第25話 正体
「この部屋にあの"影"がいないことを、肌で感じていた」
—— 安全な場所
「黒いもやのようなものが建物全体をぬめりと包み込んでいた」
—— 敵の領域
上りの階段も下りと同じだけ長かった。
私は刃こぼれした剣を片手に、先頭で狭い階段を昇っていく。
セオの灯りが私の足元を頼りなく照らしていた。
その段はまっすぐには続かなかった。
幾段か昇るごとに、右へ、また右へと、直角に折れる。
まるで四角い部屋の壁際をぐるりと巡りながら、上へ上へと登っていくかのようだった。
やがて三度目の角を折れた先で行き止まりにぶつかった。
だが、そこにあったのはただの壁だった。
「……行き止まり、なの?」
ニナの声に不安が滲む。
しかし、ここが行き止まりのはずはない。
私は壁に手を置き、力を込めて押した。
みし、と重い音を立て、壁がぐるりと回った。
――壁が開いた。
ふわりと暖かい空気とかすかな光が流れ込んでくる。
闇に慣れた目にその淡い光はひどく眩しかった。
私は剣を構え直し、その先へ、一歩、踏み出した。
---
そこはこれまでのどの部屋とも違っていた。
床には毛足の長い絨毯。
壁は金色の唐草を刻んだあたたかな色の壁紙。
部屋の中央には緑の布を張った大きな台がひとつ。
その上に、色とりどりの玉と細い棒が、薄く埃を被りながらも、きちんと並べられていた。
撞球の台だ、と、私にもわかった。
「……ここは」
声を上げたのはハーヴィだった。
その顔には、ようやく見知った場所に出ることができたという安堵の色が浮かんでいた。
「撞球室で、ございます。離れのように建てられている……自分も、時折、風を通しに入るくらいですが」
そうして、ハーヴィは開いた壁を振り返る。
「……この撞球室にも、隠し扉があったとは。……まさか、工房が、この撞球室の、真下にあったなどとは……」
――そうか。
あの工房はこの撞球室の地下にあったのか。
私たちは館の下を歩き、この離れまでたどり着いていた。
私は剣を提げたまま、ぐるりと部屋を見渡した。
撞球台の脇には使い込まれたひとりがけの椅子がひとつ。
その傍らの小卓には、埃を被ったガラスの杯と古い煙草入れが置き去りにされていた。
椅子の肘掛けは幾度となく肘を置いたのだろう、そこだけ革の色がすり抜けていた。
その椅子は、窓のほうへ少しだけ向けて据えられている。
まるでそこに座って外を眺めるのが、この椅子の主の常だったかのように。
――誰かが、ここでひとり静かな時を過ごしていた。
そんな思いを覚えつつ、この部屋にあの"影"がいないことを、肌で感じていた。
上を見上げると、部屋の高い天井には大きなガラスがはめ込まれ、そこからあの淡い光が差し込んでいる。
あの光のない闇の底を辿ってきた身には、その光がひどく優しく感じられた。
ニナが何かに気がついた。
「灯り……ううん、違う。これ、外の光だよね」
外の光という言葉に、私は、はっとした。
あの天窓はカーテンに隠れていない。
にも関わらずあの"影"が現れていない。
だとすると、ここはあの"影"の領域外なのか?
