第31話 オルゴールと祈具
まずは四つの品を集める、進む道は決まった。
だが、その前に決断しなければいけないことがある。
私は長椅子のハーヴィへと向き直った。
「ハーヴィさん。あなたは、ここで休んで、待っていてください」
私は努めて客観的に聞こえるように言った。
「この居間の窓は、重いカーテンで閉じられている。あれもここへ入ってくる気配はない」
ハーヴィのこめかみに巻かれている布からは、まだうっすらと血がにじんでいる。
顔の色も完全には戻りきってはいない。
「それに、あなたの顔色はまだ悪いままだ。だから、ここで待っていてほしい」
それが、いちばん、理にかなっていた。
頭を打った人間を、あの本館まで連れ回すなど、正気の沙汰ではない。
「彼女を弔うことができたら、必ず戻ります。……それまで、待っていてください」
だが……
「……いえ」
ハーヴィはゆっくりと首を横に振った。
「自分も、ついていきます」
その声は掠れていたが揺るがなかった。
「……ハーヴィさん」
「この館は、自分が、任された館でございます。……雇われて、日の浅い身でございます」
ハーヴィの声が少しずつ熱を帯びていく。
「……取り壊しの前に、ただ預かるだけの、空き家の管理人のつもりでおりました。ですが、あの手記を、読んでしまいました。ここで生きた、ご一家のことを、知ってしまった以上……もう、ただの管理人では、おられません。あの奥さまを、弔うところまでは、ご一緒したいのです」
その言葉に、セオがハーヴィの隣でこくりと頷いた。
ニナも何も言わず、ただまっすぐにハーヴィを見ている。
――誰もこの人を止めようとはしない。
「……また、危険なことが起きるかもしれない。庇いきれないかもしれない。それでもか」
「はい」
即答だった。
ハーヴィの目は、決意したものの目に変わっていた。
私は短く息を吐いた。
――こういう目をした人間は、止まらない。
それはニナでいやというほど知っていた。
「……わかりました」
私は預かっていた鍵束をハーヴィへと差し出した。
「なら、約束します。あなたも、ニナも、セオも。……私が、必ず守ります」
ハーヴィが目を見張った。
そして、震える両手で、その鍵束を力強く受け取った。
「……ありがとう、ございます」
――誰も置いていかない。
私は自分の心の芯にそう誓った。
---
居間から広間へ通じる扉は壊れたまま開かない。
私たちは来た道を引き返した。
居間から食堂へと戻り、厨房を通り抜け、使用人の廊下からふたたび別館の広間へと戻る。
そして二階へと続く階段を上りはじめた。
階段を上がるあいだも、あの"影"の気配は絶えずまとわりついてきた。
温もりの失せた冷えた空気。
どこからか見られているような粘つく視線。
この別館への侵食は徐々に深くなっていっていた。
階段を上りきり、二階の廊下へと出ると、いちばん手前の部屋へと向かった。
「まずは、子供部屋だ」
ハーヴィが鍵束から一本を選び、扉を開けた。
小さな寝台。
背の低い机。
棚に並んだたくさんの絵本。
壁には無邪気に笑う幼い男の子の肖像画。
――リオ。
その部屋は、あの子がいまにも駆け込んできそうなほど、時が止まったように静かだった。
――だが、この部屋の主は、もういない。
誰もすぐには部屋に入らなかった。
ここは、みだりに立ち入っていい部屋ではない。
「……おじゃまするね」
ニナが部屋に向かい、小さな声でそう言った。
私も静かに目を伏せた。
どうか安らかであってほしい。
声にはしなかったが、そう強く願った。
ハーヴィも、セオも、同じように頭を垂れている。
しばしの沈黙は、この部屋で確かに生きた幼い子への、ささやかな弔いだった。
やがて私たちは顔を上げた。
「……探そう。あの子の、オルゴールを」
部屋へと、一歩、踏み込んだ。
その瞬間、空気に温もりが戻ってきた。
――あの"影"は、やはりリディアだ。
そう、改めて理解した。
私たちは手分けして部屋を探した。
それは机の上にあった。
木でできた小さな箱。
