第12話 手すり
「さて、これで二階の部屋はすべてを回り終えました。では一階に戻りましょうか」
そのハーヴィの言葉に促され、私たちは部屋を出た。
ハーヴィが最後の部屋を施錠すると、私たちは吹き抜けにある廊下をまた大階段のほうへと戻りはじめた。
吹き抜け側にある手すりは胸の高さまではある。
しかし、ハーヴィが注意したように手すりの傷みは激しそうで、人を支え切れるようには見えなかった。
私はその手すり側をなるべく自分が歩くようにした。
ニナと吹き抜けとのあいだに自分の体を置く。
おっちょこちょいなニナが手すりにうっかり寄りかかりでもしたらたまらない。
「ニナ、その手すりには寄るなよ。かなり傷んでいるように見えるからな」
「わかってるってば。子供じゃないんだから」
そう言うわりにニナの足取りはどこか危なっかしい。
ニナの頭の中では、これまで見てきた美術品をどういう記事にまとめようかと、あれやこれやと考えているに違いない。
私はニナとの距離をさらに詰めた。
だが、そのニナは相変わらずだった。
歩きながらも、さっきのあの絵は……とか、あの絵の母子は……とか、心ここに在らず。
「ねえ見て、マーレ。最後の絵だけどさ、ほら、子供の背が少し伸びてなかった? きっとおんなじ男の子を、何年にもかけて描いたのかも」
「そうかもな。それはそうとして、しっかり前を見て歩け」
「はぁい。……でもさ、ほんと、可愛かったよね。あの――」
振り返り客間を指さそうとした、その、ときだった。
ニナの足がもつれてしまった。
「っあ――」
小さな声とともにニナの体がぐらりと傾ぐ。
とっさにニナの手がすぐそばの手すりを掴んだ。
みし、と、いやな音がした。
手すりはニナの体重を受けきれず、あっけなく根元から傾き、手すりごとニナの体が吹き抜けのほうへ――
「ニナ!」
考えるより先に体が動いていた。
反射で伸ばした手でニナの腕を掴む。
そのまま力任せに廊下の側へと引き戻した。
勢いあまって二人して床にもつれるように倒れ込む。
遠くからは、根元から折れた手すりの一部が吹き抜けの向こう、一階に落ちた音が響いてきた。
からん、と。
それは、冷たく乾いた音だった。
私は床に座り込んだまま下を覗いた。
折れた木片は一階の広間の――ちょうどあの塔のような美術品の足元に転がっていた。
なぜかそこから目を離せなかった。
背筋がすっと冷たくなった。
もし、いまニナを引き戻していなかったら、ニナは頭からあの美術品の上に落ちていたかもしれない。
――そこまで考えて、私はその先を頭から追い払った。
「マーレさん! ニナさん! ご無事ですか!」
ハーヴィが血相を変えて駆け寄ってくる。
「……ああ。私は、なんともない。ニナ、お前は」
「だ、大丈夫……ちょっと、腰、打っただけ」
腕のなかのニナは真っ青な顔で、それでもなんとか笑おうとしていた。
その手がかすかに震えている。
私は、ほっと、息を吐いた。
安堵すると、次は怒りが湧き上がってきた。
「よそ見して歩くな。何度、言えばわかる」
「……ごめん、なさい」
いつもの憎まれ口が返ってこない。
よほど怖かったのだろう。
私だって、心臓がまだうるさいくらいに鳴っていた。
「申し訳、ございません……手すりが、ここまで傷んでいたとは。自分の、確認不足でございます」
ハーヴィが床に膝をつかんばかりに深く頭を下げた。
「あんたのせいじゃない。……それに建物自体が傷んでいると注意も受けていたしな。こいつが浮かれすぎていたのが悪いんだ」
そう言いながらも私の胸の内はうまく片づかなかった。
古い建物の傷んでいた手すりが折れた。
ただそれだけのことだ。
――そう思おうとした。
だが、なぜだろう。
立ち上がりながら、私の頭のなかでいくつかのものがばらばらと勝手に並びはじめていた。
この館には鏡が一枚もない。
どの部屋にも母と子の絵が飾られている。
大人の遊び部屋に子供の玩具。
そして、この人を殺しかけた壊れた手すり。
ひとつひとつはなんでもない。
それなのに、それらが私の頭のなかで、ひとつの嫌な形になりかけている。
――気のせいだ。
私はいつものようにそう思おうとした。
だが、なぜか今回ばかりはうまく効いてくれなかった。
