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愛を弔う館 ― 閉じ込められた四人  作者: 智信
第三部

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第29話 焦り

「きっとそれが彼女の怒りに触れたのだろう」

—— 悪霊の怒り


「こめかみから血が流れ、床に黒い染みを広げていた」

—— 管理人の負傷

 あの男の私室を出た瞬間、別館で感じていた温かさが消えているような感覚を覚えた。

 いや、気のせいではない。

 あの"影"に見られているような感覚を私の肌が感じていた。


 ――別館を侵食している。


 私たちは彼女の愛した男の私室を荒らした。

 そして、隠された手記を見つけ、そしてその男の心に触れた。

 きっとそれが彼女の怒りに触れたのだろう。

 ……もしかしたら残された時間は少ないのかもしれない。


 私たちは急いで別館の一階へと降りていった。

 そして、一階の広間に降り立ち、居間へと続く扉へと向かった。


 ――三人の絵。


 その絵の裏に、リディアを、あの"影"を弔うための手立てがある。

 それがこの扉の先の居間にある。


 私はハーヴィに視線を送った。

 ハーヴィは頷くと、いつものように鍵束から一本を選び、鍵穴に差し込もうとした。

 しかし、その手が扉に向かうことは、なかった。


「……ああ」


 ハーヴィが小さく声を漏らした。

 その声に、皆の視線が扉に向かう。


 ――把手が、ない。


「……あたしが、壊した扉だ」


 ニナが小さな声で呟いた。


「申し訳、ございません。すっかり、失念しておりました」


 ハーヴィが力なく首を振る。

 しかし、その声に絶望の色はなかった。


「ですが……この先の居間へは、遠回りにはなりますが、使用人の通路から厨房を抜け、食堂を通って、参ることができます」


 その言葉に、私たちの視線は、広間の壁に埋もれるようにある扉へと移った。


 ――あの先が使用人の領域。


 あそこから厨房へと向かう。


---


 私たちは使用人のための廊下へと回った。


 窓のない石造りの廊下。

 ここにはあの"影"の手は届かない。

 温もりの消えたこの別館で、そのことに深く安心感を覚えていた。


 ハーヴィが厨房への扉の鍵を開ける。

 私は覚悟を決めると、その扉を開いた。

 扉の先には、冷えた竈と錆びかけた調理具が薄明りの中に佇んでいた。


 一歩、部屋の中へと足を踏み出す。

 窓のない部屋に、私の足音が冷たく響き渡る。

 かつてはここであの家族の食事が作られていたのだろう。

 いまは、火の入ってない、物悲しさを感じるだけの空間になっていた。


 右手を向くと、そこに扉がひとつあった。


「その扉の先が、食堂でございます。……食堂を抜ければ、居間へ。三人の絵のある、あの部屋へと、出られます」


 そう言うと、ハーヴィは、その扉の前へと進み出た。

 その背に私たちも続いた。


 ハーヴィが鍵束から鍵を選び鍵穴へ差し込む。

 かちり、と、乾いた音がして扉が解錠される。


「先ほど、皆さまと入ったときには、なんともございませんでしたので。……すぐに、お開けいたします」


 そういうと、ハーヴィは把手に手をかけ、扉を開こうとしていた。

 その瞬間、私はあの光景がフラッシュバックしてきた。


 ――急かされて、セオが慌ててカーテンを引いた光景。


 私の足が止まった。


 あの食堂には窓がある、大きな一枚の窓が。

 そして――あの夕方。

 急かされたセオが、あのカーテンを半分しか閉めずに出てきた姿。


 背筋を嫌な予感がゆっくりとなであげていった。


「ハーヴィ、待って! その部屋は――」


 私の声が届くより早く、ハーヴィがその扉を引き開けた。


---


 その瞬間だった。


 ――ガラスだ。


 食堂の窓。

 セオが急かされて半分しか閉めなかったあのカーテン。

 その引き残された隙間が濃淡のない黒で詰め尽くされていた。

 そして、その黒のなかから――あの"影"がのぞいていた。


 空気がみしりと軋む。


 卓が、椅子が、食堂にある全てが一斉に震えだした。


「ハーヴィ、下がって!」


 だが遅かった。


 あの"影"が、扉を開けたハーヴィを睨んだ。

 卓の上の燭台がハーヴィに向けて、槍のように襲いかかってきた。

 ハーヴィはそれを避けようとしたが、あと一歩、遅かった。


 ――ゴッ、と鈍い音がした。


 燭台の重い台座がハーヴィのこめかみを打った。

