13
翌日には屋敷を発つことになった。
藩の役人は無事到着し、盗賊の引き渡しもつつがなく完了していた。
罪人がこれからどう扱われるのか、役人から説明はなかったし、こちらからも敢えては聞かなかった。そも、捕らえた相手の行く末にそれほど興味があるわけでもない。罪を裁くのは役人の縄張りだ。いたずらに踏み入って和を乱すこともないだろう。
彼らが立ち去り、がらんとした空気の流れる屋敷で、私も出立を切り出した。
シマは名残惜しそうな態度さえ見せず、「では、また」とだけ言って微笑んだ。
秋空のようにからりと乾いた挨拶に爽やかさを覚え、私もまた「ええ、また」とだけ返して、彼女に背を向けた。
爺やに見送られ、玄関を出て、正門をくぐる。
昨日に引き続き、空は快晴。青く、抜けるように高い。
振り返れば、裏手の山は頂から裾野まで真っ白だった。
街道も積雪で白染め。先に出た役人たちの足跡がぽつぽつと続いている。
踏み出せば、しゃきしゃきと快い感触。雪の表面が凍りついているのだ。
空気の冷たさを意識する。吐いた息が白く昇り、天に届くことなく透けていく。
消えたのか、それとも見えないだけか。
天女の実在くらい、あやふやだ。
……なんてことを考えていられたのも最初だけ。
一刻もしないうちに雪道の億劫さが私の思考のほとんどを埋め尽くしてしまった。水を吸った履物は重く、雪の下に隠れた泥濘はひたすらに鬱陶しい。それでいて、歩き通しの身体は熱を帯び、額からはじんわりと汗が噴き出している。
苦しくはない。けれども、気分は翳る。
どれほど景色が美しくても疲労は癒えず、どれほど風が綺麗でも腹は膨れない。
そのくらいには、私も人間だった。
太陽が真上に昇るころ、街道沿いの茶屋が目に入った。
ちょうど腹も減ってきたところだ。これ幸いと暖簾をくぐった。
広い間口の店内は冬の陽射しに明るく照らされている。
客の入りは三割ほど。やや閑散としているが、外の雪道を考えればむしろ繁盛している部類なのかもしれない。年若の娘が給仕をしていて、栗鼠のように客席と厨房とを行き来している。
団子を注文し、長椅子に腰掛けて一息ついた。
指がかじかんでいた。足の先から這い上がる冷たさが意識される。袴の裾は溶けた雪に汚れてしとどになっていた。履物の底がぺたりと地面に張り付く感触が煩わしい。
ため息が漏れそうになるのを自制する。
気怠さを感じて目を閉じた。真っ暗になった世界で、泡のように浮かび上がってくる音に耳を傾ける。
街道を吹き抜けるささやかな風の音。給仕の娘がぱたぱたと早足で歩く音。疲れた旅人たちの囁き。厨房では薪が弾ける音と鍋が沸騰する音とが唱和している。
浮かんで、弾けて、消えて、また浮かんで。
こんなにも音が満ちているのに、静かだ、と感じるのは何故だろう。
「ここ、相席いいかな?」
言葉が頭の上から落ちてきた。
瞼を開く。目の前にサナの姿があった。
天女ではなく、町娘の旅姿。夢か現か、ほんの一瞬迷ってしまった。
いつからいたのか。足音には気づかなかったが。
「二日ぶりですね」
「私は半日ぶりよ」
黒い髪を軽く掻き上げて、サナは返事も待たずに長椅子へと腰掛けた。
私の左隣だ。僅かな所作から彼女がこちらの腰の物を意識していると悟る。無論、咎めるほどではない。そのくらいの緊張感はむしろ好ましいくらいだ。
真横に並んだ彼女を改めて観察する。着物は地味な色合いだが、相変わらず生地や仕立ては上等なものと見えた。頭のてっぺんから足の先まで、肌も着物も濡れるどころか湿ってすらいない。ぬかるんだ雪道を歩いてきたのであればこうはいかないはずだ。
旅姿を装うには詰めが甘い。抜けているのか、わざとなのか。
こちらの視線に気づいたのか、サナはこてんと小首を傾げた。
「どうかした?」
「天の国には雪も雨も無いのかな、と」
「雲の上ならね」彼女の人差し指が天を指す。「でも、独立した国では無いかな。居住用のプラットフォームなら確かにいくつかあるんだけど、運営基盤は地上の国家に握られてるわけだし」
「え、地上の国が空を支配してるのですか?」
「そもそもの成り立ちからして当然の帰結、って感じだよね」
思いもよらない話だった。
支配? 天と地の間で戦争でも起きたのだろうか。
それで、地上の国が天の国に勝ったとでも?
