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愛を弔う館 ― 閉じ込められた四人  作者: 智信
第三部

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第34話 リディア

「順を誤れば、きっと拒まれる」

—— 逆再生の鎮魂

 寝台のリディアの体から、あの"影"がとめどなく溢れ出していた。

 黒いもやが部屋を満たし、台座の光が脈打つたびに床が震える。


『帰れ』『消えてしまえ』『おまえたちに、なにが、わかる』


 老婆の声、婦人の声、少女の声。

 三つが幾重にも折り重なって部屋中に反響する。


 だが、私たちは動かなかった。

 誰ひとり退かないと、もう決めている。


 そのときだった。

 溢れ出す"影"の端が、ふいに私の頬をかすめた。


 ――瞬間。


 憎しみが奔流となって頭のなかへとなだれ込んできた。

 耳に届いていた三つの声が、いま、じかに脳の奥で渦を巻く。

 世界のなにもかもを呪う、底なしの憎しみ。

 頭の芯が灼けるようだった。


 いや、私だけではない。

 ニナも、セオも、ハーヴィも、同じだった。

 溢れ出した"影"は、四人すべてに触れていた。

 同じ憎しみが、同じ三つの声が、それぞれの頭のなかへ容赦なく流れ込んでいる。

 ニナは顔を歪め、セオは歯を食いしばり、ハーヴィは低い呻きを噛み殺していた。


 しかし、その濁流に触れたことで理解できたことがある。

 否応なくわかってしまった。


 ――この憎しみは、壁。


 悲しみを抱えた人が、これ以上傷つかないように自分のまわりに築いた分厚い壁。

 外側から叩いても、厚くなるだけだ。

 この壁を越えるには、壁の内側へ届くものを差し出さなければならない。


 私は胸もとの箱に指をかけた。


 ――憎しみの源流には、あの子を喪った悲しみがある。


 流れ込んでくる想いの底に、私はそれを感じ取っていた。

 そして、道標もそう告げていた。

 "彼女にあの子のことを思い出してほしい"と。


 順を誤れば、きっと拒まれる。

 この憎しみは、そんな中途半端なものではない。

 流れ込んでくる声が、そう、私に告げているようだった。


 私は……胸もとの箱を両手で捧げるように前へ出した。

 小さなねじを、巻く。

 そして、その蓋を開けた。


 ――ぽろん――


 澄んだ音が、こぼれ落ちた。

 それは優しい旋律。


 子どもが口ずさむような……

 母が、子守唄を、聞かせるような……


 音色が澱んだ空気をそっと撫でていく。


 その瞬間。


 頭のなかで渦巻いていた憎しみが、たわむ。

 脈打っていた台座の光が、ゆるやかになっていった。


 そして――脳の奥で響いていた三つの声の、ひとつが、途切れた。

 軋むように憎しみを吐き続けていた、老婆の声。

 それが、旋律に溶けるように、ふつりと、消えた。


『…………その、しらべ』


 残った二つの声が、揺れる。


『どうして。……どうして、それを、いま』


 その声には、もう、刺々さはなかった。

 私のなかへ流れ込むものが、憎しみから、痛いほどの悲しみへと、変わっていく。


 私はいちばん近くの台座へ、鳴りやまぬオルゴールを、そっと置いた。

 刻まれた祈りの言葉が旋律に応えるように、やわらかな光を帯びる。


『あの子が……好きだった。……わたしが口ずさむと、笑って、手を、叩いて……』


 寝台に横たわるリディアの閉じた目の端から、つぅ、と透明なものが伝った。


 ――届いた。


 憎しみの壁が崩れ、その内側から、悲しみが静かに顔を出していた。


 だが、これで終わりではない。

 流れ込むものは、まだ、もっと深いところへと私を引き摺り込んでいく。


「ニナ」


 私の声に反応し、ニナは母子像を抱えたまま、一歩、前へ出た。

 その腕のなかには、小さな母と子の像。

 子をそっと胸に抱いた、慈しみの母子像。


 ニナは寝台へ近づき、震える声で言った。


「……これ。あなたが、この子を、抱いていた頃の……姿だよ」


 そして、二つ目の台座に、母子像をそっと据えた。


 残った声が、揺れた。


『……あたたかかった。……こんなに、小さくて。この腕に、すっぽりと、おさまって……』


 その温もりに触れたとたん。

 もうひとつの声が――『帰れ』と繰り返していた、頑なな少女の声が、ほどけるように、消えた。