 その体が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。


「ハーヴィ!」


 ニナの悲鳴が響き渡る。


 だが飛来はやまない。

 椅子が扉を壊し、厨房の中へも襲いかかってくる。

 セオはハーヴィとニナを庇うように画板を構えて前に出た。


 私は剣を抜いて、食堂へと駆け入った。

 あのカーテンを閉じれば、この襲撃は止まる。

 後ろはセオが守ってくれる。

 私はその信頼を背中から感じ、刃こぼれだらけのこの剣で道を開いていった。

 打ち落とし、かわし、また打ち落とす。

 一歩、また一歩と、私は窓へにじり寄った。


 横合いから飛んできたトレーが、肩を強くかすめた。

 鋭い痛みが走る。

 だが、足は止めなかった。

 ここで止まれば、それで、終わりだ。

 私は渾身の力を込め、最後の一歩を踏み出した。

 身を投げ出すように窓へ手を伸ばし、半分だけ引かれたカーテンの端を掴み、力任せに引ききる。


 重いカーテンが窓ガラスを覆った。


 その瞬間、嵐のような喧騒が嘘のようにやんだ。


 宙にあったものがいっせいに床へ落ちる。

 カラカラ、と乾いた音を立てて。


 あとには、私と、セオと、そしてニナの、荒い息だけが残った。


---


 私はハーヴィのもとへ駆け戻った。


 こめかみから血が流れ、床に黒い染みを広げていた。

 目を固く閉じている。


「ハーヴィ! ……気を、しっかり!」


 頭を強く打っている。

 無理に動かしてはいけない。

 私はハーヴィの肩を、そっと揺すった。


 ――目を、開けない。


 その鼻先に手をかざす。


 ――息は、ある。


 浅いが、たしかな呼吸。

 気を失っているだけだ。

 最悪の想定から外れたことに、私の心は少しだけ安堵を覚えた。


 セオが鞄から布を取り出し、ハーヴィの傷口に強く押し当てた。

 白い布がみるみる赤く染まっていく。


「僕が……僕が、あのカーテンを、ちゃんと閉めていれば……!」


 その手は強く震えていた。


 ニナは蒼白な顔で座り込んでいた。

 自分の壊した扉のせいで、この道を通ることになった。

 そう思っているのだろう。


「二人とも」


 私は努めて冷静に言った。


「いまは、それどころじゃない。……ハーヴィさんを助けるのが、先だ」


 自責はあとでいくらでもできる。

 いまは目の前の命だ。


 セオに引き続き傷口を押さえてもらいながら、ハーヴィの頭をセオの膝の上に乗せる。

 ややあって、ハーヴィの血が収まり、呼吸が安定した。


「……ぅ……」


 低い呻きとともに、ハーヴィが薄く目を開ける。


「ハーヴィ、大丈夫か!?」


 私は、その顔を覗き込んだ。


「……じ、自分、は……」


「頭に怪我を負っている、今はそれ以上、動くな」


「……そ、そう、です、か……申し訳……ございません……自分が、油断を……」


「それ以上、喋るな。……生きてる。それで、十分だ」


 それでも、ハーヴィは床に手をついて身を起こそうとした。


「動くな、と言っている」


 私はその肩をそっと押し戻した。


「で、では、この、鍵を……」


 そう言うと、ハーヴィは握りしめていた鍵束を私へと差し出した。

 この先の扉を開けるために。

 私が黙って受け取ると、ハーヴィの強張った顔がふっとゆるんだ。

 その安堵を見届けて、私はセオへと向き直った。


「セオ。ここで、ハーヴィさんについていてくれ。……頼めるか」


「……はい。任せて、ください」


 その顔からは、もうさっきまでの怯えは消えていた。


「ニナ。お前は私と来い。……居間だ。三人の絵の裏に、あの人を弔う手立てがある」


「……うん」


 ニナが袖で涙を拭い、立ち上がった。


「マーレ。……あたし、今日、失敗してばっかりだよね。カーテンも、扉も、そして、あの像も……そのせいで、ハーヴィさんまで」


「ニナ」


「でも」


 ニナは私をまっすぐに見つめた。


「それだけで終わりたくない。あたしは、あの人を……リディアさんを、ちゃんと弔う。……それが、いまのあたしが……ううん、あたしたちがしなければいけないことだから」


 その目には力強さが戻っていた。


 ――ああ、それでこそ、ニナだ。


「……そうだな。頼りにしてる」


 私がそう言うと、ニナはほんの少しだけ笑った。


「……行くぞ、ニナ」


 セオにハーヴィを託し、私はニナと共に、食堂の奥にある居間の扉へと進んだ。

今後の参考になりますので、面白い・続きが気になると思っていただけたら、

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