第20話 ガラス
「あの"影"は――窓のガラスから、現れる」
—— 反射面のルール
私たちは応接室へと向かった。
再び私たちは薄暗い廊下を歩いていく。
この廊下の先にはあのサンルームがある。
その現実に、応接室でもまたあの"影"が襲ってくるのでは……そう浮かんできたが、頭を振り、その考えを追い出した。
そして、私たちは応接室の扉の前で立ち止まった。
この扉には鍵がかかっている。
私はハーヴィの方を振り向き、ひとつ頷いた。
私の頷きに応え、ハーヴィが鍵束から一本を選び、震える手で鍵穴に差し込む。
かちり、と乾いた音がして、鍵が開いた。
「……今回も私から入る」
私はそう言ってハーヴィと入れ替わり、扉の前に立った。
「三人は、下がっていろ。何かあれば、すぐに逃げられるように、心がけてくれ」
私は扉の把手に手をかけ、ゆっくりと押し開けた。
応接室のなかもやはり薄暗いままだった。
部屋のいちばん奥の隅、木の台座の上にあの女神の像がひっそりと据えられている。
薄暗がりのなかでも、その像だけがほのかに浮かび上がって見えた。
だが、いまは像に見入っている場合ではない。
私が探しているのは別のものだった。
――窓だ。
女神像から視線を横にずらすと、窓はあった。
例によって重たいカーテンでぴたりと塞がれている。
窓があることを確認し、私は部屋の中へと入っていった。
一歩、一歩と慎重に奥へと進む。
左右にも視線を送る。
……ここまでは何も起こらない。
サンルームや食堂で感じた肌が粟立つような感覚は、襲ってこなかった。
「ニナ、セオ、ハーヴィさん、この部屋は大丈夫そうだ」
私は三人を応接室の中へと呼び込んだ。
三人も恐る恐る中に入ってくる。
セオ、次にハーヴィ、最後にニナ。
全員が応接室の中へと入ったが、特に変化はなかった。
張りつめていた肩から、ふっと力が抜けていく。
私も、そして三人も、知らず詰めていた息をようやく吐き出していた。
「……よかったぁ。ここは、なんともないみたい」
ニナが胸に手を当てて息をつく。
そして部屋を見回すうち、その視線が壁のカーテンで止まった。
「……ねえ、マーレ。あの窓の向こうが、外、なんだよね」
「……ああ」
私の答えに、ハーヴィも大きく頷いている。
カーテンの向こうにある窓。
扉ではないが、人ひとりが抜けるには十分な大きさがあったと思う。
ハーヴィもそのことを覚えていたから、この応接室のことを思い出したのだろう。
扉ではない外へ通じる道。
「でも……」
セオが不安げに言いよどんだ。
その視線は、カーテンの向こうの見えない窓へと注がれている。
この子はわかっているのだろう。
カーテンを開けるということが、何を意味するのかを。
私は三人を振り返った。
「いいか。三人とも、扉の近くにいろ。何かあれば、すぐに廊下に逃げられるように」
三人が頷くのを確かめる。
セオが画板を構え、ニナとハーヴィを、その背へと庇うように前に立った。
そして窓へと向き直り、カーテンの端を掴んだ。
息を、ひとつ吸う。
――そして、一気に引き開けた。
むき出しになった窓ガラス。
その向こうには――外の景色など、なかった。
あるのは、あの、濃淡のひとつもない黒。
昼でも夜でもない、ただ塗り潰されたような闇だけが、窓の向こうに広がっていた。
そして、その闇を映すガラスの面に。
――いた。
私たちではない、もう一つの"影"が。
私は反射的にカーテンから手を離し、三人の方へと動いた。
窓と三人の間へ回り込み、剣を構えた。
「――くそっ!」
叫ぶのと同時に部屋中の小物が一斉に浮き上がった。
燭台が。
花瓶が。
飾りの小箱までが、こちらへと切っ先を向けた。
――来る。
「セオ! 板を!」
私の声より先に、セオはもう画板を掲げていた。
ニナとハーヴィを背へ庇い、飛んでくるいくつもの小物をその画板で受け止めている。
私も襲いかかってくる小物を剣で薙ぎ払っていく。
――このカーテンを、もう一度引き戻せば、収まるかもしれない。
だが、その考えはすぐに捨てた。
この襲撃の中、またあそこまで戻るのは至難の業だ。
それに守るべき三人から目を離すことになる。
賭けとしてはあまりに分が悪い。
「退くぞ! 全員、扉の外へ!」
私の声に、三人が弾かれたように廊下へと駆け出す。
