12
それは一月ほど前のことだったらしい。
気の滅入るような秋雨が過ぎ去ったちょうど次の日である。
屋敷の裏手に聳える山々には霧が煙っていたが、麓の平地はむしろ晴れ晴れとしていて視界も良く、潤いを含んだ冷たい空気がことさらに気持ちよく感じられる朝だった。
その日のシマは普段よりだいぶ体調が良かった。
珍しいことに寝起きから快調で、身体も軽く、思考もはっきりとしていた。爺やに呼ばれるまで布団に臥しがちな彼女が、なんと自分から寝起きの身支度を済ませたほどである。朝からこれほど調子が良いのは、年に数回あるかどうかだ。
涼やかな空気を胸に取り込んだ彼女は、ふと屋敷の周囲を散歩でもしようかと思い立った。門を出て、屋敷の回りをぐるりと一周。それ自体は珍しい行動でもないが、それは昼日中に限ってのこと。早朝のこの時間に出歩くのは滅多にないことなのだという。
朝餉の支度をしていた家人に軽く挨拶をして、彼女は玄関から表へ出た。
この頃はまだ盗賊騒ぎは起きていなかったので、当然、門番が待ち構えていたりはしない。威圧的な門扉をぐっと押し開けて無愛想な塀の外へと抜け出すと、彼女は思い切り身体を伸ばして肺腑の空気を入れ替えた。
朝日の心地よさを感じながら、シマはゆったりとした足取りで屋敷の塀に沿って歩き始めた。明確な目的はなく、視線はぼんやりと薄朧の情景をさまよっている。
左手に竹林が見えた。竹の青さがいつも以上に映えて見える。柔らかい風が吹き抜けて、さらさらと葉の音が囁いていた。
なんとなく、足が止まった。
それと同時に、藪の中から金色の毛玉が転がり出てきた。
目が合う。
期せずして、彼女とそれはぴたりと固まってしまった。
シマはその毛玉がなんなのかわからなかった。
動物だということはわかる。しかし、正確な呼び名がわからない。鼠に似ているようにも見えるが、どこか違うとも思える。威嚇するでもなくぼんやりとこちらを見上げているその顔貌は、間抜けなようでありながらなんとなく愛嬌があった。
山の獣ならいずれ逃げてしまうのでは?
彼女はふと思いついたが、その予測は外れることになる。
硬直していた毛玉が不意に、へくち、とくしゃみをしたのだ。
「あらあらまあまあ」とシマは相好を崩して毛玉に歩み寄った。
これで逃げ去るならそれもそれでいいかな、と思ったわけだが、意外にも毛玉はその場に留まり、それどころかシマが伸ばした手のひらに頭を擦りつけてきたのだった。
ぺたりと触れた金毛は、昨日の雨に冷たく濡れていた。
不思議と人馴れしたその毛玉を衝動的に抱きかかえて、彼女は屋敷に取って返した。部屋に戻り、手拭いで念入りに水気を拭き取る間も、金色の毛玉はおとなしくシマに身を委ねていた。
濡れ鼠を脱却してしっとりとした毛並みを取り戻したそれは、彼女が手拭いを置いた後もシマの腕の中に収まり続けていた。あろうことか、満足そうに両の目を細めながら。
野生の動物ではあるまい。シマもそれには気づいていた。
誰かの飼い鼠だろうか。けれども、いったい誰が飼い主で、いったいどうしてあんな辺鄙な竹林に置き去りにされていたのだろう? そもそも、鼠という動物は飼いならせるものだったろうか。
無意識に毛玉の背中を撫でながら、彼女はぼんやりと思索に沈んでいた。指の合間をさらさらとすり抜けていく感触には、何とも言えない魅力があった。抗うことは、とても難しい。
彼女の部屋の襖を爺やが動かしたのは、ちょうどそのときだった。
折り目正しき老使用人は、敬愛する女主人に朝餉の準備が整ったと伝えるべく部屋に踏み込み、「あっ」と皺と一体化していた目を見開いた。
彼はそれを単純に鼠と認識した。
老人の上げた声にシマの腕に抱かれた金色の毛玉がびくりと震え、わたわたと四肢を動かしだす。そのくすぐったさにシマが「きゃ」と吐息を漏らした瞬間、爺やは咄嗟に見知らぬ獣へと腕を伸ばしていた。
つまみ上げて、お嬢様から引っ剥がしてやる。老いた指にはそんな意志が込められていた。
ぐるりと身体を捻った謎めいた獣は、自身へ迫る指先を視界に収め、ぱちくりと瞬きを繰り返す。そのまま皺だらけの指が彼(あるいは彼女)の毛先に触れようとした、まさにそのときだった。
「ばちり、とね」
現実のシマがくすくすと笑いを零した。
曰く、爺やの指を弾くべく、獣が雷光を放ったというのだ。
「もうね、私も爺やもびっくり仰天。あれを見て、あの子が普通の動物じゃないと今更ながらに気づいたわけですの」
走り抜けた一瞬の痛みに、爺やも思わず指を引っ込めた。
誰も彼もが、しばしの沈黙。
