、心の中で夢見ていた。……あなたは、憎まれてなんか、いなかった。ずっと、これからの幸せを、願われていたんだ」
絶望に染まっていたリディアの瞳が、ゆっくりとその絵の上でとまった。
願われていた、心の中で夢見ていた幸せのかたちに。
濁りかけていた気配が、その絵の前で、ふいに、動きを止めた。
張りつめていたものが、糸をほどくように、ゆるんでいく。
ふたたび部屋を蝕もうとしていた黒いもやが、その絵に照らされて、静かに、晴れていった。
四つ目の台座が、澄んだ光を灯す。
――と、それに呼応するように、四隅の台座が、いっせいに、光を強めた。
ひとつ、またひとつと輝きを増し、やがて、四隅に囲まれた寝台までもが、やわらかな光に包まれていく。
彼女を縛りつけていた四つの台座が、いまは、彼女を送り出す祭壇へと、変わっていた。
その光のなかで。
リディアの顔から、憎しみが、悲しみが、自責が、ひとつ残らず、剥がれ落ちていった。
長い年月、彼女を蝕んでいたものが、そのすべてが。
そして、あとに現れたのは――あの肖像画と、同じ。
優しく、穏やかな、面影だった。
ようやく、ほんとうのリディアが、そこにいた。
と……ふいに、あたりが、あたたかくなった。
見上げると、天井からふたつの光が静かに降りそそいでくる。
春の陽だまりのようなやわらかな光。
この部屋の凍えきった空気が、うそのように和らいでいった。
ひとつは、小さく。
もうひとつは、その隣に、寄り添うように。
私は、息を呑んだ。
それが、なんの……いや、誰の光なのか。
確かめるまでもなく、わかってしまった。
ふたつの光はゆっくりとかたちを結んでいった。
ひとつは、五つばかりの、小さな男の子。
もうひとつは、背の高い、痩せた、初老の男。
エドガーと、リオが……もう二度と、会えるはずのなかった、ふたりが……
いま、たしかに、そこにいた。
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