第30話 道標
「彼女を鎮め、安らかな眠りへ還すための品を、四つ、遺した」
—— 絵画の裏の道標
居間への扉を前にして、手にしている鍵束を重く感じていた。
――どれが、この扉のものか、わからない。
いつもならハーヴィが迷いなく一本を選び取る。
だが、そのハーヴィは傷を負って動けずにいる。
私は、鍵束の端から一本を選び、鍵穴へ差し込んだ。
回す。
――回らない。
抜いて、次の一本。
差し込み、また回す。
――やはり回らない。
あの"影"がこの別館を侵し始めている。
もたついている時間は、ない。
三本目。
四本目。
五本目を、差し込み、回す。
――かちり。
乾いた手応えが指先に伝わった。
錠が外れる音。
私はそっと息を吐いた。
扉を開けると薄明りが家族の団らんの部屋をぼんやりと照らしていた。
壁際には火の消えた暖炉。
使い込まれた長椅子。
家族が囲んだのだろう丸い卓。
足元には色褪せた絨毯が敷き詰められている。
――別館のなかで、いちばん、家族の温もりが色濃く残っている部屋。
しかし、あの手記を見てしまっては、その温もりを感じることができなくなっていた。
私は窓を見た。
重いカーテンははしっかりと閉じられている。
隙間はない。
――ここなら、あの"影"は、手を出せない。
「ニナ。……あの絵だ」
私は奥の壁のひときわ大きな一枚へと歩み寄った。
それは暖炉の上に飾られている。
父と、母と、小さな男の子。
三人の絵。
寄り添い、こちらを見て微笑んでいる。
無邪気に笑う幼い男の子。
その肩を優しく抱き寄せる母。
二人に寄り添い穏やかに目を細める白髪まじりの父。
――リオと、リディアと、そして……エドガー。
絵のなかの誰もが笑っていた。
この先で幼い息子が命を落とすことも……
母が、我が子を喪った悲しみのすえに、あの"影"へと変わり果てることも……
父が、残りの生涯を、たった一人、贖罪に費やすことも……
この絵の中の三人は、知らない。
この一枚は、すべてが壊れるその前を閉じ込めていた。
ニナが絵の前に立ち、しばらく黙って見上げていた。
「……幸せ、だったんだね。ちゃんと」
その声には、少し悲しみ色があった。
「この絵が描かれたときは。……この人たちは、まだ、なんにも知らなかったんだよね。この先、なにが起きるかなんて」
「ああ」
この笑顔の先に待っていたものを思うと、胸の奥が締めつけられる。
「……ねえ、マーレ」
ニナが絵から目を離さずに、言葉にしていた。
「この家族のことを、もう、誰も覚えてないんだよ、知らないんだよ。町の人も、次の持ち主も、ハーヴィさんも。……この絵だけが、この三人が、確かに幸せだったっていう、証なんだよ」
その横顔には、いつかどこかで見たあの表情が浮かんでいた。
――誰も名前を知らないまま、消えてなくなる……だからその前に、記録しておきたい。
ニナのいちばん深いところにあるもの。
「だから、あたしは……ちゃんと、最後まで見届ける」
私は何も言わず、ただ頷いた。
だが、いまは感傷に浸っている時ではない。
――彼女を弔う手立ては、別館の居間、三人で写った絵の、その裏に遺した。
手記にはそう記されていた。
「ニナ。この絵を外すぞ。……裏を、見る」
---
私とニナは額に手をかけ、そっと壁から外した。
思ったより軽い。
裏返すと――そこにエドガーの文字があった。
ニナがその裏板に顔を寄せる。
私は薄明りに目を凝らし、それを読み上げていった。
「――この書き置きを見つけた、誰かへ」
最初の一行で、ニナが、息を呑んだ。
「――私は、リディアを目覚めさせる術を、ついに見つけられなかった。だが、彼女を鎮め、安らかな眠りへ還すための品を、四つ、遺した」
四つ。
「――子の部屋に、あの子が好きだった、オルゴールを。彼女にあの子のことを思い出してほしい」
子の部屋、この別館の二階にあるあの部屋。
「――応接の間に、母と子の、小さな像を。二人の間にあった温もりを思い出してほしい」
