第32話 母子像と未来の絵
「この像、隣の応接室の女神像とは、まるで別の人が造ったみたいだって、思ったんです」
—— 偽りの品
別館と本館をつなぐ渡り廊下は冷えきっていた。
私を先頭に、ニナ、ハーヴィ、そして殿にセオ。
その並びを崩さぬまま、私たちは本館へと踏み入った。
途端に……空気が変わった。
別館の比ではない濃密な気配。
この建物すべてがじっとこちらを見ている――そんな感覚だった。
それでも足を止めることなく、広間へと踏み込んでいく。
そこは、天井のシャンデリア型の魔道具が、翳った光を落としていた。
その中を一歩一歩、進んでいく。
正面。
吹き抜けの上へと伸びる、あの大きな窓。
重いカーテンで塞がれてはいたが、その向こうであの"影"がざわめいている。
あの布一枚を隔て、すぐそこでこちらをうかがっていた。
視線を落とすと、階段の下に、あの美術品があった。
塔のような石の細工。
だが、いまは、わかる。
――ここで、リオが、亡くなったのだ。
手記にあった。
あの子は、二階の手すりから下にいる母へ手を振ろうとして、身を乗り出し――落ちた。
この階段の下へと。
エドガーはその場所に、子を弔うための塔を据えたのだ。
賓客を迎えるための豪奢な広間にある場違いなそれは、彼にとっての息子の墓標であった。
セオがその手をきゅっと握り締めていた。
その目は石の塔から離れていない。
「……ここで……小さな子が」
その声は掠れていた。
ハーヴィは深く頭を垂れていた。
「自分は……この塔を、ただの置物だと。埃を払うこともせず、幾度も、その脇を、素通りしておりました。……何も、知らぬまま」
その声は何かを悔いているように震えていた。
ニナもその塔をじっと見つめていた。
そして、その視線がゆっくりと上へ――二階の手すりへと動いていく。
「……あたしが、壊した、手すり」
声が震えていた。
「あそこがあの子が、落ちた場所……だったんだね」
あのとき足をもつれさせたニナが掴んだ手すりは、脆く折れてこの広間へと落ちた。
遠い昔に幼い命が落ちたのと同じ場所へ。
偶然だ、と言うことはできた。
だがニナはそうは思わないだろう。
「ニナ」
私はその肩に手を置いた。
「行こう。……あの子と……そして、彼女を弔うために」
ニナは、唇を噛んで、頷いた。
---
私たちは広間を抜け、奥の廊下へと向かった。
この廊下の先には、あのサンルームがある。
私は刃こぼれした剣を強く握り直した。
廊下を奥へと進むと、応接室の扉の前に辿り着いた。
書き置きにはこう記されていた。
――応接の間に、母と子の、小さな像を。
ハーヴィが鍵束から迷わず一本を選び取った。
かちり、と、乾いた音を立てて、錠が外れた。
扉を開けると、そこは派手な織物も大きなソファもない、内装も控えめな応接室が姿をあらわした。
そして、視線を奥に送ると、それはあった。
母と、子の、小さな像。
母が、幼子を、そっと胸に抱いている。
しかし、そこに巧みさはない。
セオが像の前にそっとしゃがみ込んだ。
「……前に写したときは。この像、隣の応接室の女神像とは、まるで別の人が造ったみたいだって、思ったんです」
その視線が母の腕の拙い彫りをそっとなぞる。
「……でも、いまは、わかります。これ、あの工房で……独りで彫っていた、あの作りかけと、同じなんです」
そのとおりだった。
この母子像は、あの男がただ一心に彫りあげたもの。
喪ってしまった子と変わってしまった妻。
二人が幸せだった時の姿を、その手でかたちに残そうとして。
いくつも失敗して。
そして、この像に辿り着くことができたのだろう。
それは執念なのだろうか、追悼なのだろうか、それとも愛情だったのだろうか。
私にはわからない。
しかし、初めてこの像を見たとき、私は胸の奥がキュッと締まるのを感じた。
あのときはその理由がわからなかった。
だが、いまならわかる。
ここに――私の知らない、けれど、心のどこかでずっと求めていたものが宿っていたからだ。
