第11話 本館二階
「これだけ立派な調度品をそろえた本館の中に、鏡がただの一枚もなかった」
—— 鏡のない館
応接室のある廊下を抜けて、私たちはまた広間へと戻ってきた。
目の前には二階へと続くあの大きな階段がある。
ハーヴィはその階段の前で立ち止まると私たちへと振り返った。
「二階へはこの階段から上がっていきます。……ただ、ご覧のとおりずいぶんと建物自体が傷んでおります。足元と、それに手すりには、くれぐれもお気をつけを。特に手すりですが、ところどころぐらついておりますので」
「はーい」
ニナのいつもの気の抜けた返事が響く。
セオも何度も首を縦に振っている。
二人のその様子を横目に、私は階段の手すりを軽く手のひらで押してみた。
なるほど、確かにぐらついていて頼りない。
これに体重を預けたら危ないだろう。
私たちの反応を確認したハーヴィは階段を上りはじめた。
それに続くように、私たちも階段を上っていく。
一段ごとに古い踏板が、ぎぃぎぃ、と軋む。
私はニナとセオを先に行かせてそのすぐ後ろについた。
もし誰かが足を滑らせてもすぐに手が届くようにという配慮だ。
これも護衛としての役目だと思っている。
階段は踊り場で一度折れてさらに上へと続く。
登りきると、そこは吹き抜けを囲む二階の廊下だった。
廊下は四角い広間の吹き抜けをぐるりとコの字に取り巻いている。
手すり上からそっと下を覗いてみた。
さっきまでいた広間がずいぶん低いところに見えた。
階段の下のあの塔のような美術品が丁度眼下に佇んでいた。
――意図せずにここから落ちれば、ただではすまないな。
そんなことをぼんやりと考えていた。
---
「こちらから順にご案内いたします」
ハーヴィが案内をしたのは廊下のいちばん手前の部屋だった。
鍵束から一本を選び、扉を解錠してなかへと入っていく。
私たちもそれに続いていった。
そこは広々とした遊戯室のような部屋だった。
いくつかの卓が置かれ、その上には埃を被った盤上遊戯の駒や色の褪せた札がそのままになっている。
壁ぎわにはゆったりとした長椅子。
棚には酒器やいろいろな遊びのための道具が並んでいた。
客を招いて皆で賑やかに夜を過ごす――そのための部屋だったのだろう。
「へえ、遊戯室かな。お客さんとここで遊んだりしていたのね」
ニナが卓の上の駒をひとつ、指先で転がした。
だが、ふと部屋の隅にひとつだけ場違いなものが目についた。
小さな木馬だった。
大人たちの遊び場にはおよそ似合わない玩具だ。
塗りは褪せているが壊れてはいない。
まるで……誰かに、大事に、大事に、扱われてきたように。
――子供もこの部屋で遊んでいたのだろうか。
そして、その部屋の壁にそれは掛かっていた。
一枚の絵だった。
明るい陽射しの下、青々とした野原に三人の家族が描かれている。
父と、母と、その間に小さな男の子。
三人は手をつないで笑っていた。
これからどこか楽しい場所へ出かけるところなのだろうか。
子供の足元には小さな花が咲いていて、その一輪一輪までが幸せそうに揺れて見える。
見ているだけでこちらまであたたかい気持ちになる絵だった。
「……いい絵ですね」
セオが感嘆の声を漏らした。
「そうだね、幸せそう」
そうニナが答えた。
「……ねえ、これって、この館に住んでいた家族なのかな」
ニナのその言葉にハーヴィは小さく首をかしげた。
「さて。それも、自分にはなんとも。……ただ、この館には、こういう家族が描かれている絵が、いくつもあるのです」
「いくつも?」
「はい。母と子を描いたものが、とりわけ多くございます」
「へえ……よっぽど、家族を大事にする人が住んでたのね」
ニナが感心したように呟いた。
私はなぜかその言葉にうまく相槌が打てなかった。
窓のあるこの部屋はカーテンを開ければ十分に明るい。
手慣れた手つきでハーヴィがカーテンを開け、セオがその絵を転写していく。
紙の上に三人の家族の笑顔が移し取られていった。
「これは……会心の出来です」
セオがいつになく真剣な顔で言うので、ニナが小さく笑った。
「では、次に参りますか」
カーテンを閉めながらハーヴィが告げると、私たちは遊戯室を出て次の部屋へと向かった。
「二階には、あとは客間が四部屋ほどございます。奥の部屋から順番にご案内いたします」
