第16話 はじまり
「出ることのできないこの広間に、四人の押し殺した息だけがやけに大きく響いていた」
—— 静かな閉じ込め
「ニナ、聞いているのか。触るな、と言っている」
私の声はもうニナには届いていないようだった。
ニナは、母子像のすぐ前まで進み出て、母親の顔を食い入るように覗き込んでいる。
「ねえ、マーレ。なんでこの人は、こんな顔をしているの? 子供を抱きしめているのに、なんでこんな辛そうな顔をしているの?」
その声には、何か鬼気迫るものがあった。
いままで美術品の母と子は幸せに満ち溢れていた。
なのに、この母子像だけが、唯一、母と子の幸せを描いていない。
それが、ニナの心の奥の何かを強く刺激しているようだった。
だが、私の胸には、それとは裏腹に黒い雲のようなものが広がっていた。
ニナは興味を惹かれたものがあると周りが見えなくなる。
手すりのときも、そうだった。
そして、いまニナが近づいていっているのは、この館中でいちばん触れてはいけない空気を漂わせている、あの像だ。
「よせ。ニナ、それ以上近づくな!」
私は足を速めた。
だが――
「大丈夫だってば。もう少し、近くで見てみるだけだから」
そう言いながら、ニナが母親の顔に手を伸ばした……そのときだった。
薄暗い石の床に、ニナの足がつるりと滑った。
「――っ」
足元を見ていなかったニナの体が大きく前へと泳ぐ。
とっさに伸ばしたその手が支えを求めて母子像の台座を掴んだ。
みし、と鈍い音がした。
私の背筋がぞくりと粟立つ。
そして、母子像の台座は、ニナの体重を受けて――ほんの少しだけ、ずれた。
ずず、と石が石をこする重く低い音。
そして衝撃で、母子像の裾のあたり――長い年月で風化していたその一部が、ぱきり、と乾いた音を立てて欠け落ちた。
小さな石の欠片。
それが床に、からん、と乾いた音を残して転がった。
音が収まると、部屋には再び静寂が訪れた。
誰も動かなかった。
私も。
セオも。
ハーヴィも。
そして……床に膝をついたままのニナが、その欠片を呆然と見下ろしていた。
――なぜだろう。
風化した像の一部が欠けただけ、それだけのことのはずだ。
だが、それだけのことで、この部屋の空気が取り返しのつかない何かを越えてしまったように変質していた。
そんな、ありもしない感覚が私の全身を静かに締めつけていた。
「……あ」
ニナの口から間の抜けた声がこぼれる。
その顔からみるみる血の気が引いていった。
「あ、あたし……こ、壊し、ちゃった……」
「ニナ」
私は駆け寄ってその肩を掴んだ。
まずは怪我の有無を確かめる。
幸い体のほうはなんともないようだった。
「怪我は、ないな。……立てるか」
「マーレ、ど、どうしよう。あたし……あたし、こんな……こんな、大事なもの……」
震える手でニナが床の欠片を拾い上げる。
罪悪感からだろう。
その小さな石を両手できゅっと握りしめた。
「お前のせいじゃない。……これだけ古い像だ。誰かが少しでも触れれば、いずれ、こうなっていた」
私はそう言ってやった。
半分は本心だった。
だがもう半分は――あのありもしない感覚を抑えるための言葉だった。
「申し訳、ございません……自分が、もっと早くお止めしていれば、こんなことには」
ハーヴィまでもが青い顔で深く頭を下げる。
セオは少し離れたところで凍りついたようにその欠けた像を見つめていた。
「あんたのせいでもない。誰の、せいでもない。日も暮れる。……とにかく、今日のところは引き上げよう」
私はそう言って皆を促した。
この部屋にこれ以上、そう一秒たりともいたくはなかった。
ニナもこくりと頷き、握りしめていた欠片を上着のポケットへと滑り込ませたあと、のろのろと立ち上がった。
---
私たちはあの隠し部屋を出て広間へと戻った。
誰も口をきかなかった。
ニナは青い顔で俯いたまま。
セオもその隣で身を縮めている。
あの部屋を出てからも重い気配が晴れることはなかった。
私たちは一日をかけてこの館を巡ってきた。
外の光の届かぬ、ただ魔道具の弱い灯りに薄暗く沈んだ、この館の中を。
その変わらない薄暗さが、いまはやけに重く肌にまとわりついてくる。
