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利剣一閃アヤカシ殺し  作者: 子守家守
樹怪と黒猫
49/51

07

 聞き慣れない音に反応が遅れた。

 空洞の筒を叩いたような音に続いて、ひゅるりひゅるりと独特な風切り音が届く。


(……花火?)


 そう連想したときには、もう両足が地面から引っこ抜かれていた。

 激しい圧力と衝撃。まるで空気を固めた槌で真正面からぶん殴られたかのよう。

 抵抗の間もなく吹き飛ばされ、家の土壁に背中を強かに打ち付けた。息が詰まる。足を踏ん張れず、地面に倒れた。顔の左半分が土にめり込む。目眩。耳鳴り。きぃんと高い音の膜が全身を残さず覆い尽くしている。


「っ、はっ……」


 肺から空気が零れた。失ったものを取り戻そうと喘ぐが、上手く空気を吸い込めない。

 もがくように倒れた身体を捻る。仰向けになった。夜空は見えない。視界は白一色。まるで霧の中。だが、冷たさはない。肌の感覚が消えているのか、それとも。


(煙……)


 咄嗟に息を止めた。止めたようとした。本当に止まったのかはわからない。そもそも呼吸のやり方を忘れてしまっていた。

 痺れる腕を動かして、着物の袖で口元を覆う。ほとんど無意識の行動だった。それに意味があるのかもわからない。


 尺取り虫みたいに頭を支点にして、不格好に立ち上がろうとする。地面に押し付けられた頭がひどく痛んだ。上体が異様に重く、腰より上には持ち上がりそうにはない。膝をついての四つん這いが今の精一杯。


 それでも、手足が欠けていないことは理解できた。

 この場に留まるのは拙い、と頭の中で警鐘が鳴っている。その判断を吟味する余裕すらない。ただただ赤子のように這って歩くしかなかった。


 視界は変わらず乳白色に染まっている。しかし、燻されている感覚はない。煙ではないのか。鼻の奥がつんと甘く痺れている。匂いは感じないのに、不思議とそう思った。

 四方が真っ白で目印はなにもない。偶然顔の向いていた方向に進んでいるだけだ。風景もまったく変わらないから、本当に進めているのかも定かではなかった。


(とにかく、この靄から抜け出して……、それから……)


 それから、どうする?

 疑問を抱いた瞬間、肘を踏み外した。


 平坦と信じ込んだ地面に裏切られた。空振りした肘と腕に引かれて、身体が奈落に落ちていく。穴か、溝か、それともただのちょっとした窪みなのか。何もわからないまま落ちていく。


「ぐ、ぁ……」


 終わりは唐突。受け身を取ることもできなかった。再び強打された身体が悲鳴を上げる。

 冷たさを感じた。半身が濡れている。薄く目を開けると、身体の下をちょろちょろと流れる水が見えた。辺りの地面は大小の石でごつごつとしている。左右には身長より高い土手。水路、いや、もっと天然の沢といった方が近いか。

 あれほど深かった白い靄が晴れていることに気づいた。足にも力が入る。立ち上がって見上げた天上は、空とは思えないほどに黒かった。


「移動しないと……」


 そう呟く自分が、どこか遠くの存在に感じられた。

 沢の流れに遡って歩き出す。水の色は天の色を落とした黒。まるで墨だ。振り返れば、筆で塗り潰したかのような闇がすぐそこに迫っている。沢の流れの向かう先は、どうやっても見通すことができない。


 ざぶざぶと水を掻き分けて進む。

 足首にも届かなかった沢の流れはいつの間にか膝の深さになっていた。流れの抵抗が大きく、着物に染みた黒い水が鬱陶しい。

 一旦足を止めて周囲を見回してみる。左右の土手が少し低くなっていた。登るのは難しそうだが、頭を出すことくらいはできそうだ。墨に染まった水草を踏みながら土手に近づき、背伸びをして沢の外を覗き込んだ。


(ここは、どこだろう?)


 土手の上には広々とした街道が敷かれていた。平坦な土地を貫いて一直線に伸びている。五、六人がゆうに並べるほど幅が広く、路傍には丸岩に注連縄を巻いた道祖神が置かれている。沢の反対側は田んぼになっていて遙か彼方まで何枚も続いていた。


 どこから来て、どこに続く道なのか。道の先はどちらも陽炎に歪んでいて判然としない。

 その歪んだ空気の向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。大きい人影と小さい人影。大人と子供の二人連れだ。誰だろうか、と、土手の縁に顔の上半分だけを出して様子を窺う。


 二人連れが近づいてくる。顔が見えるほどになった。大人の方は鷲のような鋭い目の男だった。黒と白とが半々ほどの髪で、壮年と呼ぶにはやや老いた印象。薄手の着物姿で、腰には刀を一本だけ差している。

