第28話 手記
「あれは、怪物ではない。リオを喪い、悲しみに堕ちた、ただの一人の母だ」
—— 彼の手記
大きな机と壁の一面を埋める本棚を私たちは手分けして検めはじめた。
ここは襲ってこない。
私はそう自分に言い聞かせ、剣の柄から手を離し、本棚の本に手をかけた。
ニナは机に張りついていた。
引き出しをひとつずつ開け、中の書類を検めてはまた戻す。
セオと私は本棚を下段から順に、ハーヴィは寝台のまわりと机の脇を、それぞれあらためていく。
しばらく、誰も口をきかなかった。
「……マーレ!」
ニナが突然声をあげた。
振り返るとニナは机のいちばん下の引き出しに手を突っ込んで動きを止めていた。
二重底だったのだろう。
浅い引き出しの奥から革の表紙の分厚い一冊を取り出した。
装丁は銘も飾りもない。
ただ、幾度も開かれたのだろう、革の角がやわらかく擦り切れている。
ニナが表紙をめくる。
「……これは」
その手が、途中で止まった。
「……手記だ」
---
私たちは机の上に手記を置き、四人で顔を突き合わせた。
几帳面な文字が並んでいた。
書斎で見たものと同じ手癖の文字。
ニナが掠れた声でそれを読み上げていく。
「――私は、人を信じたことがなかった。五十を過ぎて、彼女に出会うまでは」
そこに記されていたのは男の独白だった。
「――リディア。彼女は私の富にも肩書きにも一度も目を向けなかった。私の下にある孤独だけを見つけてくれた」
リディア。
初めて知る名前……きっとあの婦人の名だ。
「――私はリディアと恋に落ち、そして結婚をした。そして、私ははじめて孤独から解放された」
幸せな時間が書かれていく。
「――リオが生まれた日、この冷えた館に、初めて歌が満ちた。リディアは、よく歌う人だった。私は、その声を、生涯でいちばん美しいものだと思った」
リオ。
それはきっとあの小さな男の子の名。
ニナの声がそこで一度途切れた。
「……続き、読むね」
ニナが自分に言い聞かせるように頁を繰った。
「――リオは五つになった。あの子は……二階へ駆け上がっては、吹き抜けの手すりから下にいる母へ手を振るのが好きだった」
私の背中を冷たいものが落ちていった。
吹き抜けの手すり。
ニナが足をもつれさせ、とっさに掴んだ、あの手すり。
そんなニナを私は咄嗟に掴み、そして引き寄せた。
そして、ニナがつかんだあの手すりは、一階に落ちていった。
落ちた先は――あの塔のような美術品の近く……
「――その日。あの子の体は、手すりの間をすり抜けた。そして、頭から落ちていった」
ニナの声だけが静かに響き渡る。
「――私は、あの子が最後にいた場所に、あの子のための塔を建てた」
ハーヴィが口元を手で覆った。
セオは俯いたまま両手を強く握りしめていた。
私は目を瞑り、上を見上げた。
---
どのくらいのたっただろうか……誰も動けなかった。
しかし、その静寂を破るように、ニナが頁を繰った。
「――リディアは、笑わなくなった」
ニナの声は震えていた。
「――自分を責め続け、やがて、責める相手すらわからなくなっていった。彼女のなかにあった、私を癒してくれた、あの優しいものが、少しずつ別のものに変わっていっていた」
だが、止まることはなかった。
「ある日、館中のものが、独りでに軋み、時には襲いかかってくるようになった」
――襲いかかってくる。
サンルームで、食堂で、応接室で、私たちに襲いかかってきたあの"影"……
「……それじゃあ」
セオが俯いていた顔をそろりと上げた。
「僕たちを、襲ってきたのは……」
ニナは答えなかった。
ただ唇を噛んで続きへと目を落とす。
「――私の知るリディアは、もう、そこにはいなかった」
読み上げる声だけが途切れず部屋に落ちていく。
「――手を尽くした。だが、私の力では、彼女を元に戻すことはできなかった。そして、彼女は――人では、なくなった」
人ではない、あの"影"に。
