07
白い頬をうっすらと上気させたシマは見るからに上機嫌だった。自室に招き入れた男二人がこれから見せるものにどういった反応を示すのか、楽しみで仕方ないという様子である。
案内を終えた老使用人が襖を閉めるやいなや、「まずはハネト様の御見識を伺いましょうか」と彼女は若学者に視線を向けた。
「諸藩の伝承に曰く」ハネトが腕を組みながら言う。「雷獣とは、空に住み、落雷とともに地上に現れる妖怪である。体長は二尺ほどで四肢を持ち、その姿は犬か狸に似る、と」
意外と小さいのだな、と思う。
雷を冠する勇壮な名前と、かつてかまいたちに対峙した経験から、てっきり熊のような大型の動物を想像していたのだが。
「体毛は薄赤い黒色、あるいは栗色に黒斑、もしくは鼠のような灰色とも。その辺りの仔細は土地によって様々です。地上に落ちた後は、夕立を待ち、雷音を轟かせて雲へと帰っていく。そう伝えられていることが多いようですね」
「なるほどなるほど。実に興味深いお話ですわ。……けれども、ハネト様はそういったは伝承は、与太話と見て信じておられない御様子」
「ええ、まぁそうですね」
シマがからかうように言うと、ハネトは苦笑して髪を掻いた。
「雷に乗って天地を行き来するなど、自然の道理に合いません。理外というやつです。おおかた珍しい動物が跳ねるのを見間違えたか、なにかの錯覚、勘違いによるものでしょう。巷間の妖怪騒ぎなどは、得てしてそういうものです」
「私が捕らえた雷獣もそうだと?」
「それを確かめるために私を招待されたのでは? 本邦のものであれ外つ国のものであれ、それが地上の動物であればその名を言い当ててみせろ、と」
気負うでもなく、自然体でハネトはそう言ってのけた。
自信ありげなその様子に、シマが婉然と微笑む。
「いかにもその通りですわ。……もったいぶっても仕方ありませんね。では、雷獣のお披露目といきましょうか。クロウ様もよろしくて?」
「無論」
屋敷の女主人が座ったままに後ろを振り向く。鶯の袖が畳を滑り、白く細い指が奥の間への襖に掛かった。閉め切られた襖の向こうから、ごそりと何かの動く音が聞こえる。鬼が出るか蛇が出るか。
するりと襖が開く。隣のハネトがはっと息を呑む気配。
襖の奥から姿を現したのは、小柄な女だった。
肩まで伸ばした黒髪と茶色の瞳。幼さの残る童顔に微笑みは柔らかく。
……数カ月ぶりでも見間違えるはずもない。
現れたのは未来からの来訪者、サナその人であった。
彼女を迎え入れたシマがうっとりと声を漏らす。
「天女様……」
噴き出しかけた。
喉と表情筋とを総動員してなんとか無表情を保つ。一瞬、サナの笑みがぎこちなく歪んだのが見えた。しかし、シマの言葉を否定したりはしない。見れば、今夜の彼女の装いは透明な素材の不思議な外衣だった。軽やかで滑らかな布の質。天女の羽衣と言われれば、そう信じてしまうかもしれない。
どうやら、彼女はシマの前では天女の役柄を演じているらしい。
似合わないとは言わない。言わないが、どうにも笑ってしまいそうになる。
「こちら、雷獣を連れ戻しにご降臨なされた、天女様ですわ」
「は、はぁ……?」
ハネトが呆然と目を擦る。瞬きしても、目の前の現実は変わらない。
彼が表情を引き攣らせてこちらを見た。なんとも言えず、ただ肩をすくめて返す。
「……」
敷居をまたいだサナが無言で畳に腰を下ろした。いつの間にか首から上に完璧な笑顔が戻っている。言葉を発さないのも演出の一環だろうか。
彼女の腕の中には、球形のかごが抱えられていた。蹴鞠をそのまま大きくしたような形で、鉄でも竹でもない、見知らぬ材質で縦に編まれている。
その中の、つぶらな瞳と目が合った。
小さい。体長は二尺もないだろう。あって一尺。姿形は鼠に似ているが、山野で見かけるものよりひと回り大きい。特徴的なのはその顔で、鼠とは違う、潰れたような鼻っ面だった。全身に金色の毛を持ち、顔も胴もずんぐりとしていて、なんとなく愛嬌がある。
「いかがですか、ハネト様。貴方様ならこの獣をなんと呼ぶでしょうか?」
「そう、ですね……」
若学者がこめかみに指を当てて考え込んだ。目の前の獣とそのかごを抱える天女とを慎重に推し量っているのがわかる。
天女に扮したサナは相変わらず沈黙を貫いている。固定された微笑は、ほとんどハネトに向けられたままだ。無論、敢えてこちらから声を掛けようとは思わない。彼女の目論見をいたずらに崩そうとするほど子供ではないつもりだ。
「……渡来の商人の言う、モルモット、と呼ばれる動物に似ているかと」
ハネトは天女の顔色をうかがいながらそう答えた。
「雷獣ではないと?」とシマが問い返せば、若学者はためらいがちに頷いた。
正しいとも誤っているとも、サナは黙して語らない。口を柔らかく結んだまま、彼女は腕のかごを畳に置き、客人たちにそっと差し出した。
「では、かごに手を近づけてくださいませ」とシマが天女を代弁する。
差し出されたかごは、私とハネトのちょうど中間で止まっていた。天女様は無言のままだが、その笑顔から有無を言わさぬ圧力を感じる。
困惑顔のハネトと顔を見合わせる。是非も無し。二人揃って、おそるおそるかごへと手を伸ばす。
近づく二人分の指先を、金色の獣はじっと見つめていた。とぼけた表情からは敵意も害意も見て取れない。
そのまま指先がかごに触れるところまで近づいた、次の瞬間だった。
「つっ!」
ばちり、と音が鳴った。
爪先から鋭い痛みが走り、反射的に指を引っ込める。
目を丸くして指先を見るが、傷のようなものは一切見当たらない。走り抜けた痛みもほんの一瞬のことで、今はもうその名残すら感じられなかった。
狐に化かされたような気分だ。隣のハネトはといえば、あからさまに驚きの表情を浮かべている。
ぱちりぱちり、とかごからは異音が鳴り続けている。その音に合わせて、未知の素材でできた編みかごの中で白光が弾けていた。
記憶をたどるまでもなく、思い当たる。それは、かまいたちの尾を断ったときに弾けた光と同じに見えた。
「これこそが雷獣が雷獣たる所以ですわ」
シマが勝ち誇るかのように言った。
雷と呼ぶには弱々しく、さりとて他に相応しい呼び名も浮かばない。金毛を逆立てた獣がさながら弾ける光の衣を纏ったかの如き幻想的な光景に、私もハネトも押し黙るしかなかった。
こちらが沈黙したのを確認して、サナが雷光のかごを両腕で抱え込んだ。天女の羽衣は雷を吸い込む力があるらしい。弾ける光が半透明の羽衣を伝い、溶けるように消えていく。ぱちぱちという異音もいつしか消えてなくなっていた。
雷獣を抱いたサナが立ち上がる。まるで変わらない微笑みが超然としたものに見えたのは、きっと彼女の狙い通りだろう。
天女が奥の間に戻ると、女主人は襖を閉め直した。
二つの空間が仕切られ、幻想の気配が一瞬で遠のく。
ハネトが大きく息を吐き出し、額を拭った。玉のような汗で藤色の袖が濡れていく。それを見て、私もようやく肩の力が抜けた。
「ご納得いただけましたか?」というシマの声が、どこか遠く聞こえていた。




