3.読まない王妃
目に映る限りを高い樹々に囲まれて。
中央の開けた場所には、美しき季節の花々が咲き誇っている。
ここはアウストゥール王国の王城の最奥。
限られし者のみが足を踏み入れられる、人々には隠された庭園だ。
その一角。
木漏れ日が程よく降り注ぐ場所に、お茶の席が用意されていた。
椅子は二脚あったが、着席する者は、この国の王妃ただ一人である。
側には給仕の侍女が一人と、少し離れて騎士が幾名か庭園の各所に配置されていた。
王都どころか、城内の喧騒も届かずして。
風が鳴る葉音が時折囁くだけの、とても静かなこの場所で。
所作美しく、優美に茶を嗜むこの王妃が。
──なんてことっ!なんてことなの!
心中で大興奮しているなんてことは、誰が知られようか。
そのうえ王妃フロスティーンの表情は、「無」そのもの。
──聞いたわね?聞いたわよね?サクッと鳴ったわ!サクッとよ!あぁ、またサクサクと音が鳴っているわ。なんてことなの!
給仕用の台車の上で、表面赤く輝くタルトが今まさに侍女の手で切り分けられていく。
ごくり。
王妃の喉から出た音は、風音と葉音が巧妙に隠したおかげで、側にいる侍女にさえ聴こえなかった。
──切られてもなお美しいわ。断面も見事ね。さすがは天上国の侍女とお菓子だわ!
そしてついに、切り分けられたタルトが乗った皿が、音もなく王妃の前へと差し出された。
フロスティーンが自然に息を吸い込めば。
咲き誇る花の香りを越えて、一番に強く甘い香りが流れ込んでくる。
そのすぐ後には、元から漂う不思議と涼しい香りが、タルトと花々の甘さを優しく抱えるようにして、フロスティーンの全身に清々しさが伝わっていった。
──これはっ!天上国の特別な香りね!素晴らしいわ!
間を置かず、美しい所作でナイフとフォークを手にした王妃は、躊躇いなくその二つの先端をタルトの片隅に落とし──不作法ながら動きを止めた。
──なんてことっ!なんてことなのっ!
ナイフを入れた瞬間の、ふわふわではない、新たなる感触に、フロスティーンの心は跳ねて、跳ねて、跳ねて──落ち着きを取り戻せない。
しかしながら動きを止めていた時間は僅かで、やがてフロスティーンは自らナイフで切り分けたタルトの欠片を、フォークに乗せて口に運び入れた。
──なんてことっ!これはっ!
フロスティーンの心が激しく躍った。
はじめての触感と、舌を転がる蕩ける甘さに、心中では感涙しているフロスティーンであったが。
──サクサクよ!サクサクだわ!凄いわ、ナイフを入れた瞬間にサクっと音が鳴ったのに、噛むとまたサクっと音が鳴るのよ!口の中でサクっよ!なのに、柔らかくて、しっとりしているの。不思議だわ!
その表情は、相変わらずの「無」。
とても美味しくないものを味わっているような顔をして、フロスティーンはぱくぱくと早いペースでタルトを食べた。
あっという間に一切れが消えてしまう。
フロスティーンの知らないところで、タルトを切り分けていた侍女が、フロスティーンの前にある皿を交換した。
──まぁ、まだ食べていいの!本当に?丸ごと全部食べてしまっても構わない?まだ沢山あるですって?天上国の皆さまはなんてっ!なんて寛大で素敵なの~っ!
侍女に促されて、不思議な香りの紅茶を一口飲んで。
フロスティーンはさらに心中だけで興奮していた。
──これはっ!大変よ!この清涼感。お腹まですーっとして、いくらでもお菓子が食べられるようになるわ!もう間違いないわね。旧ミュラー侯爵領は天上よ!
やはり早いペースで、タルトをぱくぱくと食べ進めながら、フロスティーンの思考は飛躍する。
──いいえ、違うわ。すべてが天上国なのよ。だって……。
「天上国の王様ですもの。ゼインさまが併合した場所すべてが天上国で……つまり皆様が天上の民。だからこんなにも素晴らしいものを世に生み出せて──」
「フロスティーン。いよいよ我が国の民のすべてを天に召したな?」
受け止めていた穏やかな木漏れ日が、急に大きな影へと変わり。
フロスティーンの動きが止まった。
「俺は気にせず食べるといい。今日のそれは……旧ミュラー侯爵領の菓子か?」
──さすがは天上国の王様だわ。天上の素晴らしいものはすべてご存知なのよ。……食べていいと仰ったわよね?さすがは天上国の王様は寛大ね。
フロスティーンがすぐにゼインからタルトに視線を落としてしまったので。
ゼインが無言で空いた椅子に座れば、すぐに侍女から声が掛かった。
「旧ミュラー侯爵領の伝統菓子のタルトと、同じく旧ミュラー侯爵領で長く嗜まれてきた香草茶にございます。ところで、陛下。少々お戻りがお早いように感じますが」
ゼインが面を食らったように顔を顰めたのは、侍女からの発言を不敬と感じたからではない。
侍女の声から様々な想いを受け取ってしまったからだ。
「少々面倒なことになってな」
侍女の纏う気配が変わったが、フロスティーンは顔も上げずにタルトを味わっていた。
「そう案ずるな。俺の妃は誰にも渡さない。それにそういう話ではなかった」
侍女が安堵したのも束の間。
「王子、王女が亡命したいと言ってきた。フロスティーン、何か知っていることはあるか?」
聞き間違いかと耳を疑う侍女を傍らにして、フロスティーンの視線がゆったりとゼインに向かう。
久しぶりにフロスティーンの目がぱちぱちぱちと三度瞬く様子が見られて。
ゼインはしばらく張り詰めてきた気をやっと緩めることが出来た。
「さては聞いていなかったな?それほどに美味い菓子だったか?」
フロスティーンはゆったりと首を振ったあと、すぐに動きを止めて頷いた。
かと思えば、続いて首を傾げている。
ゼインはくつくつと笑った。
「大丈夫だ、フロスティーン。俺には分かった。話は聞いていたが、その菓子は美味いのだな。それで?」
「お二方のことは、存じ上げません」
ゼインは高揚に頷いた。
少し前謁見の間で見せ続けた顔は、一体どこへ置いてきたか。
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