第7話「天使と悪魔と、ため息と」
一年三組の教室は、ここ数日ずっと落ち着かない空気に包まれていた。
理科室の試験管事件が解決してからというもの、
陽斗と透子の名前は、教室のどこかしらで“静かに”漂っている。
声に出す者は少ない。
けれど、空気が語っていた。
──あの二人、最近よく一緒にいる。
──もしかして、付き合ってる?
──白石さん、科学オタク?こわいかも。
そんな“言葉にならないざわめき”が、教室の温度を微妙に揺らしていた。
陽斗は、その空気の真ん中にいた。
(……なんでこうなるんだよ)
机に突っ伏したくなる気持ちを抑えながら、
ちらりと透子の席を見る。
透子は、いつも通り無表情で本を読んでいた。
周囲の空気の変化など、まるで気づいていないように。
いや──気づいている。
ただ、気にしていないだけだ。
昼休み。
女子数人が透子の机の周りに集まっていた。
声は小さい。
けれど、教室の空気が“そこだけ密度を増している”のが分かる。
陽斗は弁当を開きながら、遠巻きにその様子を見ていた。
(な、なんだ……?)
女子たちの視線が、ちらりと陽斗の方へ向く。
男子たちは、何気ないふりをしながら耳をそばだてている。
透子は、女子たちに囲まれながらも落ち着いていた。
その姿は、どこか“中心に立つ人”のようだった。
女子の一人が、意を決したように口を開いた。
「白石さん……相沢くんと、付き合ってるの?」
その瞬間、教室の空気が一瞬だけ凍りついた。
ノートを閉じる音が止まり、
数人が息を呑み、
男子たちの視線が一斉に透子へ向く。
もちろん陽斗は期待と不安で心臓バクバク。
透子は、ほんの一拍だけ間を置いた。
そして──
淡々と、しかしはっきりと言った。
「恋愛じゃないわ」
空気が揺れた。
言葉の第一波の衝撃が陽斗の心を引き裂いた。
女子たちは一瞬驚き、
すぐにキャーッと小さく盛り上がる。
男子たちは、淡い期待を抱いたように姿勢を正す。
透子は続けた。
「なんとなくタイミングが合っただけよ。
相沢くんが特別なわけじゃないわ」
陽斗の心は、地面に落ちた。
(……そ、そうだよな……)
透子は女子たちに向けて、ふっと微笑んだ。
その微笑みは、
空気をふわりと軽くするような柔らかさだった。
女子たちは一瞬息を呑み、
男子たちも思わず見惚れる。
透子は、男女問わず“魅了する”存在だった。
午後の授業が終わると、透子はまた陽斗を呼んだ。
「相沢くん。ちょっと来て」
(またか……!)
廊下に出ると、透子は淡々とノートを開いた。
「昨日の理科室のデータ、整理しておきたいの。
あなた、メモ取ってた?」
「え、あ……うん」
「じゃあ見せて」
陽斗はノートを差し出した。
透子はぱらぱらとページをめくり──
「……相沢くん」
「な、なに?」
「ホントに何もできないのね」
「ぐはっ……!」
陽斗の心にまたクリティカルヒット。
透子は続けた。
「字は汚いし、順番はバラバラだし、
必要な情報が抜けてるし……」
「そ、そんなに……?」
「ええ。
さっさとまとめて。
もっと効率を考えてテキパキできないの?
ドジね」
(ドジ……!)
陽斗は心の中で泣きそうになった。
(なんで僕、こんな扱いなんだ……)
透子は淡々とノートを閉じた。
「でも──」
透子はふっと目を細めた。
空気が変わる。
声の温度が半音だけ下がる。
口元がわずかに上がる。
「ありがとう。
でも、あなたがメモしてくれたおかげで、整理が早く済みそうだわ」
陽斗の呼吸が止まった。
(……え?)
透子は続けた。
「助かったわ、相沢くん」
その微笑みは、
昼休みの冷たい言葉とは別人のように柔らかかった。
陽斗の心臓が跳ねる。
(な、なんだよ……!
さっきまであんなに冷たかったのに……!)
透子はすぐに表情を戻し、
「じゃあ、また明日」
陽斗はその背中を見送りながら、
心の中で叫んだ。
(……結局、また惚れそうになってるじゃん僕!!)
天使と悪魔が同じ顔で並んでいるような、
そんな不思議な感覚だけが胸に残った。
そして陽斗は、
“逃げたいのに逃げられない”という新たな悩みを抱えることになった。




