09
空を見ていた。
屋敷の縁側に腰掛けて、黒い空を見上げている。
底のない穴のような空。ぼんやりと意識が天に浮かんでいく。
屋敷の屋根が遠ざかる。山の頂に並び、追い越し、煙のように登っていく。
天蓋に至った。
雲はない。眼下に地上が見える。
瞬間、視界が白に染まった。
梯子を踏み外すように、天地が入れ替わる。
墜ちていく。
そのさなか、白い世界に稲妻を見た。
空と大地を繋ぐ一筋の太い軌跡。主幹から枝分かれする無数の白棘。
墜ちていく。
雷槍の穂先が見えた。山際の林に突き立てられた閃光が、木々に炎を灯す。
業火が、蛇のようにうねった。
波のように炎が押し寄せる。
意識は屋敷に戻っていた。塀の向こうが赤い。頬の肌がちりちりと焦げる。
漆喰の障壁はなんの役にも立たなかった。
跳ねるように飛来した炎弾が、避ける間もなく身を包む。
悲鳴は音にならなかった。
炎に包まれてうずくまる。
重くて硬い鋼の音が耳に届く。
落雷の咆哮が、ようやく届いたのだ。
そこで、目が覚めた。
布団の上だった。真夜中だ。部屋は暗く、音もない。
素早く記憶を繋げる。ハネトと別れ、部屋に戻って床についたところまでは覚えている。真新しい布団の心地よさは格別で、目を閉じたらすぐに眠りに落ちたはず。溶けるような意識の消失に、朝までぐっすり眠れると予感したものだ。
では、覚醒の原因は?
瞼に白く灼き付いた雷は、夢の残像でしかない。己の意識が生み出した幻だ。
しかし、雷鳴に似た重い金属音だけは妙に現実感がある。金属が擦れ、ぶつかり、音を鳴らす。そういう音だ。その音を、ごく最近、どこかで聞いたはず。
「閂か」
布団から跳ね起き、枕元の愛刀を引っ掴んで部屋を出る。廊下を走り、縁側へ。
日没まで続いていた雪はいつの間にか止んでいた。雲の切れ間から半月が覗いている。月明かりは頼りないが、襖に仕切られた部屋の中よりはよほど明るかった。
静かだ。まるで屋敷そのものが眠っているかのよう。
素足の指が冷たい。庭の新雪は滑らかで、足跡ひとつ残っていない。銀色の淡い反射を横目に見ながら、玄関へと足を早める。足音を忍ばせるのは、念のため。
板張りの廊下を進んでいると、十歩ほど先の廊下の曲がり角から人影が現れた。こちらの存在に気づいたのか「あっ」と影が声を漏らす。
薄闇にももう目が慣れていた。影の主は見覚えのある顔だった。屋敷の門を警備していた若い男だ。屋敷の中にも関わらず、右手に袖搦を握っているのが見える。
「おや、どうかしましたか?」
急ぎ足を緩やかにする。さりげなさを装って、そう声を掛けた。
男はびくりと肩を震わせ、自身の背後、すなわち曲がり角の陰を一瞬振り返り、それからぎこちなく笑みを作ってこちらに視線を合わせた。
「あ、の……、ちょっと厠に」
「そうでしたか。呼び止めてしまって申し訳ない」
「いえ……。えっと、お客様は……」
「なんとなく目が覚めてしまいまして。少し散歩でもしようかと」
近づく。五歩の距離。
男の足元が見えた。草履を履いたままだ。愛想笑いを浮かべて近づいてくる。
三歩。互いに軽く会釈。
止まらず、そのまますれ違う。
ぎしり、と背後で床の軋む音。
振り向く。男の黒い影が伸び上がっている。
両手で持った袖搦を振りかぶった男が、敵意をあらわに目を剥いている。
予感はあった。故に、淀みなく身体が動いた。
反転の勢いのまま、裏拳を男の首に叩き込む。
骨がずれる手応え。斜めに降ってきた凶器を横に躱し、力任せに男を薙ぎ倒す。
横倒しになった男が襖を破って縁側から室内へと転がっていく。
襖紙が破れ、畳に人体が落ちる音が低く響いた。
聞きつけたのか、曲がり角の向こうで気配がざわつく。
逡巡を挟まず、息を吸い、叫ぶ。
「皆、起きよッ! 賊が侵入ったぞ!」
己の雷声を置き去りに、低い姿勢で疾駆する。
直角の曲がり角に跳んで出た。眼前に人影が二つ。どちらも匕首を握っている。
位置が悪い。右も左も壁。刀を抜けば引っかかる。
「んだ、てめえ!」
足裏で床を掴む。高い快音と共に急静止。
身体を沈ませながら旋回。加速の勢いを円に乗せ、賊の足元を刈る。
捉えた。
突くか振るかと匕首をさまよわせた片方の男が、脚を掃われて平衡を崩す。
「ぐお」と痛みと困惑を混ぜたような声。
斜めになったその身体を盾にして、もうひとりの男に掴みかかった。