応接の間、あの窓のない本館の応接室。
「――妻の部屋に、私が赦しを乞うた、祈具を。彼女が悪かったわけではない、私の後悔を届けてほしい」
妻の部屋、子の部屋のとなりにあるあの部屋。
「――そして遊びの間に、叶わなかった幸せな未来を描いた、一枚の絵を。叶わなくとも、私たちの心の中にあの子がいるということを思い出してほしい」
遊びの間、小さな木馬のあった本館二階の遊戯室。
「――この四つを、彼女の眠る部屋へ運び、彼女に捧げてほしい」
ニナの読む声が、そこで、わずかに震えた。
「――これで、彼女の心が、静まらんことを、願う」
最後の一行を読み終えて、私たちはしばらく動けなかった。
エドガーは、このためにあの工房で憑かれたように美術品を作り続けていたのか。
それでいて、ついに自分の手で彼女を弔うことはできなかった。
そう思うと胸の奥にやるせなさだけが残った。
---
そんな感傷に私たちが浸っていると、食堂のほうから足音が聞こえた。
振り返ると――セオに肩を借りてハーヴィが立っていた。
こめかみには血のにじんだ布。
顔はまだ青いが、その目にはもう光が戻っていた。
「ハーヴィさん! 動いて、いいのか」
「……申し訳、ございません。じっと、しておれず。……セオさんが、支えてくださいました」
セオがハーヴィをそっと長椅子に座らせる。
「僕が、止めきれなくて。……でも、ハーヴィさん、どうしても、って。それに、休むにしても、こっちの部屋の方が、ハーヴィさんにはよいかな、って」
「……わかった。だが……ハーヴィさん、無理はしないでください」
ハーヴィは私の言葉に頷いたが、その瞳は絵の裏の文字に引き寄せられていた。
それはセオも同じだった。
「見てくれ。エドガーが遺した、道標だ」
セオが絵のかたわらに膝をつき、その手のひらで道標の転写をはじめていた。
「……写します」
手のひらが淡く光り、その文字が一字ずつ紙へと移し取られていく。
写し取りながら、セオはその文字をじっと見つめていた。
やがて、腑に落ちたように小さく息をついた。
「……そうか。だから、この絵だけ、他と違って感じたのかもしれません」
セオがぽつりと呟いた。
夕方、この絵の前で写すでもなくじっと見つめていたあの姿を思い出す。
この子は、あのときすでに、この一枚が他の品とは違うと、絵から感じ取っていたのだろう。
ニナもその隣で手帳を開き、四つの品とその在り処を書き留めていった。
「……四つ、集めればいいんだね。それを、あの母子像の下へ運んで、彼女に捧げる」
「ああ」
道標の転写が終わると、セオがいくつもの紙を取り出した。
この館を巡り、写し取ってきた美術品の記録だ。
セオがそれを薄明りのなかに一枚ずつ並べていく。
「……何枚かは、僕が写していると思います」
その中の一枚が、道標に示されていた美術品のひとつだった。
「これが、応接室の、小さな母子の像。……窓のない部屋でしたから、輪郭しか、写せていませんが」
また、一枚見つかる。
それはあたたかな家族の絵だった。
「そして、こっちが、遊戯室の絵。叶わなかった、幸せな……」
「本館の二つは、これで間違いないな」
セオが大きく頷いた。
「残りの、オルゴールと、祈具は」
「……いえ。あのときは、どちらの部屋も、肖像画しか、写していません」
セオが首を横に振る。
なら、それらは部屋の中を探すことになる。
この居間で確かめられることは、もう、すべて確かめた。
私とニナは外した絵をそっと元の場所へ戻した。
壁に戻った三人がまたこちらを見て微笑んでいる。
「ここまで遺してくれたんだ。……あとは、私たちが、たどればいい」
私たちの進む先は、もう迷いなく定まっていた。
この館にずっと閉じ込められたまま、彼女を弔う。
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