そんな期待が私の心に湧いてきた。
「もしかしたら……出られるかも、しれない」
私の呟きに、ニナの顔が驚きに変わる。
「マーレ、それって……」
「上を見てみろ。天窓がある。……が、カーテンは掛かっていない。つまり、ここはあいつの領域外かもしれない」
その言葉に、三人は同時に上を見上げた。
そして、天窓の存在に、ニナも、セオも、ハーヴィも、顔を明るくした。
「……久しぶりに、外の光を、見た気がします」
セオが、天窓を見上げたまま、ぽつりと言った。
その声には、微かだが、たしかな希望が滲んでいた。
だが、私は逸る気持ちを抑えた。
これまで外へ通じる扉はひとつも開かなかった。
カーテンを開けばあの"影"が現れた。
この部屋だけが本当に例外だという確証は、どこにもない。
「確かめる」
部屋の隅に外へ通じる扉があった。
ハーヴィから鍵をかり、鍵穴に差し込む。
――かちり――
解錠の音が響き渡る。
私は把手を握り、押した。
――開かない。
押しても、引いても、扉はびくともしなかった。
玄関のときと、別館のときと、まったく同じ。
この扉もまた、扉の向こう側に分厚い岩の壁でもあるかのように動きはしなかった。
「……やっぱり、駄目、か」
私の呟きに、三人の顔から明るさが消えた。
また、開かない扉。
この部屋に懸けた望みが静かにしぼんでいく。
四人のあいだに重い沈黙が落ちた。
――いや。
私は顔を上げた。
まだ試していないものが、ひとつ、残っている。
私は剣を構えたまま、窓へと歩み寄った。
本館と同じ、重いカーテンで閉ざされた窓。
カーテンを開ければ、あの"影"が現れるかもしれない。
だが、天窓から光がさしている。
もしかしたらこの部屋の窓は大丈夫なのかもしれない。
「カーテンを、開く」
私がそう告げると、三人の顔がこわばった。
カーテンを開けばあの"影"が現れる。
これまで幾度もそうだった。
「マーレ……大丈夫、なの?」
ニナの声が震えている。
「わからない。……だが、確かめないわけには、いかない」
私は剣を握り直した。
「もし現れたら、すぐに閉める。そのまま、この部屋を捨てて退く。……三人は、隠し扉のそばまで下がっていてくれ。いつでも逃げられるように」
三人がこくりと頷いた。
そして、そろそろと隠し扉の前まで退いていく。
その姿を横目で確かめた。
私はカーテンの縁に指をかける。
そして――重いカーテンを、一息に引いた。
身構えた。
だが……何も起きなかった。
窓ガラスがただ静かにそこにあるだけだった。
物ひとつ、飛んでこない。
あの"影"も現れなかった。
「……なぜ、だ」
サンルームでも、食堂でも、応接室でも、ガラスがむき出しになった瞬間、あの"影"は現れた。
物が飛び、私たちを襲ってきた。
その時はいつもガラスの向こうはあの濃淡のない黒に塗り潰されていた。
だが、この窓は違った。
これほどガラスを露わにしても、あの"影"は現れない。
そして――ガラスの向こうに、あの黒がない。
わずかだが、たしかに光がある。
私は窓ガラスの奥を覗き込み、息を呑んだ。
空が、おかしい。
うっすらと光は差している。
なのにその光の出どころがなかった。
月も、星も、ないのだ。
「……今夜は、満月の、はず……」
私は確かめるように呟いた。
雲はひとつもない。
なのに空のどこを探しても月がなかった。
星のひとつも。
あるのは、ただ夜とも夕暮れともつかない、のっぺりと平らな薄明かり。
どこから差しているのかもわからない光だけだった。
その光は、あたたかくも、冷たくもない。
ただ、その光を浴びていると、理由もなく肌の下がざわりと粟立った。
生き物としての本能が、この光を厭がっていた。
その薄ら明るい空の下に――本館があった。
だが、その姿は私たちの知るものでは、なかった。
建物の輪郭が滲んでいる。
黒いもやのようなものが建物全体をぬめりと包み込んでいた。
それはゆっくりと脈打つように蠢いている。
まるで建物が丸ごと巨大な何かに呑み込まれているかのようだった。
――あれが。
私たちを襲ってきていた"影"の正体。
あれに呑まれた本館にいたから、私たちは襲われていたのか。
背後でニナが力なく座り込む音がした。
「……ただ、外に、出たい。それだけ、なのに」
ニナの消え入りそうな声が絨毯に落ちる。
セオが、その肩をそっと支えた。
だが、支えるその手も、細かく震えている。
その目は、あれに包まれた館から、離せずにいた。
「……あんなものが、ずっと、僕たちを……」
セオの声は、最後まで、続かなかった。
ハーヴィは、言葉もなく、あれに呑まれた館を見つめていた。
毎朝、自らの手で鍵を開け、守り続けてきた館。
それが、いま、得体の知れない何かに、すっぽりと包まれている。
その横顔に浮かんだものを、私は、うまく言葉にできなかった。
私は剣を静かに鞘へ納め、あれが蠢く本館をまっすぐに見据えた。
敵は見えた。
だから……
――まだ終わってなどいない。
私はそう自分に言い聞かせ、拳を強く握りしめた。
これにて第二部が終了となります。
お付き合いいただき、ありがとうございます。
この館で何が起きているか、やっと外から見ることができました。
四人はこの状況にどう立ち向かっていくのか……
明日からの第三部で、確かめてみてください。
今後の参考になりますので、面白い・続きが気になると思っていただけたら、
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