……いや、違う。
彼女の語り口を噛み砕いて理解に落とし込む。
成り立ちからして当然、とまで彼女は言ったのだ。それはつまり、彼女の語る天の国というのは、雲の上に元からあったものではない、ということ。
地上の人間が、空の上に国を作ったのだ。
否、彼女の言葉を借りるなら国ではなくぷらっとふおーむか。居住用というくらいだから、人の住める環境を指しているものと思われるが……。
凄まじい。そうとしか言えない。
雲の上に人の暮らせる世界を作るだなんて、想像したこともなかった。
いったいどれほどの技術と資源、そして時間を注ぎ込めば、そんな夢物語を実現できるのだろうか。
「では、天女も実在はしないのですか?」
滾るような鼓動を隠しながら、なんでもないように私は問う。
「出生地って意味なら空産まれはいるかな。モチロン、生物学的にはただの人間」
「雲の上で生活して……、その、悟りを得たりはしないのでしょうか?」
「やだ、なにそれ。なんのイメージ?」
サナが愉快そうにころころと笑った。
釣られて私も微笑む。上手く笑えただろうか。唇が強張ってなければいいのだが。
「天の住人というと、どうしても仙人やら道士やらを連想してしまうので」
「あー、クロウさんの思い浮かべてるのとはちょっと違うと思うけど……、うーん、世捨て人とか、高高度の実験環境にのめり込んでる科学者とか、新興宗教系とか、ぽい人は多いかも」
彼女が腕を組んで唸る。どことなくおどけた仕草だった。
給仕の娘が団子の皿を持ってやって来た。いつの間にか来店していたサナを見て首を傾げつつ、持ってきた皿を私の長椅子に置いてくれた。
「そちらのお客さん、ご注文は?」と娘が聞けば、「じゃあ私にもお団子を」とサナが返す。注文を確保した娘はにっこりと外向けに笑顔を作り、ぱたぱたと厨房に戻っていった。
皿の上には団子が二本。その片方をサナに手渡す。
「サナさんもそこに住んでいるのですか?」
「住んではいないけど、行ったことはあるわね」
二人揃って、団子をぱくり。
特別美味しいわけでもなく、まぁこんなものか、ともちもちの食感を堪能する。
「興味深いですね。どんな感じでしたか?」
「どんなもなにもずっとカンヅメ。生身の人間は建物の外に出られないから、景色を見るにも全部窓越し。室内は気圧も調整されてて地上と同じ感覚で過ごせたけど……、そこまで普通に過ごせちゃうと、逆にあんな不便な空間にわざわざ行く意味もないんじゃないの、なんて思っちゃってさ」
彼女の白くほっそりとした喉が、団子を呑んでごくりと動いた。
「そんなだから、やっぱり私には合わなかったなぁ」
「でも、今回は天女に扮してましたよね」
「う……、それは、まぁ」
サナの顔がすっぱく歪んだ。
もちろん、団子の中に梅干しが入っていたわけではない。
「一応、弁明させてもらうとね」
「はい」
「発案は私じゃないの。主任……、えっと上司の命令というか」
「なるほど」
「最初は断ったのよ。ああいうの、私には似合わないってわかってたから」
「そうですか? 似合ってましたよ」
「いや、オカルト系不思議ちゃんとか、私のキャラじゃないっていうか……」
「近寄りがたい雰囲気でしたが、綺麗でしたから」
「お世辞は結構よ」
別にお世辞ではないのだが。
ぷい、とそっぽを向いた彼女の頬はうっすらと朱に染まっていた。それが風の冷たさだけによるものではないと、そのくらいはわかっている。
装いを変えたからか、今日の彼女はことに若々しく見える。天女の如き美しさは無いが、猫のような可愛らしさがあった。
こちらのほうが好みだ、と口に出したら、赤い頬がもっと染まるだろうか?