 どことなく見覚えがある気がした。知り合いだろうか。しかし、そんな気がするだけで、それ以上は思い出せない。喉に小骨が引っ掛かったようでもどかしい。


 もうひとりの少年は男から二歩遅れて歩いている。背格好からして、齢は十にも満たないのではないか。顔の造りはよく見えない。光の都合だろうか。隠れるほど前髪が長いわけでもないのに。

 男がふと足を止めて、少年に振り返った。


「お前、俺のことを知っているか?」


 目つきの鋭さに反して穏やかな口調だった。

「知らない」と少年は首を振る。

「知らないのにここまでついてきたのか」と男は苦い顔を浮かべた。


「俺はお前を知っている。お前の父親に後のことを頼まれたからな」

 男は地面に膝をつき、少年と目線の高さを合わせた。

「母親はずいぶん昔に亡くなっていると聞いた。兄弟もいなければ、親戚筋とも縁が切れているとも。男やもめだが、それでも苦労してここまで育てたんだと、お前の父は最期にそう言っていたよ」


 少年は黙って男の話を聞いている。相変わらず表情はよく見えなかった。ただ、泣いてるわけでもなさそうだ。男が語る自分の身の上話をどこか他人事のように聞いている。そんな気がした。


「あの男は喧嘩に巻き込まれて死んだ。売ったわけでも買ったわけでもないぞ。酒をかっ喰らった若い衆が喧嘩してるところに出くわして、やめとけって仲裁に入ろうとしたところを両方からぶん殴られちまったらしい。それで、当たりどころが悪くてお陀仏だ」

 男はこめかみに指を当てて顔を顰める。

「損な生き方で、不器用な死に方だ。……お前、親父さんを殺した相手が憎いか?」


 そう問われ、

「わからない」と。

 ぼくは首を傾げた。


 タツミと名乗ったお侍が、すぐ近くからじっとぼくの顔を見ていた。

 ぼくの目と同じ高さにタツミの目がある。鋭くて、気高くて、優しい目だった。


 父との思い出はほとんどない。母は最初からいなかった。

 実のところ、ぼくは父が何を生業としていたのかすら知らなかった。日の出と同時に働きに出掛け、帰ってくるのは日没を過ぎてからになるのが常で、外に泊まる日も多く、一度も顔を見ずに終わる日も少なくなかった。帰ってきても疲れているのか、二人で会話を交わすこともあまりなかった。


 いつも面倒を見てくれたのは長屋の大家だった。父もそれを知ってか、大家のおやじには家賃の他にもいくばくか金子を渡していたようだ。

 面倒を見ると言っても可愛がられていたわけではない。扱いは(てい)のいい使い走りといったところ。掃除、溝浚い、荷運び、障子の張替え、言伝て、その他細々とした雑事の数々……。大家が任せられそうと判断した仕事はなんでも押し付けられた。ひとつ終わればまた次の仕事と、起きてから寝るまで自由に過ごせる時間などありはしない。

 父との触れ合いが記憶に無いのも、結局のところ、ぼくも毎日疲れ果てていて、遅くに帰る父を待って起きていることができなかったからということもあるだろう。

 けれども、働きさえすれば食事にはありつけたし、理不尽に寝床を追い出されることもなかった。だから不満に思ったこともないし、大家を相手に文句を言ったこともない。


 そんなだから、父が死んだと聞いたときも、「ああ、そうなんだ」と思ったきりで、悲しいとか寂しいとか……、そういう気持ちは湧いてこなかった。いつも会えない人が、これからも会えない人になった。それだけのこと。なにしろ、最後に会ったときにどんな言葉を交わしたのかも覚えていなかったのだ。

 泣きもしない僕を見て、大家のおやじや長屋の住人が「薄情者め」と怒鳴りつけたけど、いつまで経っても涙が出ることはなかった。


 今も、そうだ。


 父が死んでも、ぼくの生活は何も変わらないと思っていた。

 次の日が来れば大家のおやじから仕事を押し付けられて、代わりに飯と寝床を用立ててもらう。その繰り返しが続くと思っていた。強いて言うなら、父が渡していた家賃と金子がなくなるのだから、仕事を増やしてもらうか、それかもっと難しい仕事を任せてもらうようにお願いしないといけないかも、なんて考えていた。


 ところが、数日もしないうちに、タツミが長屋にやって来た。

 立派な身なりというわけではないけれど、さっぱりとした雰囲気で背筋がまっすぐに伸びたお侍だった。応対した大家のおやじがひどく恐縮して腰を折っていたのを覚えている。彼がぼくを引き取りたいと言えば、それだけでとんとん拍子に話がまとまった。


