第15話 違和感
「わざわざ壁紙で塗り込めてまで隠された扉だ」
—— 隠された部屋
渡り廊下を抜けて、私たちは本館の広間へと戻ってきた。
ハーヴィが、腰の鍵束を確かめながら、私たちを振り返った。
「これで、この館の美術品は、すべてご覧いただけたかと存じます。……日も、すっかり傾いてまいりました。本日は、そろそろお引き上げになられては、いかがでしょう」
ニナが両手を上げて大きく伸びをした。
「そうだね。いやー、すごい一日だった。今日見ることができた美術品、いくつあったんだろ? もう数えきれないよ。……セオ、ほんとにお疲れさま。あんたのおかげで、すっごい記事が書けそう」
「いえ。……僕は、ニナさんについてきただけですから。でも、そう言ってもらえると、すごく嬉しいです」
セオが顔をくしゃりとほころばせて頷く。
その横顔には、一日中の疲れとやり遂げたような満足とが半分ずつ滲んでいた。
だが……私はその輪にうまく入れずにいた。
胸の奥の、あの引っかかりが、まだ消えていない。
渡り廊下で覚えた理由のないあの引っかかりが。
私はそれを持て余しながら、ぼんやりと広間を見回していた。
カーテンで閉ざされた大窓。
二階の廊下に残るニナが壊した手すりの跡。
その下には壊した手すりの残骸。
そして、その残骸の近くには、今日はじめて記録した塔のような美術品。
その美術品の、すぐ後ろの壁に、ふと目が留まった。
――なんだ、あれは。
壁のように見える。
だが、そこだけが、どこか周りとそぐわない。
私はその壁に近づき、そっと手を触れてみた。
――違う。
そこだけ別の壁紙が貼られていた。
手触りも、色合いも、周りとはあきらかに違う。
しかも、その壁紙は端のほうが剥がれかけていて――その下から、何か扉のようなものが覗いていた。
「ハーヴィさん」
私はその剥がれかけた壁紙を指さした。
「ここだ。壁の下に、扉のようなものが隠されている。……あんた、知っていたか?」
「え……? 扉、でございますか……」
ハーヴィが私の指の先を追い、わずかに眉を寄せた。
そして、剥がれかけた隙間を覗き込むと、その目がはっきりと見開かれた。
「……たしかに、扉のようですね。……しかし、こんなところに部屋があったなど、自分は、一度も……」
その口ぶりに嘘の気配はなかった。
この善良な管理人は、本当にこの扉のことを知らなかったのだ。
「え……? まだ、部屋があったの?」
ニナがきょとんとした顔で駆け寄ってくる。
「あ、ほんとだ。扉が隠れてる」
案の定、ニナの目はもうその壁に釘付けだった。
こうなったニナが次に何を言い出すかは決まっている。
「ねえハーヴィさん、この壁紙、剥がしちゃダメ? どうしても、この先が見たいの」
やはり、だ。
私は額を押さえた。
「ニナ、いきなり無理を言うな。ハーヴィさんが困っているだろう」
「だって、気になるじゃない。わざわざ隠された扉だよ? きっとこの先に、とんでもないものが眠ってるんだって」
ニナは、口を尖らせて、そう言い返してくる。
「……はぁ。おまえなぁ」
私はため息を吐くしかなかった。
こういう女だとわかってはいるが、それでも時と場所は選んでほしい。
「あの……隠されてるってことは……開けちゃ、いけないもの、なんじゃ……」
セオもおずおずと口を挟んできた。
正直、私も同じことを思っていた。
わざわざ壁紙で塗り込めてまで隠された扉だ。
隠したからには、隠すだけの理由があったのだろう。
だが、こうなったニナはもう止まらない。
そしてハーヴィのほうもしばらく考え込んだのち、静かに顔を上げた。
「……わかりました。いずれ自分が、確かめておかねばならないものです。皆さんのいる、今のほうが……かえって、心強うございます」
「じゃあ!」
「はい。壁紙は、お剥がしになって、構いません」
「やった!」
無邪気に喜ぶニナとは裏腹に、セオは強張っていた。
ハーヴィも許しはしたものの、その面もちにはどこか腹をくくったような硬さがある。
……正直、私も気は進まなかった。
だがこうと決まったなら、ニナ一人を突っ走らせてはおけない。
「……剥がすのは、私がやる。ニナ、お前は少し下がっていろ」
私は剥がれかけた壁紙の端に指をかけた。
貼りつけていた糊は、とうにその力を失っていた。