「大体、そもそもの原因はあのハネトっていう学者さんにあるわけで……」
「ハネト殿に? それはまたどうして」
意外な名前が出てきた。繋がりが見えず、思わず首をひねる。
視線を正面に戻したサナが「そうね」と唇に指を当て、一拍置いてから口を開いた。
「未来で妖怪を捜すとなると、どうしても当時の文献を掘り返すのが基本になるの。つまり、それっぽい妖怪談の記録に目星をつけて、数を絞り込んでから調査に向かうわけ」
「ああ……、そういえば、ハネト殿も雷獣について覚え書きを認めていましたね」
「そう、それ。その文面にさ、迷子の雷獣を天女が探しに来た、なんて一節があって。それで念のため、描写と整合性を保てるように天女のガワを被っておこう、って主任が言い出しちゃったのよね」
そう言ってサナはがっくりと肩を落としてため息を吐く。大袈裟な仕草だが、芝居っ気は無い。こういうところが、なんとなく猫っぽいのだ。
しかし、事情は分かったが、彼女の言い分は……。
「ゴンザ殿のときと同じですね。因果が循環している」
「天女が先か、学者が先か、ね。前も言ったけど、そこは深追いできないのよ」
「因果がほどけて、世界が壊れてしまうかもしれない」
「その通り」
「言葉だけでは、何が起こるのかいまいち想像ができないのですが……」
「じゃあ、とっておきの例を挙げてあげる」
サナは口を斜めにして、いたずらっぽく微笑んだ。
たっぷりと間を空けてから、重々しく彼女は言い放った。
「過去が歪んで、私とクロウさんが出会わなかったことになるかもしれない」
「……なるほど、それは一大事ですね」
万感。氷が溶けるように吐息が溢れた。
本当に、とっておきだ。
きっと実際はもっと大変な事態が起こるのだろう。けれども、このくらい身近で想像しやすい例を挙げられたほうが危機感を煽られるものだ。
はにかむ彼女が照れたように頬を掻いている。
私は衝動的に彼女に触れたくなった。彼女が本当にこの瞬間に存在しているのか、確かな証拠が欲しくなったのだ。
無意識のままに肩が動き、手のひらが浮かび、指が伸びる。
そこで、漸くはっとした。
惚けるにも程がある。その指でいったい何をしようというのだ。
虚空をさまよう指先を、彼女が不思議そうに見つめていた。
なんたる不覚か。この不自然な動作を誤魔化せる方策があるか?
……。
ええい、ままよ!
