01
春。
停滞の冬が終わりを告げて、新たな季節が巡りくる。
寒風が和らげば蕾はほころび、銀氷が露と溶ければ草木が潤う。
山野には目覚めた獣たちが闊歩し、人里もいよいよ賑わいを増す。
朗らかな陽気に誘われて、生きとし生けるものが新たな活動を始める季節。
惰眠の澱を吹き飛ばすように、あるいは怠惰の悔を取り戻すように、誰も彼もが勢いよく加速を始める季節だ。
しかし、何事にも限度というものがある。
冠雪の残る深山から押し寄せた雪解け水は、濁流となって下流に押し寄せた。
土と砂の混じった濁り水は留まることを知らず、やがて行き掛けの駄賃とばかりに木製の古びた橋をいとも簡単に吹き飛ばした。
渡る途中の者がいなかったのは幸運としか言いようがない。十間ほどの古びた橋は完全に濁流に呑まれて消え去り、砕けた橋脚の残骸だけがぽつんと無惨な姿を晒している。
斯くして、山間の小さな村はたったひとつの連絡路を失い、ものの見事に外部から孤立してしまったわけである。
私は、氾濫寸前の川岸に立って壊れた橋を見つめていた。
ほんの数刻前にその橋を渡ってきたばかりである。今立っているのは、川を挟んで山側の村の岸辺だ。村内を軽く散策をしていたところ、湿り気を帯びた地鳴りが轟き、慌てて戻ってみればこの有様である。
要するに、帰り道を失ったということ。
上流と下流に視線を向けてみたが、川沿いには深い藪が続いていて遠くまで見通すこともできない。他の橋がどこかにあるのかもしれないが、少なくともこの場所からそれらしきものを見つけることはできなかった。そもそも、これほどの水の勢いでは他に橋があっても流されてしまっているのかも。
「なんだか、嫌な空気だな……」
「大気組成に有意な変化は認められない。クロウの勘違いではないか?」
ふとした呟きに、すぐ隣から無味乾燥の反応が返ってきた。
ため息をこらえて川面から視線を外し、傍らの同行者に意識を向ける。
目が合った。すらりとした凛々しい面貌に、理知的な黄色の瞳が浮かんでいる。類まれなる美形である。かっこいいと頬を染める者もいれば、かわいいと頬を緩める者もいるだろう。
事実、姿を現してからたったの一ヶ月で、彼はすっかり町の人気者になっていた。今回の旅に彼を連れ出すにしても、ずいぶんと町の衆から文句を言われたものである。
「いや、本当に空気がどうこうしたとかではなく、雰囲気の話」
「認識を修正した。概念は理解できる。しかし、根拠がわからない」
「うーん、退路を断たれたから、かな。落ち着かない感じだ」
いつものことだが、会話の間も彼は表情をぴくりとも動かさなかった。
無表情のまま壊れた橋を凝視していた彼が、微かに髭を揺らして振り返る。
「破壊工作の痕跡は見当たらない。故意ではなく、自然現象の可能性が高い」
「まぁ、偶然なら偶然で、物事が悪い方向に転がりそうな予感がするし……」
「それはバイアスだ。統計的な裏付けは存在しない」
今度こそため息が漏れた。
悪気はないのだろうが、彼には妙に理屈っぽいところがあるのだ。曖昧な判断を極力排したがる人格で、なんというか、思考の肌触りが違うという印象がある。
しかし、それも当然か……。
彼の小さな背中を見ていると、改めてそう思わざるをえない。妙なところで彼と自分との違いを納得しつつ、私は腕を伸ばして、川岸で危なっかしく首を伸ばしていた彼を抱き上げた。
黄色い瞳の黒猫は、やっぱり無表情のまま、腕から逃れて肩に駆け上がった。
「さて、どうしたものかな、ヤクモ」
「プランの提示は可能だが、私に決定権は存在しない」
「サナさんとは合流できるかな?」
「そのためには川を渡る迂回路を捜索する必要がある」
もう一度、村境の川を覗き込んでみる。
茶色く濁った水面はくちなわのように荒れ狂い、轟々と低い声で叫んでいる。一寸たりとも見通すことのできない水中では、鋭利な土砂と流木とが牙を研いでいることだろう。これを泳いで渡ろうなどという考えは、命を捨てるのと同義といっていい。
「明日か明後日にはサナさんもこの村に向かい始める、っていう話だよね」
「彼女が抱えているタスクの進捗次第だ」
「たすく」
「仕事だ。彼女は今、同じ時代の、別の場所で任務に当たっている」
となると、合流までに河川の状況が変わるだけの時間は十分にある。それまでに水嵩が収まれば、飛び石を使って渡ってこれるかもしれない。今すぐに渡河地点を探し始めるのは焦り過ぎか。そもそも、私たちの行動に関わらず、サナならば自分で渡河の方法を見つけ出すことだろう。
いずれにせよ、今日一日くらいは私とヤクモだけで行動する必要がある。現在の時刻はまだ午を少し過ぎたくらい。このまま無為に時間を浪費するのはもったいない。
「仕方ない。今のうちに村で情報を集めておこう」
ヤクモを肩に載せたまま、川岸を離れて村へと続く道に戻っていく。地面の踏み固められた往来のあたりまで来ると、黒猫が肩から飛び降りて並んで歩き出した。
歩幅は違うが、存外に速度は揃うものだ。
この山村を訪れるのは初めてのことで、土地勘もなければ知り合いもいない。村人からまともに話を聞き出せるかは未知数だ。村の習俗が外部の人間に対して閉鎖的であれば、けんもほろろに、という可能性もある。
それこそ、『妖怪』の話を聞ければ儲け物なのだが。
ふと、空を見上げた。
灰色がかった曇り空は、麓に向かうほどに薄く、村の奥に向かうほど雲が黒く折り重なっている。空気は湿り気を帯びていて、吹き抜ける風もどこか生暖かい。これを不吉と表現したら、またヤクモに何か言われそうだ。
「雨にならなければいいけど」
「気象衛星とはリンクできない。天気予報は実行不能だ」
「予測してほしいわけじゃないよ」
足を止めたヤクモがこちらを見上げてくる。
不思議そうな表情に見えたのは、きっと私の思い込みによるものだ。足元の黒猫の顔をよく見れば、いつもの表情とまるで変わっていないことがわかる。
ヤクモの表情に感情が浮かび上がっているところは見たことがない。いや、彼に感情というもの自体が存在しているのか、それさえもまだよくわかっていなかった。
しかし、それでも、彼が私のもとに現れてからおおよそ二ヶ月。
この融通が利かない黒猫のことを、私は嫌いになれないでいた。