母親の腕のなかのあたたかさ。
それを欲しがる気持ちが、ずっと眠っていた。
顔も知らない私の母も、こんなふうに私を抱いてくれていたのだろうか。
そう思ったが……答えの出ないことをばかばかしい、と蓋をするように頭を振った。
そんな私の横をニナが通り過ぎていった。
その両手をそっと差し出す。
「……あたしが、運ぶ。この、お母さんと、子どもを」
両手で抱え上げたその姿は、まるで本物の子を抱くように優しかった。
---
残るは、ひとつ。
叶わなかった、未来の絵。
それは二階の遊戯室にある。
私たちは広間へと戻り、階段を、一段、また一段と、上がっていく。
手すりには誰も触れない。
その階段の途中、ハーヴィの足がふいにもつれた。
「ハーヴィさん! ……大丈夫ですか!」
セオがあわててその背を支える。
「……大事、ありません。……このくらいで音を上げていては、皆さまの、足手まといになりますゆえ」
ハーヴィの息は荒くなっていた。
傷が響いているのだろうか。
しかし、その声は力強かった。
やがて、私たちは二階へと辿り着いた。
遊戯室の扉もまた、固く施錠されていた。
ハーヴィが息を整えながらも、鍵束から一本を選び、鍵を開ける。
扉を開けると、埃をかぶったいくつもの卓が並んでいた。
その上には盤上遊戯の駒や色褪せた札がそのままになっている。
壁ぎわにはゆったりとした長椅子。
棚には酒器。
――客を招いて、賑やかな夜を過ごすための、大人の部屋だ。
私は壁ぎわの長椅子をハーヴィへと勧めた。
「ハーヴィさん。そこで、少し休んでいてください」
ハーヴィは一度は遠慮した。
しかし、階段でよほど堪えたのだろう、小さく頭を下げるとその長椅子にそっと腰を下ろし、目を閉じた。
私は、ふたたびこの部屋を見渡した。
小さな木馬が一頭。
窓には重いカーテン。
そして、奥の壁に掛かっている、一枚の絵。
明るい陽射しの下、青々とした野原に三人の家族。
父と、母と、その間に小さな男の子。
手をつないで、いまにもどこか楽しい場所へ駆け出していきそうに笑っている。
子供の足元には、小さな花が幸せそうに揺れていた。
「これ……」
ニナが、呟いた。
「これ、叶わなかった未来だ。……あの子が生きていたら。こうして三人で、どこかへ出かけられたはずの……そんな一日を、夢見ていたんだ」
もう、手に入らない幸せ。
それでも、エドガーが描かずにはいられなかった家族の未来。
心の中の世界。
「……幸せ、そうだね」
ニナが呟いた。
「ほんとうに、幸せそうですね。……この絵の、三人は」
セオが続く。
「そう、だな」
私も、静かに頷いた。
しばらく、私たち三人は、その絵に見入っていた。
後ろからハーヴィが立ち上がる音が聞こえた。
振り返ると、ハーヴィの顔にはまだ血の気が完全には戻っていない。
こめかみの傷もまだ痛むはずだ。
それなのに、その目だけはさっきまでとは違っていた。
「……こんな一日を。あの子と、奥さまと。……エドガー様は、心の中で夢見ておられたのですね」
ハーヴィは、一歩、また一歩と、その絵へ近づいていく。
絵の前に辿り着くと、深く頭を下げた。
「……自分がお運びします。このご一家の、未来を」
そっとその絵を壁から外す。
――埃を払うこともせず、幾度も、その脇を、素通りしておりました。
その悔いを、この一枚に託そうとしているのだろう。
傷ついた身体でも彼はしっかりとその絵を抱えた。
――この一枚には、傷ひとつつけさせない。
その背がそう語っているようだった。
---
これで、四つ。
オルゴール。
祈具。
母子像。
そして、未来の絵。
弔いのための品は、すべて私たちの手に揃った。
私は皆を見た。
鞄に二つの品を納めている、セオ。
母子像を我が子のように抱えている、ニナ。
未来の絵を大切に抱えている、ハーヴィ。
そして、剣を握る、私。
「……行こう」
私たちは、彼女を弔う。
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