私は殿に立ち、飛来するものを剣で弾きながら、一歩ずつ後退した。
ニナ、ハーヴィ、そしてセオの三人が廊下へ出ていった。
私も部屋を飛び出すと、ニナが応接室の扉を閉めてくれた。
――ばたん――
扉が閉じたその瞬間。
今度もあの狂騒がふいに凪いだ。
扉一枚を隔てただけで。
――やはりそうだ。
頭の中でばらばらだったものがひとつに繋がった。
「……この部屋も、もう駄目だ」
私は悔しさを滲ませた声でそう告げ、三人を促してその場をあとにした。
---
また広間へと戻り、私たちはようやく足を止めた。
三人が不安げな顔で私を見つめている。
私はひとつ深呼吸してから口を開いた。
「……気づいたことがある」
私は努めてゆっくりと言葉を継いだ。
「あの"影"は――窓のガラスから、現れる」
そして、いままでに起きたことを、ひとつ、ひとつ、提示していった。
「サンルームも、そうだった。食堂も、そうだ。そしてさっきの応接室も。……あいつが現れるのは、そして襲いかかってくるのは、いつも、ガラスがむき出しになっている時だった」
「ガラス……?」
ニナが分からないといった声で繰り返す。
「ああ。さっき見ただろう。カーテンを開けて、窓ガラスがあらわになった途端、あいつは現れ、そして襲ってきた。……だが、扉を閉めて、あの部屋ごと窓ガラスと私たちを隔ててしまったら、どうだ」
「……止まりました」
ぽつりとセオが呟いた。
「そうだ。ぴたりと止まった。サンルームのときも、食堂のときも、同じだった。ガラスと同じ部屋にいなければ、あいつは追ってはこられない」
私は自分の言葉を確かめるように、ひとつ頷いた。
「あいつは、ガラスを通して私たちを襲ってきている。あいつはガラスから私たちを見ている。そして、襲ってくる。だが、カーテンで塞いでしまえば――手を出せない」
言葉にしてみると、これまでの出来事がすべて腑に落ちていった。
思えば最初から奇妙だったのだ。
この館には鏡が一枚もない。
これほど立派な調度品が揃っているというのに、姿を映すものだけがまるで拒むようにどこにも見当たらなかった。
ただ奇妙に思うだけで、その理由までは深く考えなかった。
だが――理由があった。
この館の主は鏡を置かなかったのではない。
置くことができなかったのかもしれない。
姿を映すものがあの"影"の通り道になると知っていたから。
そして、窓ガラスは重いカーテンで覆い隠しつづけていた。
――そういう、ことだったのだ。
「じゃ、じゃあ……」
ニナがすがるように身を乗り出した。
「カーテンさえ閉めておけば、あたしたち、襲われないってこと?」
「……おそらくは、な」
私は頷いた。
その一言に、三人の顔に血の気が戻っていくのがわかった。
これまでは得体の知れない何かにただ追い立てられるだけだった。
だが、相手の手の内を、ひとつ、見つけることができた。
どこから来るのか。
どうすれば防げるのか。
――だが。
すぐに私はその先の問題に思い至り、奥歯を噛んだ。
――そうだ。
カーテンを閉じていれば安全ではある。
だが外へ出るには、どこかで窓を、扉を、開けねばならない。
「……窓からは、出られない。カーテンを開けた瞬間に、あいつが来る」
私はそばで肩を落としているハーヴィへと向き直った。
「ハーヴィさん。……どこか、窓のない、ガラスのない場所を通って、外へ出られる道は、ありませんか」
ハーヴィはしばらくの間、顎に手を当て床を見つめた。
が、やがて、はっと顔を上げた。
「……別館に、ございます」
その言葉に、かすかな光が差した。
「別館の、いちばん奥……使用人の使う一角に、外へ通じる扉が、ございます。あのあたりは、窓も、ありません……。あそこなら、あるいは」
「窓も、ガラスもない道を通って、その扉まで行ける、と」
「は、はい……。渡り廊下を抜けて、別館へ入り、奥へ進めば……」
ようやく光が見えた気がした。
私も、そして三人も、その一筋の光に希望を託していた。
「行きましょう。……別館へ」
私がそう言うと、ハーヴィも、ニナとセオも、しっかりと頷いた。
――次こそ、外へ。
その思いを胸に、私たちは別館へと続く渡り廊下を目指し、また歩き出した。
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