「なっ、邪魔だ馬鹿っ!」
半端な速度で突き出された匕首を、相手の手首を掴んで止める。
突進の勢いで膝を腹に叩き込み、そのまま廊下へ押し倒す。
だん、と空気の震えが伝播した。
跳ねるように飛び起き、眼下で悶絶する男の腕を、手首を掴んだまま蹴りつける。伸び切った関節が反対の方向に折れ曲がった。
男が痛みに絶叫しようとし、肺腑の空気が足りず、あえぐ。
それを飛び越え、倒れかけて壁に上体を預けたもうひとりに肉薄する。
刃は抜かず、そのまま柄頭を突き出す。
狙いは喉。
外すはずもない。至近からの強打が男の気道を潰す。
「こっ」と空気が漏れ、男の手から匕首がこぼれ落ちた。
膝から崩れ、目の前に差し出された男の首を、鞘で上から打ち据える。
目を回した男がどうと音を立てて廊下に倒れ伏した。
「さて、どうしたものかな」
息を整えて思考を巡らせる。
状況は明らかだ。門番の男が敵を引き入れたのだろう。元々こちらの屋敷を狙うつもりだったのか、それとも手引役が本店から移動させられたから急遽予定を変更したのか、仔細は不明だが、あの門番が賊の一味だったことは疑いようもない。
「問題は、相手の人数か」
薄闇の中で耳を澄ます。
屋敷から聞こえてくる音は二種類。
ひとつは玄関の方向から聞こえてくる喧騒。
ひっそりと息を潜めて忍び込むのはもはや諦めたのだろう。隠すことない怒鳴り声と乱雑な足音とが複数重なり合っている。
言うまでもなく、押し入ってきた賊の気配である。音は遠く、人数まではわからない。しかし、二人や三人ではないだろう。おそらく十人はいない、とは思うのだが。
もうひとつは屋敷の奥でアガツマ家の縁者たちが動く気配。
その多くは鈍重で、現状をはっきりと理解していない者さえいるようだ。眠っていたところをいきなり叩き起こされた者がほとんどなのだから、仕方ないといえば仕方ない。
幸い、賊の気配は玄関に集中している。
屋敷の出入り口は正門と勝手口の二つ。正門は抜かれたが、勝手口からの侵入は無いらしい。あるいは、さっきの三人が勝手口を開放するための先遣隊だったか。
「今のうちにどこか一箇所に集まってもらいたいところだけど」
とにかく手が足りない。屋敷の人間があちこちに散らばっていては、自分ひとりではどうやったって守りきれやしない。
まとめ役が必要だ。誰でもいいから、屋敷の住人の避難を誘導する者が。
「クロウくん!」
「……これまた時宜絶好で」
ひたひたと小さな足音に振り向けば、ハネトが早足でこちらに近づいてくるところだった。月明かりにうっすらと浮かんだ表情は固くこわばっていた。
おそるおそるといった足取りは演技には見えない。実は賊の一味だった、ということはないだろう。もし仮に彼が悪意ある侵入者だったとしても、姿を見せてこちらに近づいてくる理由がない。屋敷の女主人の客として首尾よく潜伏できていたのだから、勝手口の鍵を開放するなり、他に相応しい仕事があるはずだ。
「さっきの声、僕にも聞こえたけど、賊って本当に?」
「見ての通りです」
と、制圧した三人の賊をハネトに示す。うめき声を漏らし、小さく痙攣する彼らの様子を目の当たりにして、学者殿は眉をしかめて後退りした。その袖を軽くつまみ、騒々しさが浸透しつつある玄関の方を顎でしゃくる。
「私が足止めします。ハネト殿はその隙に皆を一箇所に誘導してください」
「……あ、ああ。そうだね、わかった。けれど、どこに集まれば?」
「そうですね……」
ハネトが額に滲んだ汗を拭うのを横目に見ながら、頭の中に屋敷の見取り図を思い浮かべる。なるべく玄関から離れていて、避難の導線を描きやすい場所がいいだろう。加えて、いざというときに守りを固められる余地があるなら、なおのこと好都合だ。
脳裏を走り抜けたそんな思考を、気づけばハッと鼻で笑っていた。
何をもっともらしい理屈をつらつらと。この屋敷でどこが一番安全かなんて、考えるまでもあるまいに。
人命を守るなら、使えるものは猫の手だろうとなんでも使うべきだ。わかっているとも。ならば、未来人の手を借りるのに、なんの躊躇いがあろうか。
「では、天女様を頼りましょうか」
「え?」
呆けた顔のハネトの胸を軽く押して、屋敷の奥へと走らせる。
よろめくように走り出した彼の背に言葉を投げつけて、愛刀の刃を引き抜いた。
「避難先はシマ殿の部屋で。頼みましたよ、ハネト殿」