その後、正気に戻った爺やがにわかに色めき立った。シマに詰め寄って毛玉の出どころを聞き出した彼は、すぐにそれを山に捨ててきてください、と冷や汗をかきながら懇願した。当然の判断である。
「もちろん、すぐに却下しましたわ」
「でしょうね」
こんな面白そうなものをどうして自分から手放せようか。……もとい、正体不明の動物を無策で放り出すの危険だろう、とシマは爺やを説得する。もとの竹林に置いておいたとして、あの雷光が山火事の原因にでもなったらそれこそ一大事だ。
爺やは渋った。が、シマは押し通した。雇い主の強権である。
ああだこうだと話し合ううちに、どちらからともなく「これは雷獣ではないか」と言うようになっていた。それほどまでに、一瞬だけ垣間見た白い稲光が彼女たちに鮮烈な印象を残していたのだ。
「せめて学者に調べてもらいましょう」と意見を出したのは爺やの方だった。
そのくらいならシマにも否はない。アガツマ屋の本店に遣いを出して、父親の伝手で珍しい動物に詳しい学者を呼んでもらうよう手筈を整える。
ハネトが屋敷に呼ばれたのは、そういう経緯によるものだったらしい。
「それからしばらくは手探りで雷獣の世話をすることになりましたわ。といっても、あの子はおとなしい性格でしたし、食事だって出されたものは大抵好き嫌いせず口にしてくれたので、大した苦労があったわけでもありませんが」
その間もシマは家人に竹林をつぶさに探索させたりと、できる限りの調査を続けていた。しかし、どれほど徹底的に調べてみても、竹林や周囲の街道、付近の小川にも異常と呼べるようなものは見当たらなかった。雷獣がいつ、どこから現れたのか、手掛かり一つ見つけることができない。
本当に雷獣ならば天から落ちてきたのでは、とも考えたが、それにしたって落雷の跡さえないのはどういうことだろう。あまりの痕跡の無さに、この獣はどこからともなく忽然と現れたのだ、としか言いようがなかった。
「そういうところはあの方も同じでしたわ」
語り手は懐かしむように目を細める。
「天の上のお国柄なのかしら?」
そんなはずないだろう。と、言いたいところだが、迂闊に口を挟むわけにもいかない。
我らが天女様が屋敷にご降臨なされたのは、シマが雷獣を保護してから数日後のこと。所用で部屋を留守にした彼女がしばらく経ってから自室に戻ってくると、さも当然のようにサナは部屋の中に待ち構えていたらしい。
堂々たる不法侵入である。
「日が沈みかけた逢魔ヶ時でしたわ。襖を開けた先は朱塗りの影絵。ぬらりと佇むは影法師。面貌は逆光に黒く染められ、言葉もなく、爛々たる瞳がじぃっと見つめてくるばかり、と」
「怪談じゃないですか」
「怪談でしたわねぇ……」
なにをやっているんだ未来人。
案の定、突然の怪異にシマはひゅっと喉を鳴らして腰を抜かしそうになる。
それに気づくやいなや、謎の女怪は一足で彼女のもとへと駆けより、悲鳴を漏らそうとする口を手のひらで塞いでか弱き乙女を床に押し倒した。部屋の襖は素早く閉め切られ、赤い部屋は鳥籠の如く周囲から隔絶されることとなる。
「ほとんど押し込みじゃないですか」
「さすがに生きた心地がしませんでしたわねぇ……」
しみじみと述懐するシマの目も遠い。
シマにのしかかった人影は赤い唇に白い人差し指を当て「静かに」と囁いた。
押さえつけられたシマは混乱しつつも必死に頷く。すると、意外なほどにあっさりと侵入者は彼女を解放した。
息を整えた彼女は、そこでようやく人影の正体を観察することができた。
女である。それも、少女と呼べるほどに小柄で童顔。
加えて身につけている装束も見慣れないものだった。芳しい桃色の振り袖に、見たこともない透明な羽衣。黒髪に差した美しい銀の簪は夕日に赤く輝いている。
高貴な身分と直感した。
その一方で、状況が著しく不釣り合いだと、シマの冷静な部分が告げていた。
麗しの少女はこほんとひとつ咳払い。
優美な一礼を披露して、シマににこりと微笑んだ。
「私はサナ。地上に迷い出た雷獣を庇護するべく、天の国より参りました」と。
「唐突が過ぎる。信じたんですか、それ?」
「まさか。そこまで世間知らずではありませんわ」
思わず口を挟むと、シマは心外だとばかりに頬を膨らませた。
しかし、それも数秒のこと。彼女はばつの悪い表情を浮かべて小さく呟いた。
「その……、もしかしたら、というか、可能性は半々くらいかなぁ、と」
「あ、はい」
それはそれは。なかなかに夢見がちなことで。
結局、二人は微妙な距離感を保ったまま、互いに正面から座り合うことになった。
部屋の隅で眠りこけていた雷獣が、ぱちりと目を覚まし、ちょこちょこと二人のちょうど真ん中まで出てきて丸くなる。金色の毛玉のつぶらな瞳が、サナとシマとを交互に見つめていた。