「一緒に来るか?」とタツミはぼくに訊いた。

 それに頷いたのは、たぶん、彼がぼくと同じ高さに目線を合わせて訊いてくれたから。

 今まで会ったことのある大人は、ぼくの頭の上から言葉を降らせてくる人ばかりだった。ほとんど話さなかった父も含めて、だ。

 だから、たったそれだけのことで、ぼくはタツミについていくと決められたのだ。


 そんなようなことを、何度も詰まりながらタツミに説明した。

 喋るのは苦手だった。今まで喋ることがあんまりなかったから慣れていないのだ。

 タツミはたどたどしいぼくの話を最後まで聞いてくれた。のろのろ喋っている途中で誰かに殴り飛ばされなかったのは、もしかしたら初めてのことかもしれない。


「薄情者とは、好きに言ってくれたものだな。親子の情なんて、俺にだってよくわからんよ」

 話を聞き終えると、タツミにがしがしと頭を撫でられた。

「情の厚い薄いが人の価値か? 親を愛せぬ者は他の人間も愛せぬと、どうして言える。この世のすべてに情を抱き、心のままにすべての人間を愛せる者など、もしいるとすればそれは狂人と呼ぶ他あるまい。お前は父親に情を抱かなかったかもしれないが、だからといって心の無い人間ではない。そのくらいは俺にもわかるとも」


 鷲の目のお侍が不器用な笑顔を見せた。ぼくは彼の言葉を理解しようと精一杯で、間の抜けた顔でそれを見ているだけだった。

 タツミはそんなぼくを見つめながら、片側の眉だけを持ち上げて言った。


「とはいえ、俺も世間様の言う真っ当な子育てができる男ではない。街の中での安穏とした暮らしなど、どうやってもお前に与えてやることはできんだろう。もしお前がそういう生活を望むなら、どこか信用のできる家にお前を預けてやることもできるが……、どうする?」

「……。ぼくは、なにができる?」


 そう訊いたのは、長屋にいた頃と同じように、なにか仕事をさせてもらうことを考えたからだった。雑用だろうがなんだろうが、自分にできる仕事をやらせてもらえれば生きる場所を確保できるのだと、そのときはそう思っていた。そうする他に、生きる方法を知らなかった。

 けれど、ぼくの意図するところはタツミにはまったく伝わらなかった。どういうわけか、彼はぼくの問いに対してにやりと唇を吊り上げたのだ。


 タツミは立派な大人で、色々なことを知っていて、とても思慮深い人だけれど。

 根っこのところでは、やっぱり、剣術馬鹿だった。


「俺が教えられるのはひとつだけよ。それを学んでお前が何をできるようになるかは、まさしく、お前次第。未来のことなど誰にもわかるまい。身体も出来上がっていない子供の才の有無など、俺にもまるでわからんからな!」

 タツミはそう言って呵呵と笑い、さっきよりもちょっと手荒に、ぼくの頭をがしがしと掻き回した。伸ばしっぱなしの髪がぐしゃぐしゃになったけれど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。むしろ、ちょっぴり嬉しいような、今まで感じたことのない変な気分だった。


「どうだ。俺の下で学んでみるか?」

「うん」

「はい、だ。礼儀を知ることは他者を尊重し、己を律するということ。それは必ずお前の血肉になる」

「はい」

「よろしい」


 穏やかな陽気の春の日だった。

 その日から、『ぼく』は『私』になったのだと思う。


 気がつくと、タツミの姿が消えていた。

 どこに行ったのだろう、と辺りを見回す。広々とした街道には人が隠れられそうな場所はどこにもない。道祖神の丸岩は小さくて、陰に潜めるのは子供くらいだ。道の片側は田んぼになっていて遠くまで視界が開けている。そちらの方向に行ったのなら、すぐに気づくはずだ。

 道を挟んで田んぼと反対側には川が流れているらしかった。土手になっていて、道の上からは川岸を見ることはできない。もしかしたら、と思い、土手から身を乗り出して川の方を覗き込んだ。


 奈落のように深い谷底から、私は少年の顔を見上げていた。目が合った気がしたが、きっと気のせいだろう。谷底を覗いた少年は、誰かに呼ばれたみたいで、すぐにどこかに行ってしまった。

 駆け出した少年の足が当たったのか、崖の上から石が落ちてくる。目の粗い鑢みたいな壁面に反射した大きな石が私の足元に転がってくる。


 石は真っ黒に輝く黒曜石で、足が四本あって、尻尾を揺らしていた。

 嵌め込まれた猫目石が感情のない光を放っている。


「目覚ましは必要か?」

「そうだね。お願いしようかな」

 石は問い、私は頷いた。


 川の水は腰まで増水していた。まばたきを挟むと、もう肩まで水に浸かっていた。

 止まることなく、どんどん水嵩が増していく。黒曜石の猫は水底に沈んでしまった。水位が首まで上がったところで踏ん張れなくなり、私は流れに攫われた。

 ぐらぐらと頭を揺らされながら下流に流されていく。その間も水位は上がり続け、頭上の崖がどんどん近づいてくる。


 誰かが崖からこちらを覗いていた。

 顔の見えない少年ではない。

 天女の衣を羽織った黒髪の娘だった。


 もうすぐ、手が届く。

 そう認識した瞬間、私の意識は断絶した。

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