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ハーヴィに案内されたひとつ目の客間。
そこには母親が子の手を引いてどこかへ歩いていく絵が飾られていた。
子供は母を見上げ何かをねだるようだった。
「あ、これも母子だ」
セオが呟いて転写の準備をする。
ハーヴィも何も言われていないのにカーテンを開けている。
セオは外からの光が入ってきたことを確認し、転写を行う。
セオの転写が終わると、ハーヴィもまたカーテンを閉める。
そして部屋をあとにする。
解錠して、カーテンを開いて、写して、カーテンを閉じて、施錠する。
その手順はすっかり流れるようになっていた。
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ふたつ目の客間の絵は、母が子を膝にのせて本を読み聞かせているところだった。
子供の顔はまだ字も読めないだろうに真剣そのものだった。
「あはは、この子、ぜったいわかってないよ。でも、それでも楽しいんだよね」
ニナが絵を指さして笑う。
その笑い声が、静かなこの建物の中にふわりと広がっていった。
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みっつ目の客間には、眠る子供とその寝顔を見守る母の絵が掛かっていた。
母の手が子の髪にそっと添えられている。
母親の慈愛に満ちた、ただただ静かな絵だった。
なぜだか……私はその絵の前で少しだけ立ち尽くしてしまった。
「どの客間にも母と子ばっかり。……よっぽど、家族が好きで、自慢したかったのかもね、この家の人」
ニナはすっかり面白がっている。
だが私はうまく笑えなかった。
応接室で見たあの小さな母子の像のことを、私は思い出していた。
女神像でも、風景でもなく……この館はどこもかしこも母と子で満ちているようだった。
その満たし方が、逆にどこか満たされていないものの――裏返しのように思えてしまっていた。
「……マーレ、置いてくよー?」
ニナの声で現実に引き戻された私は、小さく頭を振って、その考えを追い払った。
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私たちはよっつ目の客間へと足を踏み入れた。
この部屋にもやはり母と子の絵が掛かっていた。
母が幼い子の頬にそっと口づけをしている絵。
子供はくすぐったそうに目を細めて笑っている。
セオがいつものように転写の準備をしていた。
ふと、私は部屋のなかをなんとなく見回してみた。
すると、窓ぎわにある化粧台が目に入った。
引き出しがいくつもあり天板もある。
女性が身支度をするための台だろう。
だが、おかしい……何かが足りない。
しばらく考え、私はそれに気づいた。
鏡が、ない。
化粧台には鏡がついているものだ。
なのにこの化粧台には、鏡があるべき場所に、四角い跡だけが残っていた。
背筋を、冷たい指でなぞられたような心地がした。
そういえば……と思う。
この館に足を踏み入れてから私は一度も鏡というものを見ていない。
広間にも、食堂にも、二つの応接室にも、遊戯室にも、いままでの客間にも。
これだけ立派な調度品をそろえた本館の中に、鏡がただの一枚もなかった。
なぜだろう。
美術品はあれほどの数を遺しておいて、鏡だけをわざわざすべて外す。
そんなことをする理由はなにかあるのか?
私にはその理由をひとつも思いつくことができなかった。
「マーレ? どうかしたの、また、ぼうっとして」
ニナに呼ばれ、私は我に返った。
「……なあ。この建物に入ってから、鏡を見たか?」
「鏡?」
ニナはきょとんとした顔で少し考えた。
「……あれ、そういえば。見てない、かも。化粧台にもないし。……変なの。ふつう、こういうお屋敷の客間なら、大きな姿見のひとつくらい、ありそうなのに」
「だろう」
「なんでだろうね。……でもまあ、古い館だし。売れるものは、先に持っていかれたのかもよ?」
売られた、か。
なるほど、そういうこともあるだろう。
あれだけの女神像やこれだけの絵画を残して、鏡だけを……とは思うが。
うまく言葉にはできなかった。
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