第10話 応接室
食堂から広間に戻った私たちを、ハーヴィは先ほど左奥に見えていた廊下へと導いた。
その廊下もやはり薄暗い。
窓のない通路には壁際の魔道具の灯りが等間隔に灯っているだけだからだ。
魔道具の灯りはやはり弱く、私たちの影を床に薄く引きずらせている。
――日が暮れますと……
ハーヴィの言葉が頭の隅で小さく繰り返された。
廊下の両側に一つずつ扉が現れた。
「こちらが、応接室でございます。まずはこちら側から」
ハーヴィが鍵束を鳴らした。
選び出した一本で扉を解錠し、開ける。
応接室のなかも薄暗かった。
布のかかったソファや小卓。
壁には色の褪せた織物。
どれも上等なものだったのだろうが、いまはただ時間に置き去りにされているようだった。
そんな応接室の中で、ニナが部屋の奥を指さした。
「あれ! あれよ、マーレ」
部屋のいちばん奥の隅、木の台座の上にひとつの彫像が据えられていた。
女神の像だった。
高さは、私の膝から腰のあたりまで。
四十センチほどだろうか。
白い石を削り出して造られていて、片手を天へ、片手を地へ差し伸べている。
衣のひだの一枚まで驚くほど細やかに彫られていた。
薄暗いなかでもその像だけがほのかに浮かび上がって見えるようだった。
その神秘性に思わず見入ってしまうような像だった。
孤児院の中にも女神像は祀られていたが、この女神像はそれに比べても遜色がない。
いや、むしろ――こんな打ち捨てられた館になぜこれほどのものが、と思うほどだった。
この像に値をつけるとするならば、私の一年ぶんの稼ぎでもとても足りまい、素人ですらそう思えるほどだった。
「立派なものでしょう。館のなかでも、とりわけよく出来た品だと、自分は思っております」
ハーヴィの言葉に、ニナが大きく頷いた。
「これはすごい、ですね。でも……これも作者はわからないんですよね?」
「はい。残念ながら、銘はどこにも」
「こんな見事なものを造れる人が名前も残さないなんて。……ねえ、ハーヴィさん。これだけの腕前なら、どこかで名の知れた作り手だったはずでしょう?」
「さて。自分には、そこまでは。……ただ、この館のものは、どれもそうなのですが、誰が、いつ造ったのか、まるで手がかりがないのです」
ニナの目がいっそう輝いた。
謎が多いほどこの女は張りきる。
ニナが像のまわりをぐるりと回りながら食い入るように見ている。
私はといえば、まず部屋を確かめた。
場所的にここは先ほどの食堂の隣。
窓はひとつ、扉はいま入ってきた一枚きり。
その窓も、例によってカーテンで塞がれていた。
記録を取るなら、また、あれを開けることになる。
セオの方を見ると、カーテンをどうにかしたいのか、手を伸ばしたり引いたりしていた。
「セオ、光が要るな」
「はい。お願いできますか……」
セオの答えに頷くと、視線をハーヴィに移した。
ハーヴィもそのやり取りを見ていたのだろう、軽く頷くとカーテンに手をかけ、慎重に横へ引いた。
日差しは差し込まず、ただ、外の光が優しく部屋へ差し込んでくる。
その光のなかセオが女神像を写し取っていく。
手のひらが光り、白い像の姿が影の一本まで違えず紙の上へと移っていった。
転写の出来に満足したのか、セオは力強く大きく頷いた。
私もセオの後ろから紙に転写された女神像を覗き見た。
それは、まさに目の前にある女神像をそのまま切り抜いたものだった。
こうしておけば、たとえ像そのものが失われてしまっても、記録としては残る。
消えていくものを、消えないように。
ニナの言う仕事とは、つまりこういうことなのだろう。
「セオの転写、ほんとに綺麗よね。あたしの下手な文章よりもよっぽど伝わるんじゃない?」
「そんな……ニナさんの文章があってこそですよ、この写しだけじゃ記事になりませんし」
「またまた、謙遜しちゃって」
褒めては照れて、また褒める。
この二人のやりとりはいつもこうだ。
私は小さく笑ってその様子を見ていた。
「うん、いい記事になりそう。次、行きましょう!」
女神像の観察に満足したのか、ニナの頭の中はもう次の部屋のことに移っていっていた。
ハーヴィはセオが写しを終えたのを確認し、またカーテンを閉じ、部屋を施錠した。
---
次の部屋は目の前だった。