埃をかぶってはいたが、蓋には丁寧な彫りで羽を広げた小鳥が象られていた。
ニナがそっと持ち上げた。
「……子どものための、オルゴールだ」
その声が少し震えた。
「ねえ、マーレ。……この箱の曲を、あの子は、きっと何度も聴いたんだよね……」
ニナの指が蓋の小鳥をそっと撫でた。
「どんな曲なんだろう。……あの子が、いちばん、好きだった曲」
ニナが私を見た。
「……鳴らしてみても、いいかな?」
私は頷いた。
ニナが蓋の脇の小さなねじをそっと巻いた。
かちり、かちりと、乾いた手応え。
そして、蓋を開けた……
――ぽろん――
澄んだ音が部屋中に響き渡っていった。
それは優しい旋律だった。
子どもが口ずさむような……
母が、子守唄を、聞かせるような……
私はいつの間にか目を閉じていた。
それはきっと、ハーヴィも、セオも、そしてニナも、同じ。
消えてしまったささやかな幸せの音に、静かに聴き入っていた。
やがて旋律はゆっくりと途切れた。
ニナが名残惜しそうに蓋を閉じる。
「……次にこれを鳴らすのは、あの人の前で、だね」
ニナはそれを胸に抱いてからセオへと差し出した。
「……セオ、お願いできる? あんたの鞄なら、割れる心配も、ないでしょ」
セオは頷くと、受け取ったオルゴールを布で幾重にもくるみ、鞄の底へとそっとしまった。
---
私たちは子供部屋をあとにした。
ハーヴィが扉を閉め、鍵束から一本を選ぶ。
かちり、と、錠のかかる音。
もうこの部屋に用はない。
あの子の眠りを、これ以上、乱すまい。
「……次は、隣の……彼女の部屋だ」
ハーヴィが、鍵束から別の一本を選び、錠を外した。
私たちは扉を開け、彼女の部屋へと入っていった。
窓辺のひとりがけの椅子。
奥のゆったりとした寝台。
入り口の脇には鏡の外された古い化粧台。
そして壁には――優しい微笑みを湛えた、彼女の肖像画。
――リディア。
私たちは、しばらくその絵の前で動けなかった。
「……この人が」
ニナが呟いた。
「この人が、あれに……」
絵のなかのリディアはどこまでも穏やかだった。
「……こんなに、優しそうな人なのに」
その声には、責めるでもなく、ただ悲しみだけが溢れているようだった。
私も、同じだった。
ハーヴィも、セオも、その絵をじっと見上げていた。
手記で彼女がたどった道を私たちは知っている。
リオを喪い、悲しみの末、あの"影"へと変わり果てたことを。
だからこそ――この穏やかな微笑みがいっそうつらかった。
ふと視線を下げると、その絵の真下――小さな卓の上に、ひとつの箱が置かれていた。
箱の蓋には長い年月の埃がうっすらと積もっていた。
私は埃をやさしく払い落とし、そっとその蓋を開けた。
なかに納められていたのは――手のひらほどの、小さな木の盤だった。
月と、太陽と、いくつもの星が、彫り込まれている。
そして、その一つ一つに、祈りが込められているようだった。
盤の両の縁は、人の手の跡が、色濃く残っていた。
幾度も握りしめられたのだろう。
これが祈りを捧げるためのものであることは、ひと目でわかった。
――赦しを、乞うた、祈具。
書き置きのあの一行が、耳の奥でよみがえる。
エドガーはこの盤を握りしめ、絵の中の妻に何度も祈ったのだろう。
――彼女は悪くない。どうか、赦してやってほしい、と。
私は、それをそっと両手で持ち上げた。
そして、セオに手渡すと、セオは丁寧に布で包み鞄の底へ、そっとしまった。
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これで二つ。
オルゴールと、祈具。
「残りは、本館の二つだ」
私は皆を見た。
母と子の像と、叶わなかった未来の絵。
「……行こう」
剣を提げた私が先頭に立つ。
その後ろに、ニナ。
次いで傷を負った、ハーヴィ。
そして最後に画板を手にしている、セオ。
私たちは別館をあとにする。
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