「――それでも、私は、彼女を殺すことが、どうしてもできなかった。だから、彼女を、館の奥深く、その一室に横たえ、眠ってもらうことにした。永遠に」
"永遠に"
その一言が部屋の空気を冷やしていく。
---
どれだけの沈黙が続いただろうか……その沈黙を破るように、ニナが震える指で頁を繰った。
「――彼女を封じてから、私は、残された時を、ただひとつのことに注いだ」
それは男の贖罪であった。
「――幸せだったころの、あの子の笑顔を。彼女の笑顔を。三人で過ごしたあの日々を。この手で、かたちに残すことだ」
――あの工房。
「――下手でも、かまわなかった。それだけが、私にできる、たったひとつの償いだったから」
未完のまま積み上がっていた無数の像と絵。
憑かれたように何かを造り続けていた、あの跡。
「――この手記を読む、誰かへ」
その声に、私、セオ、ハーヴィの視線が再び手記に集まる。
「――私は、愛した彼女を、リディアを、この手で弔うことが、できなかった。人ではなくなっても、私は、彼女のことを愛していた。弔うことで、彼女が永遠に消えてしまうことを、恐れてしまった」
それは誰かに救いを求めるような言葉だった。
「――だから、どうか私のかわりに、彼女を弔ってやってほしい。あれは、怪物ではない。リオを喪い、悲しみに堕ちた、ただの一人の母だ」
そして、それはそこに書かれていた。
「――彼女を弔う手立ては、別館の居間、三人で写った絵の、その裏に遺した。そして、彼女が眠るのは――本館の地下。あの忌まわしき広間の隣、母子像の真下だ」
母子像。
私の頭の奥で、ばらばらだったものが一斉にひとつの線で繋がっていった。
供養塔の裏の壁。
そこにあった隠された扉。
がらんとした空室の隅の背丈ほどの黒く重い母子像。
――ニナが台座を欠けさせてしまったあの像。
あの瞬間から、この館は私たちを閉じ込めた。
「……あたし、だ」
ニナの声が糸のように細くなった。
「あたしが、あの像を……あたしが、彼女を、起こしちゃったんだ」
「ニナ」
私はその肩に手を置き、ニナの目を見た。
「あの像は風化していた。だから、いつかああなってしまうのも時間の問題だった。それがあの瞬間だっただけ。……お前のせいじゃない」
それが慰めにならないことはわかっていた。
それでも、いまニナを自責の沼に沈めるわけにはいかない。
ニナは深く呼吸をし、袖で目元を拭った。
心を落ち着かせてたニナは、手記を閉じると、そっと裏返した。
そこにはひとつの名前が刻まれていた。
――エドガー。
紳士の名だろう。
私は壁の肖像画を見上げた。
なぜあの目が悔いていたのか、いまわかった。
この人は、最愛の人を救えなかった。
愛しすぎたがゆえに、どうすることもできずにいた。
あの目に残っていた悔いは、その葛藤だったのだ。
そして――逝った。
---
長い沈黙が落ちた。
やがてハーヴィが絞り出すように言った。
「自分は……何も、知らずに。ただ、長く放り出されていただけの、館だと思っておりました……」
声はそこで途切れた。
しかし、"影"がなんであるかはわかった。
――リディア。
エドガーに深く愛された女性。
リオを失い悲しみに堕ちたひとりの母。
彼女の絶望の成れの果て……それが"影"。
エドガーは彼女を"永遠に"封じたと書いた。
しかし、今、その封印は解けている。
その彼女が私たちを閉じ込めている。
ならば、彼女を弔うことができれば、私たちはこの館から出ることができるのではないか。
私たちの手には彼女を弔うための道標もある。
そうであるなら、私たちがしなければいけないことは一つだ。
彼女を弔う。
私は大きく息を吸い、口を開いた。
「行くぞ。……別館の、居間だ」
ニナ、セオ、ハーヴィは顔を上げた。
そこに迷いはない。
三人は大きく頷いた。
私たちは、もう、怯えていなかった。
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