02
私がヤクモと初めて遭遇したのは、雷獣の事件からしばらく後のこと、ある冬晴れの昼下がりのことだった。
山中に隠棲する剣の師、タツミの庵を訪れるため故郷の町を歩いていたときのことである。馴染みの料理屋の店先で出くわした奇妙な光景に、私は思わず足を止めてしまった。
気合を入れて袖まくりした女将が、見慣れぬ黒猫を両手で吊るしていたのだ。
初見の印象は『変な猫』だった。
なにしろその猫は、両の前脚を握られ大の字にされた状態で宙吊りにされているにも関わらず、嫌がって暴れるでもなければ、糊のように固まった表情をぴくりとも動かしやしないときたものだ。その不動ぶりたるや、黄色の瞳に生気を見出さなければ、危うく剥製かなにかと見間違えてしまいそうなほどだった。
「あ、ちょうどよかった。クロウさん、ちょっと、こっちこっち!」
「どうも、女将さん。どうしたんですか、この猫は?」
彼女に呼び止められて店に近づく。
黒猫は目だけを動かしてこちらを見つめている。吊るされた身体は変わらず動いていない。黄色の輝きだけが別の存在のように生きている。
「野良だよ、野良。今朝っからうちの軒先に居座っててねえ。変なやつだと思ってとっ捕まえてみたら、見ての通り、おとなしいのなんの。ほら、クロウさん、この子にタマがついてないか見てくんないかい?」
そう言いながら、女将がぐいぐいと猫をこちらに押し付けてくる。
「ええと……、ああ、ついてますね」
「へえ、オスだったかい。よし、決めた! アンタは今日からクロスケだよ!」
満面の笑みでそう宣言して、彼女はようやく黒猫を解放した。
大地に降り立った黒猫が、何事もなかったのようにぴょんと料理屋の長椅子に跳び乗り、体を丸めて座り込んだ。その背の毛並みを女将が撫でつけるが、本人(本猫?)はどこ吹く風で彫像のように静止している。
「クロスケ、って……。いくらなんでもそのまま過ぎるような」
「覚えやすいんだからこれでいいんだよ。凝った名前を考えるのも面倒だしね」
「飼うんですか?」
「ちゃんと鼠を取ってくれりゃあいいんだけどねえ。ま、厨房を荒らさないようならしばらくは置いてやるさ」
「な?」と女将が猫の背中を小突いたが、返ってきた反応は黒い尻尾のひと振りだけ。とんでもなく無愛想な猫である。しかし、当の女将はそんなことはまるで気にせず相好を崩していた。
どういうわけか、猫という生き物の自由気侭な生き様には、少なからず人間を魅了する魔力があるらしい。頬を緩めて今なお猫の毛を梳いている女将など、その魔力にあてられた典型だろう。
「っと、呼び止めて悪かったね。これから山のご隠居のところかい?」
「あ、はい。しばらく雪も降っていませんし、今のうちに様子を見に行こうかと」
「よし、じゃあ熱いお茶でも飲んでいってちょうだいな。雪が降ってないっていったって、今日も沁みる寒さだろ? 山に登る前に身体をあっためておかなくちゃ」
そう言うやいなや、女将はこちらの返事も待たずに厨房へと駆けていった。
大人しく好意に甘えることにして、長椅子に腰を落ち着ける。彼女の強引な世話焼きに、私を含めたイスルギの門下は大いに助けられていた。皆どこかしら剣に狂っているので、放っておくと衣食住の日常生活が雑になりがちなのだ。
「あなたは、イスルギ・クロウで間違いないか?」
突然、声が聞こえた。
高くもなく低くもない、男か女かも判然としない作り物めいた声だった。驚いて辺りを見回すが、周囲に人の姿はどこにもない。店の奥の厨房で女将と店主が働いている気配はあるが彼女らの声でもない。
「質問を繰り返す。あなたは、イスルギ・クロウで間違いないか?」
再び同じ声。今度は発生源を辿ることができた。
己の真横、長椅子のすぐ隣。低い位置から見上げる黄色の視線と目が合った。
「回答を求む」
「あ、はい。間違いない、です」
クロスケ。そう名付けられたばかりの猫が喋っている。
否、本当に喋っているのか? 長椅子に座る猫は口も開いてなければ喉も動かしていない。姿勢は置物のように固まったままだ。動きがあるのはこちらを見上げる瞳の輝きだけ。
しかし、謎めいた声は確かに彼から聞こえてきている。どうにも不思議だ。まるで喋る石と相対してるような気分。
「ミナミ捜査官から伝言がある」
「……ミナミ?」
「ミナミ・サナだ」
「ああ、サナさん」
家名を聞くのは初めてだ。
しかし、彼女の名前を聞いて合点がいった。つまり、クロスケも彼女と同じ時代からやって来たということに違いない。
未来ともなると、猫まで喋るのか。それとも、これも妖怪の一種なのか。