ひと引きすると、壁紙は、ぱりぱり、と乾いた音を立てて剥がれ落ちていく。
その下から一枚の扉が姿を現した。
造りはほかの部屋の扉と何も変わらない。
現れた扉をハーヴィに確認してもらう。
ハーヴィがそっと把手に手をかけると、次の瞬間、扉は何の抵抗もなくすんなりと開いた。
鍵はかかっていなかった。
これほど念入りに壁紙で隠しておきながら、鍵はかけていない。
そのちぐはぐさが、なぜだか私の胸をざわりと撫でていった。
---
開いた扉の先へ私たちは足を踏み入れた。
その部屋はこれまでのどの部屋とも違っていた。
美術品を飾るための部屋ではなかった。
壁には一枚の絵もない。
窓もない。
絨毯も、家具も、燭台のひとつもない。
ただ、がらんとした石の床が広がっているだけ。
魔道具の弱い光が、その何もなさをかえって際立たせていた。
空気がほかの部屋よりひやりと沈んでいる。
物音ひとつしない。
まるでこの部屋だけが館の時間から切り離されているようだった。
「……なんだか、この部屋、変な感じ」
ニナが珍しく声をひそめて言った。
その視線は、がらんとしたこの部屋そのものを落ち着かなげに彷徨っている。
いつのまにか両腕で自分の体をそっと抱くようにしていた。
寒いわけではないだろう。
この館に入ってから初めて見る仕草だった。
私も同じだった。
いや、私のほうがもっとうまく言葉にできない何かを感じていた。
そんな部屋の隅にひとつの像が据えられていた。
それは母子像だった。
母が幼い子を抱きしめているその像は、応接室で見たあの小さな母子像とはまるで違う。
私の背丈ほどもある大きな石の像。
黒みを帯びた重たい石。
長い年月を経たせいか、その表面はところどころ風化しているようだった。
もう少し近づいてみる。
母の顔が見えた。
だが――その母の顔は笑ってはいなかった。
子を抱くその腕にはしがみつくような力がこもっていた。
まるで、何かからその子を守ろうとするかのように。
――据わりが、悪い。
その像は部屋の隅に、ひっそりと据えられていた。
まるでそこから一寸たりとも動かしてはならないとでもいうように。
ほかの美術品はどれも人に見せるために飾られていた。
だがこの像だけは違う。
美しいとは思えなかった。
ただこの像の前に立っていると、胸の奥がじくじくと重くなる。
応接室であの小さな母子像の前に立ったときと同じ感覚だ。
だが……あのときのような泣きたくなる温もりはこの像にはない。
ここにあるのは、もっと暗くて、冷たい、何かだった。
「ハーヴィさん。この像は……いったい、なんだ?」
「さあ……自分にもわかりかねます。恥ずかしながら、この部屋があることすらたった今、知ったばかりで」
ハーヴィの言葉に、私の背を、つう、と冷たいものが伝った。
管理人も知らない隠された美術品。
その現実が何かを伝えてくるように感じた。
セオがためらいがちにその像の転写をはじめた。
手のひらにはいつもの光。
だが、転写をおこなうセオの横顔は、ひどく強張って見えた。
「……写し、終えました」
セオが絞り出すようにそう言った。
いつものようなやり遂げたという響きは、欠片もなかった。
――もう、出よう。
なぜか、私はそう思った。
この部屋にこれ以上、留まってはいけない。
護衛としての勘が、冒険者としての本能が、そう告げていた。
「……長居は無用だ。ニナ、セオ、引き上げるぞ」
セオは待っていたとばかりにこくりと頷いた。
だが――ニナだけが動かなかった。
振り返って私は言葉を失った。
さっきまでこの部屋の空気に怯え身を縮めていたはずのニナ。
そのニナがいつのまにかあの母子像のすぐ前まで進み出ていた。
両腕で自分を抱く仕草は、もうどこにもない。
かわりに、その目が食い入るように像を見上げている。
「ニナ」
私が呼んでも返事はなかった。
聞こえていないのだ。
「……ねえ、マーレ。この像、変だと思わない?」
ニナの手がなにかを確かめるように像の台座のほうへと伸びていく。
「おい、ニナ。触るな」
「大丈夫だってば。近づいて、もう少しだけ、よく見たいの」
そう言いながらもニナの目は像から片時も離れない。
――嫌な予感がした。
私はその背中を追って足を速めた。
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