「わっ」
指先がサナの髪に触れた。
軽く、滑らかな手触りを覚える。
顔の横を梳いて、黒く艶やかな髪を持ち上げる。
小さく柔らかそうな左耳が見えた。
「誰かが聞いていますか?」
そんなことを聞いてしまったのは、以前の彼女の仕草を思い出したからだ。
左耳に指を当てて遠くを見つめている姿。そのときの彼女は、ここではないどこか別の場所に意識を飛ばしているようでもあった。
だから、彼女の髪に触れたとき、耳になにか秘密があるのではとなんとなく想像したのだ。本当にただそれだけのこと。
「……、うん。聞いてるね」
「あ、はい」
疑問はあっさり肯定された。
軽く睨まれて、負け犬みたいにすごすごと指を引っ込める。
いや、別に、何に負けたわけでもないが。
サナの表情は……、なんとも形容し難いものだった。笑っているような、怒っているような、残念そうな、冷めてるような。頬の肉がぴくぴくと動いているのが辛うじて見て取れる。
「はーい、お団子おまちどうさまー!」
ぬるま湯みたいな空気になったところで、ちょうどよくサナの頼んだ団子が給仕された。団子屋の娘がにっこりと向日葵のような笑顔を作り、「ごゆっくりー!」と去っていった。
「……」
「……」
とりあえず、二本の団子を二人で分け合って消化する。
味は、さっきよりもわからなくなっていた。ただひたすらにもちもちとした食感ばかりが口に残る。
もちもち。もちもち。無心にもちもち。
「ええと、なんの話だったっけ」
団子を飲み込んだサナがわざとらしく言う。
気になる左耳は、もう髪に隠れていた。
「ハネト殿の覚え書きとか、天女がどうとか……」
「そうそう。だから、シマちゃんがあの学者さんを呼び寄せてるって聞いたときは渡りに船だったわけ。イレギュラーだったのは盗賊騒ぎの方。全然予想してなかったから、クロウさんがいてくれてホント助かったのよね」
「あれ、そうなんですか?」
「そうなんです」
ふむ、と頬に指を当て、サナが難しい表情を作る。
「シマちゃんも学者さんも事件について特に書き残さなかったみたいなのよね。あそこの藩の裁判記録とか調書を調べればヒットするのかもだけど、どうもどこかで公的な記録が逸失してるみたいなの。だからもう、あればっかりは不意打ちもいいところだったわ」
「へえ……。未来の眼にも意外と隙があるみたいですね」
「意外も何も隙だらけの穴だらけよ。だからこそ私たちの組織も、色々なリスクに目を瞑った上でクロウさんに協力を持ちかけてるんだから」
食べきった団子の串先をひょいと向けて、サナはにやりと唇を弧にした。
りすく、とは彼女が以前にも口にした言葉だったはず。確か……、『危険』という意味だったか。
「ひょっとして、私が拾ってくる情報、私の想像より期待されてたりします?」
「そりゃもう大いに、ね」
串を皿に戻したサナが軽やかに長椅子から立ち上がる。
ぐっと身体を伸ばして「さてさて」と呟いた彼女は、長椅子に座ったままの私を肩越しに見下ろした。
「クロウさん、私宛に伝言を残しておいてくれたでしょ」
「え、ああ、料理屋の女将さんに頼んだ言伝ですね。ちゃんと伝わりましたか?」
「ごめん、確認したのはついさっき。ばっちりすれ違っちゃいました」
サナは片手の掌を立てて頭を下げる。仏僧のような仕草だが、もちろんそんなつもりはないだろう。彼女の時代だって、弥勒菩薩が現れるにはきっと早すぎる。
「連絡手段の改善はこっちでも検討しておくから。期待して待ってて」
「わかりました。では、私も諸国の妖怪談について噂話を集めておきましょう」
「うん、ありがとう。こっちも期待しておくわ」
彼女の腕で暖簾が上がる。
天上の太陽と地上の雪とがぎらぎらと銀色の輝いている。眩しくて、思わず目を細める。逆光の中の彼女が掌を傘にして空を見た。
どこかで枝から雪の落ちる音。
連なって、渡りの鳥が鳴いた高い声。
見つめる空には、何がある?
天の国は、きっとまだ無いだろう。
「雲の上に行くとね」
細めた視界で彼女の唇が動くのを見る。
彼女の声は遠くて近い。
「空の色が濃くなるんだ。あれだけは、うん、見る価値があったな」
空の色。
見上げると、頭上は青く、しかし、薄い空が広がっていた。
灰色と青とを混ぜたような曖昧な空。曖昧だから、遠くて、掴みどころのないように見えている。
色濃い空とは、どんなものだろう。天に近づけば、それを知れるのだろうか。
気がつけば、サナの姿はもう消えていた。
長椅子の団子の皿の隣には、彼女の分の代金が残されている。
貸し借りなしで、と言われている気がした。
長椅子に貼り付いたかのように腰が持ち上がらなかった。
茶屋の軒先からは、雪化粧したずっと遠くの山が見えている。
ぼんやり眺めていると、どうしてか彼女の髪の感触が想起された。
「そういえば、雷獣の正体を聞きそびれたな」
太陽に向けて伸ばした指先は、ものの見事に空を切った。