「それで、伝言というのは?」
「……」
「……あれ?」
猫から聞こえていた言葉が途切れた。
どうしたのだろう。首を傾げながら黒い毛に覆われた顔を覗き込む。こちらの顔の動きを黄色の瞳が追いかけてきた。意識を失ったりしたわけではないらしい。さっきよりも近くまで顔を寄せてじっと見つめ合うが、やはり次の言葉が出てくる気配はない。
「あの、どうしたんですか? 私の声、聞こえていますか?」
「……クロウさん、猫相手になにやってるんだい……」
「わっ」
背後から飛んできた声に思わずのけぞった。
いつの間にか厨房から出てきた女将が、ものすごい目つきでこちらを凝視していた。まるで河童か天狗でも見たかのよう。ほとんど妖怪、否、珍獣扱いの視線だった。
長椅子のクロスケは変わらず澄まし顔。女将が近づいてくるのに気づいてだんまりを決め込んだということか。ずいぶんと要領のいいことだ。
「あんた、疲れてるんじゃないかい? 寝不足ならうちに帰って寝たほうがいいよ」
「いや、別にそんなことは……」
白い湯気の昇る茶碗を渡された。手のひらに中身の茶の熱さが伝わる。
液体を口に含みゆっくりと嚥下した。ひりつく熱が喉から胸へと広がっていく。
女将の視線は奇異が八割、心配が二割。大真面目に猫と会話をしようとする変人だと思われたらしい。甚だ心外だが、実際問題、これから本当に猫と会話をしないといけないわけで。
「……女将さん、この猫、ちょっと借りていいですか?」
「はぁ?」
あからさまな呆れ声。心配の割合が目減りしたのがわかった。
「その、どうも知り合いの飼い猫のような気がして。一応、確かめておこうかと」
「ほんとにぃ? そりゃ確かに野良にしちゃあ毛艶がいいとは思ったけどさ……」
「確認が取れたらまた連れて戻りますから」
一息に言い切って、灼熱の番茶を飲み干した。
薪を放り込んだ釜みたいな身体を立ち上がらせて、丸まった黒猫を脇に抱える。長々と喋っていたらすぐにぼろが出てしまいそうだ。女将には悪いが、こういうときは問答無用で押し通るに限る。
「では」
「あ、ちょっと!」
そのまま振り返らずに駆け出した。
クロスケの話を聞くためにも、どこか落ち着ける場所に移動しなくては。
残念なことに長屋の自室は壁が薄すぎて内緒話にはとんと向いていない。いっそ町から離れて裏手の山道にまで出てしまった方がいいだろう。どうせタツミの庵に向かう予定だったのだ。クロスケの話を聞いたら、その足で師を訪えばいい。
脇に抱えたクロスケからはしっかりと体温が伝わってきている。
奇妙な猫だが、ひとまず生きていることは確からしい。
庵に繋がる山道は錆びついたような冷気に包まれていた。
人の気配はない。葉の落ちた高い木々が寂しく佇んでいる。半端に雪が溶けてまだらになった斜面が延々と続いているように見えた。
「……ここまで来れば大丈夫かな?」
「探知範囲内に人間の反応は存在しない」
「あ、やっと喋ってくれましたね」
「メッセージを再生する。件数は一件。録音主はミナミ・サナ捜査官」
クロスケが身体を揺すったので、腕から離して解放してやった。
軽やかに着地した黒猫が路傍の岩の上にするりと登る。ちょうどよく目線の高さが同じになった。黄色の瞳が、二、三度まばたきをする。
「『こんにちは、クロウさん。お元気ですか?』」
「サナさんの声……?」
驚きに目を瞠ってしまった。聞き間違えるはずもない、サナの声そのものだ。
彼女の声は黒猫の身体から響いてきている。声を真似ているのか。いや、それとも、かつてアガツマ屋のシマが語ったように、過去を切り抜いて再現しているのか。
「『以前に話のあった連絡手段の改善について目処が立ちました。このメッセージ……、伝言を持たせた黒猫、ヤクモを連絡員として常駐させます。ヤクモを介せばこちらにも連絡が届くので、この前のような行き違いは防げるはずです。目ぼしい情報があったらまた一報をお願いします』」
かちり、と最後に乾いた音が聞こえた。
それきり彼女の声は途絶えてしまった。少し名残惜しい。
「再生を終了する」
「ええと、ヤクモというのは?」
「私の識別名だ」
「クロスケじゃないんですね」
「他の個体から識別できるならそちらでも問題はない」
「うーん、やめておきましょうか。クロスケはそこそこ多そうだ」
クロスケ改めヤクモは岩の上で静止している。
常駐、ということは、このままこの時代に居座るつもりなのだろうか。
「可能であれば、イスルギ・クロウに随伴するよう指示されている」
「私にずっと着いてくる、ということですか?」
「猫であれば不審ではない」