廊下の反対側にあるもうひとつの応接室。
「次は、こちら側の応接室になります」
ハーヴィが扉を解錠し、私たちを招き入れる。
こちらの部屋は先ほどよりいくらか小さかった。
内装も控えめだ。
派手な織物も大きなソファもない。
客をもてなす応接間というより、誰かが個人の客を静かに迎え入れる、私的な部屋のように見えた。
なぜ、こんな部屋にまで美術品を、と思う。
だが、その理由を訊ける相手は、ここにはいない。
その部屋の隅、小さな飾り棚の上に、それはあった。
母と子の彫像だった。
女神像とちょうど同じくらいの大きさ。
高さ四十センチほどの小さなものだ。
並べて置けば大きさが同じくらいなのがわかるだろう。
彫像は母親が幼い子を胸に抱いている。
子は母の腕のなかで安心しきったように母の顔を見上げていた。
なぜだろう。
この小さな母子の像を見ていると――胸の奥がキュッと締まる思いがする。
豪華でもない。
目を奪うほどの精巧さがあるわけでもない。
それなのに……この像には造った者の何かがこもっている気がした。
どう言えばいいのか私にはわからない。
ただ……見ていると……少しだけ泣きたいような心地になった。
顔も知らない私の母も、こんなふうに私を抱いてくれた日があったのだろうか。
――ばかばかしい。
私は小さく頭を振った。
考えたところで答えの出ないことだ。
「……マーレ?」
ニナに呼ばれて、私は我に返った。
「どうかした? ぼうっとして」
「いや。なんでもない」
なぜこれほど目を奪われたのだろうか、自分でもわからなかった。
古い、名もない彫像だ。
それ以上の何があるというのだろう。
「セオ、これもお願い」
「はい」
ニナに頼まれたセオは、さっそく転写をはじめた。
この部屋には残念なことに窓がない。
薄暗い中での転写は、やはり母子像をぼんやりとした形で写す結果となってしまっていた。
セオはそのことが残念だったのであろう、大きく肩を落としていた。
「すみません。この暗さだと、これが精いっぱいで……」
セオが写しを見せながら、申し訳なさそうに言った。
紙の上の母子像は、輪郭こそ写っているもののその表情までははっきりしない。
「いいって、いいって。"この像が存在した"ってことが残れば、まずは最低限、それで十分だよ」
ニナがセオの肩を軽く叩く。
「あいにくこの部屋には窓がございませんで……日の入らぬ一室なのです」
ハーヴィがめずらしく申し訳なさそうに眉を下げた。
「窓のない応接室かぁ。……こんな素敵な像を飾るのに、わざわざ窓のない部屋を選ぶなんて、なんか変なの」
ニナは首をかしげたが、その先は誰にも答えられなかった。
「……不思議ですね」
セオがぽつりと言った。
その視線は母子像をいまだに見つめていた。
「同じ人が造ったのかもしれないのに。あの女神像と、この母子像とでは、なんだか、まるで別の人が造ったみたい」
「そうかしら。あたしには、どっちもすごいってだけだけど」
ニナはあっけらかんと笑ったが、私にはセオの言うことが少しだけわかる気がした。
技巧なら女神像のほうがはるかに上だ。
それは美術を知らない私にもはっきりわかる。
だが、心を掴むのはこちらの小さな母子の像のほうだった。
上手いことと、心に響くことは、どうやら別のものらしい。
「本館の一階の美術品は、これでおおかた回りました。次は二階になります。それから別館でございます」
ハーヴィが指を折って数えながら言った。
「二階に、別館……日暮れまでに、回りきれるかしら」
ニナがめずらしく少しだけ気を揉むような声を出した。
こういう顔をするのも珍しい。
私たちは応接室を出て、廊下へと戻った。
ハーヴィが最後に応接室を施錠する。
かちり、という音が、静かな本館の中でやけに大きく響いた気がした。
「さて、二階へは、あの広間の階段から上がっていきます。……足元、そして手すりに、くれぐれもお気をつけて」
「はーい。……ねえマーレ、二階って、なんだかわくわくしない?」
「お前は、いつだってわくわくしてるだろう」
「そんなことないもん」
そんな軽口を叩き合いながら、私たちはまた広間へと戻っていく。
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