「……ハーヴィさん。こいつにはあとでしっかりと言い聞かせる。だから、まずは二階を降りよう」
「はい。……ええ、そういたしましょう」
私たちは、上って来たときよりもずっと慎重に大階段を降りた。
手すりには触れず、壁のほうへ体を寄せて。
足元をしっかりと確かめながら。
---
広間まで降りきると、ニナがようやくいつもの調子を少しだけ取り戻した。
「はぁ……びっくりした。マーレ、あんた、ほんと、すごい反応するよね。命の恩人だわ」
「その通りだ。だから、ニナ、お前も浮かれすぎるな。注意をしろ。……次は、ないぞ」
「はぁい」
その返事も、いつもよりいくらかしおらしかった。
まだその顔色は悪いままだった。
私はゆっくりと息を吐いて、まだ乱れている鼓動をなだめた。
そうしてあらためてハーヴィのほうを見る。
「……ハーヴィさん。ひとつ、確かめておきたい」
「はい。なんなりと」
「この館は、思っていたより、ずっと傷んでいるようだ。あの手すりはたまたま折れたんじゃない。体重をかければ折れる――そういう状態だったんだろう。ほかにもああいう場所は、あるんだな?」
ハーヴィは言葉を選ぶように、しばしうつむいた。
「……そのとおりです。この館はあまりにも長い時間、放置されていました。最初にお話した通り、持ち主のいない建物は、傷むのも早うございます。床が抜けそうなところ、傷みが激しい手すりや壁……危ういところは、まだ、いくつも。……本来なら、こうしてご案内すること自体、控えるべきだったのかもしれませんね……」
「あんたを責めてるんじゃない。ただ、これから先の心構えを改めたかっただけさ」
ニナとセオも、ハーヴィとの話を近くで聞いていた。
ニナに視線を向けると、こくりと頷いて、それから大きくひとつ深呼吸をした。
その頬に、ようやく少しずつ血の気が戻ってきていた。
セオはまだ青い顔のまま鞄を胸に抱えている。
ニナが起こしたことを自分も起こしてしまうのではないか、と。
いや、もしかしたら、とっさに動けなかった自分を悔いているのか。
私はセオの肩を軽く叩いた。
「お前は、記録役だ。守るのは護衛である私の役目。……それより、ニナのように浮かれてくれるなよ。いまのを忘れずに、これからはより注意してくれ」
「……はい」
セオもようやくその肩から力を抜いたようだった。
張りつめていた四人の空気がゆっくりとほどけていく。
「……皆さん、落ち着かれましたでしょうか」
私たちの様子を見はからって、ハーヴィが、静かに切り出した。
「もし、お加減が優れぬようでしたら、本日はこのあたりで切り上げられても、構いません。決して、ご無理は――」
「ううん、大丈夫。……せっかく、ここまで来たんだもの。最後まで見ていきます」
ニナは顔がいつもの記者の顔に戻りかけていた。
まったくこの女は。
だが、こうでなくてはニナではない。
「……わかった。ただし、別館では、私のそばを離れるな。いいな」
「はい、護衛どの」
ニナがおどけて敬礼のまねをする。
その仕草に、セオも、ハーヴィも、ようやく小さく笑った。
「では、参りましょう。……次は、こちらの渡り廊下から、別館へ」
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ハーヴィが示したのは、広間から外へと伸びる細い廊下だった。
それは本館と別館を繋いでいる渡り廊下。
ハーヴィの後に続き、私たちも渡り廊下を歩いていく。
渡り廊下にもいくつも窓が並んでいて――そのどれもがやはり厚いカーテンで閉ざされていた。
「別館は、もともと、家族のための空間であったと聞いております。本館はお客様をお招きするための、表の棟で――」
「じゃあ、家族が暮らしてたのは、あっちの建物?」
「さようでございます」
そんな会話をしていると、渡り廊下の先に暗がりが見えてきた。
あれが別館なのだろう。
ハーヴィが立ち止まり、こちらに振り向いた。
「この先が別館となります。別館の造りも、本館とよく似ております。……では、参りましょう」
そうして、私たちは、別館へと足を踏み入れた。
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