 脳の奥に残ったのは、ただひとつ。

 あの、婦人の声だけ。


 だが。


 その声が、ふいに叫び声を上げた。


『……なのに。……なのに、わたしは!』


 台座の光が、激しく揺らいだ。

 凪ぎかけていた気配が、ふたたびざわりと逆巻く。


「マーレ……!」


 ニナが思わず身を引いた。

 やってしまったのか、順を誤ったのか、私の胸にも冷たいものが差す。


 ――いや、違う。


 流れ込んでくるものが、告げていた。

 これは拒絶ではない。

 抱え込んできた傷が、いま、悲しみを越えてあふれ出したのだ。


『わたしの、目の前で。……あの子は、わたしに、手を振ろうとして……』


 声とともに、彼女の自責の念が頭のなかへとどっとなだれ込んできた。


『わたしが、下で、見ていたから。……わたしが、名を、呼んだから。……あの子は、あの子は……』


 ――わたしが、あの子を、殺した。


 その叫び声が、私の頭のなかに響き渡る。

 世界を呪う声も、私たちを追いまわした憎しみも、すべては、この一点から噴き出していた。

 私たちへ向けられた刃は、その裏返しにすぎなかった。


 自らを責めつづける人に、慰めの言葉は、きっと届かない。


 だが、この傷を癒すものがあるとすれば、それは……


「セオ。……あれを」


 私の声に頷くと、セオは手にしている祈具を包んでいた布から取り出した。

 月と、太陽と、星を彫り込んだ、手のひらほどの木の盤。


 セオは、三つ目の台座へ、それを置いた。


 そして、寝台の上のリディアに向けて、その言葉を伝えた。


「これ……エドガーさんが、何回も握りしめて、祈っていたものです。……縁が、こんなになるまで」


 私は寝台へともう一歩だけ近づいた。

 あの溢れ出す"影"のただなかへ。


「エドガーは、あなたを、責めたりは、していなかった」


 リディアに、この声が届くように。

 言葉、ひとつひとつを、ゆっくりと。


「あなたのせい、だとは、どこにも、残されて、いなかった。あの人は、ずっと、自分を、責めていた。……あの子を、あなたを、守れなかったのは、自分だと。だから、祈り続けた。どうか、妻を、救って、ください、と」


『……ちがう。……わたしが、悪いのに。……わたしが』


「違わない」


 私は言い切った。


「あなたは、ただ、あの子の名を、呼んだだけだ。……下から、我が子を見上げて、名を呼んだ。それの、どこが、罪だ。子を呼ぶ母が、どうして、責められる」


『でも……あの子は、死んだ。わたしの、せいで』


「あなたのせいじゃない」


 逆巻く気配に負けないように、私は腹の底から声を出した。


「エドガーも。……きっと、あの子も。ずっと前から、あなたを、赦している。あなただけが、自分を、赦せずにいた。……もう、いいんだ。もう、十分なんだ」


 頭のなかを灼いていた自責の念が、ふっとやわらいだ。

 自らを責め続けていた最後のその声が、糸が切れたように静まっていく。


 ――三つの声が、すべて収まった。


 私の頭のなかを掻き回していた濁流も、いつのまにか引いていた。

 寝台の上を見ると、リディアの体から溢れ出していたあの"影"が、いつの間にか止まっていた。

 三つ目の台座が澄んだ光を灯した。

 室を満たしていた重い気配が、潮が引くように少しずつ薄らいでいく。


 長い長い沈黙が、部屋に降りていた。


 そして。


 その静けさの底から、ひとつの声が聞こえてきた。

 部屋に響き渡る、その声は、これまでただの一度も聞こえてこなかった声だった。


『……赦されて、いいの。……わたしは』


 それは、歪んでも、幾重にも重なってもいなかった。

 ただ、ひとりの女の、細くて、やわらかな声――リディア、そのひとの声だった。


 寝台のリディアが、ゆっくりと、その目を開けていた。

 長い眠りから、ようやく覚めたばかりのように。

 その瞳はまだ焦点を結ばず、どこを見るともなく宙をさまよっている。

 それでも――あの憎しみのこわばりは、その顔から、もう、消えていた。


 その姿に肩の力が抜け、膝から崩れ落ちそうになる。

 だが、私はそれを堪えた。


 凪いだ気配のなかで、あらためて四隅の台座を見渡す。


 ひとつの台座に、オルゴール。

 ひとつの台座に、母子像。

 ひとつの台座に、祈具。


 ――三つは、灯った。


 あと、ひとつ。

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