「それはまぁ……、人間よりかは適任かもしれませんが」
いや、そもそもヤクモは本当に猫なのだろうか。
確かに見た目は黒猫だが、中身は明らかに違う。言葉を解する時点でかなりおかしい。かといって人間っぽいのかと問われれば首を振らざるを得ない。受け答えに、なんというか……、血が通っていないような印象がある。
「ヤクモさんは妖怪なのですか?」
「妖怪という単語が、イスルギ・クロウの遭遇した動物兵器を指しているのであれば、違う」
「でも、あなたも普通の動物ではない」
「開発目的も供用技術も異なっている。製造年で比較した場合、私が後発だ」
「よくわかりません。具体的になにが違っているのです?」
滑らかに続いていたヤクモの言葉がほんの僅かに途切れた。言葉を探しているのか、悩みの表情を浮かべているように錯覚する。
……そう、錯覚だ。私の目と記憶が確かなら、ヤクモは今も表情をまるで変えていない。人間に猫の表情を正確に解釈することはできないから、勝手な思い込みで彼が悩んでいるように見えただけだ。
もしかしたら、あの完成された無表情にはそういう機能があるのかもしれない。見た者の思い描いた感情が印象として勝手に浮かび上がるような、鏡面みたいな機能が。
「開発目的としてはそれぞれ軍事作戦と犯罪捜査とで用途を異としている。供用技術の主要分野でいえば動物兵器はバイオニクスで、私はニューロロボティクスだ。しかし、これらの技術体系の詳細な差異をイスルギ・クロウの知識レベルに合わせて説明するのは困難と言わざるを得ない」
「……今の私が一朝一夕で理解できることではない、ということはわかりました。では、ひとつだけ確認させてください」
腰に提げた刀を鞘に収めたまま相手に示す。
私にとって重要なのは、やはりこれなのだ。
「ヤクモさんは、刀で斬れば殺せる手合ですか?」
「例として胴体部を分断された場合であれば、当該躯体の機能は停止する。その状態を『死んだ』と定義するなら、その通りだ」
「なんだか回りくどい言い方ですね」
「イスルギ・クロウが私を停止させる目的が推測できない。理由の開示を求める」
「ただの確認ですよ。あと、いちいち名前の頭にイスルギをつけるのはやめませんか? 流派としてはそうですが、家名というわけでもありませんし……」
格式張っていて、なんだか居心地が悪いのだ。
岩の上の黒猫が頷いた。
「了解した、クロウ。私からも意見の提示がある」
「なんでしょうか?」
「私に話しかける際に敬語を使うのは非推奨だ」
「非推奨? これまた奥歯に物が挟まったような」
「クロウの言動を拘束する意図はない。しかし、一般に猫のような愛玩動物に対して敬語で話しかけるのは少数派だ。統計上、平易な話し言葉か幼児語を用いるケースが多数を占めている。我々の会話が意図せず目撃されるケースを考慮すると、違和感を持たれる要因は予め排除しておくべきと判断できる」
立て板に水を流すように黒猫が喋る。
私は正直ちょっと呆れた。
「猫との喋り方って……、未来ではそんなことまで調べて数に纏めているのですか? どうやって調べているのか方法はわかりませんが、結構な手間が必要なのでは」
「集積した会話ログからフィルタしたものだ。厳密ではないが、妥当性はある」
「そこまで苦労はしていない、ということ?」
「労力という点では、ほとんどが自動計算で終わる話だ」
「自動。……うーん、まぁ、わかりました。いや、わかったよ」
肩を竦めて、ヤクモに歩み寄った。
彼の言う事すべてを追求していたら、きっと日が暮れてしまう。この時代にしばらく留まるというのだから、少しずつ彼の言動にも理解を深めていけばいい。今日のところはそう納得しておくことにした。
「これからよろしく、ヤクモ」
「よろしく、クロウ」
黒猫の右の前脚と握手する。
なんだか芸をさせているみたいで、少しおかしかった。
「……ところで、なんで料理屋で話しかけてきたの? 私がひとりになったときを見計らってくれれば、女将さんにあんな目で見られることもなかったのに」
「周囲に他の人間が存在しない状況でクロウに話しかけた場合、会話を挟まずにこちらが殺傷される危険があると判断されたためだ」
「そこまで喧嘩っ早いつもりはないのだけど。それ、サナさんが言い出したの?」
「いや、クロウの行動をモニタした捜査チームの総意だ」
「……。……え?」
「確度はそれほどでもないが、危険を回避するために私も同意した」
「え?」
ヤクモの話しぶりは、やっぱりそっけない。
……未来人が私をどういう人間と認識しているのか、とても不安であった。




