第8話「無人ピアノの夜鳴き」
一年三組の教室は、朝からどこか落ち着かない空気に包まれていた。
声が飛び交うわけではない。
けれど、数人が前の方をちらりと見る。
何人かは、わざと視線を合わせないようにしている。
陽斗は、その空気の揺れを肌で感じていた。
(……また何かあったのか?)
透子の席の周りだけ、空気がわずかに密度を増している。
昨日の“恋愛じゃないわ”発言が、まだ教室に残響しているのだ。
男子は淡い期待を抱き、
女子は距離を取りつつも興味を隠せず、
何人かは静観している。
そんな中、教室の前の方で、ひそやかな空気の波が立った。
──音楽室のピアノが、勝手に鳴ったらしい。
声は小さかったのに、
その“内容”だけが教室全体に波紋のように広がった。
陽斗の背筋に、ぞわっとしたものが走る。
(……ピアノが勝手に?なんでこの学校、こんなのばっかり?)
理科室の試験管に続いて、今度は音楽室。
偶然とは思えない。
陽斗が透子の方を見ると、
彼女はゆっくりと顔を上げた。
その目は、昨日までの柔らかさとは違う。
静かで、冷たくて、どこか楽しそうな光。
「……弦が鳴ったのね」
陽斗は思わず聞き返した。
「えっ……なんで分かるの?」
透子は教科書を閉じ、淡々と答えた。
「相沢くん。
ピアノが“鍵盤を押さないと鳴らない”と思ってるなら──
それは、ちょっと残念ね」
陽斗は胸を刺されたような気持ちになった。
(ざ…残念って……)
透子は続けた。
「弦は、条件が揃えば勝手に振動するの。
湿度、温度差、空気の流れ、共鳴……
どれか一つでも極端なら、音は出るわ」
陽斗は言葉を失った。
(……まただ。落とされてる)
透子は静かに席を立った。
「放課後、音楽室に行くわよ」
陽斗の心臓が跳ねた。
(ま、また……!?)
透子は陽斗の反応を気にする様子もなく、淡々と続けた。
「“怪奇現象”なんて、観察すれば消えるものよ」
その瞬間、教室の空気がまた揺れた。
ざわつきでもなく、騒ぎでもなく──
“何かが動き出した”ような気配。
放課後。
音楽室の前は、昼間とは違う静けさに包まれていた。
扉の向こうからは何の音もしない。
けれど、陽斗は胸の奥がざわざわして落ち着かなかった。
(……本当に鳴ったのかな)
透子は迷いなく扉を開けた。
「失礼します」
中は薄暗く、夕陽が斜めに差し込んでいる。
黒光りするグランドピアノが、静かに佇んでいた。
透子はピアノに近づき、弦の部分を覗き込んだ。
「……やっぱり」
「な、なにが?」
「弦が湿気てる。
伸びた弦は、わずかな空気の振動でも共鳴しやすくなるの」
陽斗は息を呑んだ。
(そんな理由で……?)
透子は続けた。
「それに──」
透子はピアノの蓋を少し持ち上げ、内部を覗き込んだ。
「昨日の放課後、誰かが弾いてるわね」
「えっ……なんで分かるの?」
「弦の温度が違うのよ。
触れば分かるわ」
透子は弦にそっと触れた。
その手が、陽斗の手の甲にかすかに触れた。
陽斗の心臓が跳ねた。
(うわっ……!)
透子は気にした様子もなく、淡々と続けた。
「弾かれた弦は、しばらく温度が均一にならないの。
だから、昨日の“余熱”が残ってる」
陽斗は驚きで言葉を失った。
(そんなことまで分かるのか……)
透子はピアノの蓋を閉じ、静かに言った。
「つまり──
“誰かが弾いた直後に湿度が上がり、
空気の流れが弦を揺らした”」
陽斗はごくりと唾を飲んだ。
「そ、それで……勝手に鳴ったように聞こえた……?」
透子は、ほんの少しだけ口元を上げた。
「ようやく理解したのね。
相沢くんにしては、悪くないわ」
陽斗は胸が熱くなった。
(……褒められた?)
透子はピアノから離れ、ふっと目を細めた。
空気が柔らかくなる。
声の温度が半音だけ下がる。
「さっきは言わなかったけど──
来てくれて、嬉しかったわ」
陽斗の呼吸が止まった。
(……え?)
透子は続けた。
「ありがとう。相沢くん」
その微笑みは、
昼間の冷たい言葉とは別人のように柔らかかった。
陽斗の心臓が跳ねる。
(な、なんだよ……!
さっきまであんなに冷たかったのに……!)
透子はすぐに表情を戻し、ノートを閉じた。
「じゃあ、帰りましょう。
科学の知識があれば、もっと学校が楽しくなるわ」
陽斗はその背中を見つめながら、
心の中で叫んだ。
(……結局、また惚れそうになってるじゃん僕!!)
音楽室の静寂の中、
ピアノはもう鳴らなかった。