ふっと笑みを見せたサナが「信じていませんね?」と問う。
シマが戸惑いがちに頷くと、天女は「ならば証拠をお見せしましょう」と芝居がかった口調で宣った。淡桃の着物の懐から取り出したるは、手のひらに乗るほどの小さな板切れ。金属でも木材でもない不思議な素材でできたそれを、サナは指先で数度弄んでからシマに差し出した。
板は軽く、独特の肌触りがあった。つるりとした表面が複雑な光を放っている。
その光の中身をひと目見て。
シマは、すべてを信じると決めたのだ。
「それから後はもう知っての通りです」とシマは語る。
天女が雷獣を連れ帰りたいと言えば、彼女は否もなく頷いた。
ただ、実家を通して既に学者を呼んでしまっている。手筈を整えてくれた父の面子を潰すのはよろしくない。だから、せめて学者が屋敷に来るまで待ってくれないかと頼みこんだ。
天女は鷹揚にもそれを許した。
そこから更に、盗賊がアガツマ屋を狙っている気配がするだの、それに備えてイスルギの剣客がやってくるだのといったことがあったが、それらは天女とは関わりのないこと。言うなれば、時の巡りが悪かっただけの偶然だと、シマは認識している様子だった。
本当にただの偶然なのか。
素直には頷きにくい。しかし、確たる反論ができるわけでもない。
言葉を選べず、思考がさまよう。
結局、口から出たのはまったく別の疑問だった。
「シマ殿、あなたは天女に何を見せられたのですか?」
「……はじめは、音に聞く、遠見の鏡かと思いました」
「それは、離れた場所の景色が見えるという、御伽噺の?」
「おっしゃる通りです」と、シマは頷く。「見せていただいた不思議な板、長方形の手鏡のようなものには、あの子の、雷獣の家族が映っていましたわ。父親と母親、それから兄弟たちが四匹も。小さな板切れの中で、彼らが元気そうに跳ね回っていたのです」
見たこともない真っ白な部屋の光景だったという。
雷獣の家族はそれぞれが気ままに跳ね、走り、ときに雷気を迸らせ、その実在をまざまざとシマに訴えかけていた。板切れからはなんと音まで聞こえていたらしい。彼らの鳴き声や足音は、今もシマの耳に鮮明に残っているという。
「しかし、それは遠見の鏡ではなかった?」
「そう。『映されているのは現在ではないの』と。そして、天女様はこうも仰っしゃりましたわ。『これは過去を切り取ったもの。つまり、ただの動く画でしかないのよ』と」
当時の記憶を掘り出したのか、シマは頬を上気させてやや興奮気味に言った。
私は前のめりになった彼女の勢いに気圧されて目をしばたかせてしまった。
なるほど、過去の情景を刻み込んであとになって鑑賞できるとは、確かに驚くべき技術だ。しかし、どうもシマが感じているのは未踏の技術に対する驚きだけではないらしい。
緩んだ頬、弧を描く唇、そして星のように輝く双眸。
彼女は愉快そうに笑っていた。なにかを悟ったか、あるいは吹っ切れたように。
「本当は」シマはほんの僅かに瞳の奥を潤ませながら呟いた。「結構、悩んでたんですよ、絵を描くことに。金持ちの道楽とか、女のくせにとか、そういうのもなんとなく聞こえてくるものですから。でも、あの動画を見ちゃったら、なんだかちっちゃなことで悩んでたんだな、って思えて」
手の甲で目元を拭い、彼女はからりと笑った。
「ハネト様にも言った通り、私の絵に価値なんてありません。だって、私自身がまだまだ満足してないのですもの。天の国の絵は現実そっくりで、動きもすれば音も聞こえるのですよ? 地上の有象無象にあれこれ言われたくらいで筆を止めるなんて、もったいなくて笑っちゃいますわ」
その無邪気な笑顔を見て。
やはり、と腑に落ちた。
やはり、未来の技術は毒の蜜だ。甘く、苦しく、知ってしまえば心が変わってしまう。
同じような驚きと、歓びと、渇きとに覚えがあった。
もしかしたら、いつかの私も彼女と同じような表情を浮かべていたのかもしれない。
あの時、未来の存在を意識した瞬間、私の剣は変わってしまった。
人と人とで斬り結ぶ道から、妖怪や、あるいは未来の武器と対峙する道へ。
今もきっと変わり続けている。
その道を行くことに意味はあるのか。
得られるものは、今この時代を生きるためには不要な技術と思考だけだろう。
迂遠な遠回りだ。
けれども、歩き始めた足を止めることはできない。
曇天の切れ目に眩い陽光を垣間見たようなものだ。
魅せられてしまったのだから仕方がない。届かなくても手を伸ばしてしまう。
「いずれクロウ様にも新しい作品をお見せしたいですわ」
「ええ……、楽しみにしています」
その憧憬を楽しむことができるのは、きっと幸せなことのだろう。