昼のあいだ見て回ったはずの館が、まるで別の顔で私たちを見下ろしているようだった。
そんな空気を変えるようにハーヴィが管理人として、私たちに声をかけてきた。
「それでは、本日はここまでということで。お忘れ物などはありませんか?」
その言葉に、私たちは自分の荷物を一度確認する。
そうすることで、すこし肩の力を抜くことができた。
「結構。それでは館を閉めたいと思いますので、まずは皆さま、玄関から外へとお願いいたします」
ハーヴィのその言葉に促され、ニナが玄関の扉の把手に手をかけ――押した。
……だが扉は開かなかった。
「……あれ」
ニナがもう一度押す。
今度は肩を当て体重をかけて。
それでも扉はびくともしない。
「……え、なんで? こんなに押してるのに、全然、開かない。……ハーヴィさん、これ、鍵がかかってるんじゃないですか?」
ニナはそういってハーヴィの方を振り向く。
「いえ……鍵は、朝、開けたきりでございます。そのあと、かけては、おりません。それに……」
ハーヴィが確かめるように、鍵束から一本を選び、鍵穴へ挿して回そうとする。
だが、鍵は、それ以上、回らなかった。
とうに、解錠されている証だ。
それなのに、扉は開かない。
「……鍵は開いているのに、扉が開かないなんて。……こんなこと、なかったのに……」
ハーヴィは、それでも諦めきれず、扉の把手をなんども押していた。
「私がやる」
そういって、青ざめた顔のハーヴィから場所を譲ってもらい、私は両手で把手を掴んだ。
渾身の力で引く。
押す。
全身の重みを扉へと叩きつける。
それなのに扉はいっこうに開く気配がなかった。
鍵は開いている。
それなのに開かない。
こんな扉は私の知るどんな扉とも違っていた。
落ち着け。
私は逸る鼓動をなだめた。
私は扉から離れると、助走をつけて体当たりした。
だが――まるで向こう側に分厚い岩の壁でもあるかのように動きはしなかった。
これだけ傷みのある建物の扉が、体当たりをしても微動だに動かない。
もう一度、体当たりをしてみる。
しかし、扉は動かず、肩に走る鈍い痛みだけが増しただけだった。
「……なに、これ。……なんで……」
ニナの声が震えている。
その目がすがるように私を見た。
――まさか、あたしが、あの像を壊したから。
そんな怯えがニナの顔にありありと浮かんでいる。
だが、私はそれを「気のせいだ」と笑い飛ばしてやることができなかった。
「そんな、馬鹿な……一度たりとも、閉じ込められたことはなかったのに……こんなことは……」
ハーヴィの顔もさらに深く青ざめていた。
管理人として、何度もこの扉を開け閉めしてきた男でも、はじめて訪れた状況に、ただただ困惑しているばかりだった。
「……マーレさん。僕たち……ここから、出られないん、ですか」
セオのかすれた声が、静まりかえった広間に広がった。
セオの手は震えていた。
ありえない現状に、これが夢であってほしいと願っているかのようだった。
だが、私は現実しか答えられない。
「……わからない。だが、必ずここから出る方法を見つける。……大丈夫だ」
自分でも気休めだとわかっていた。
だが、いまはこの三人をこれ以上怖がらせないことがなにより先だった。
悲鳴も、物音も、何ひとつ起きてはいない。
自分たち以外の人影ひとつ、見てはいない。
ただ出られない。
ほんとうにそれだけのことだった。
――だが。
その事実こそが、どうしようもなく、私を怖がらせた。
何かが起きるより先に、こうして訳もわからず閉じ込められている。
その訳のわからなさが、たまらなく嫌だった。
出ることのできないこの広間に、四人の押し殺した息だけがやけに大きく響いていた。
ここまでが第一部になります。
お付き合いいただき、ありがとうございます。
ずっと怪しかったこの館ですが、とうとう四人が閉じ込められてしまいました。
明日からは第二部です。
これから、この四人がどうなっていくのか……楽しみにしていてください。
今後の参考になりますので、面白い・続きが気になると思っていただけたら、
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