05
「はい、正門も勝手口も、昼夜を問わずに施錠してありますわ」
翌日は朝から雪がちらつく天気になった。
はらりと地面に触れた雪片が黒い染みを作っていく。灰色の雲が太陽を隠していて、日中だというのにひどく薄暗い。
屋敷で朝食を頂いた後、シマに庭へと連れ出された。
昨夜も話に出た、庭の蔵を案内してくれるというのだ。幸いにも雪の勢いはまだ穏やか。黒塗りの蛇の目傘を開いたシマが、ゆったりとした足取りで私を先導している。
シマは赤い鼻緒が鮮やかな下駄を履いていた。飛び石を伝うたびにからんころんと心地良い音が鳴っている。
こちらを振り向いた彼女は、困ったように目を細めていた。
「普段はそこまで厳重でもないのですけどね。ここしばらくの間は、念のために、ということで。門を開ける場合は、必ず私に一報を入れるようにお願いしていますの」
「では、私の他にこの屋敷を訪れた者は……」
「ここ数日は誰もおりませんわ。クロウ様の前にいらしたのは、食料品を運んでくれた人夫の方だったかしら」
「それは、男性でしたか?」
「あら、おかしなことを聞くのですね。ええ、私の目が節穴でなければ、荷を運んできたのは間違いなく殿方でしたかと」
くすくすとシマが笑いをこぼした。弧を描いた眉が細身の顔と相まって、どこか狐のような印象を受ける。もちろん、尻尾はどこにもない。
正門の方を振り返ると、年若の男が昨夜と変わらず床几に腰掛けて門の陰に控えていた。さすがに冷えるのだろう、遠目から見てもわかるくらいに厚着をしている。肩に立て掛けた木製の長棒は、よくよく見てみれば先端に複数の金属棘が備えられていた。
袖搦だ。昨晩は闇に溶けていて気づけなかったか。
「あそこの彼が普段から門番を?」
「あの方は最近になってお父様が遣わせてくれた方です。今は他にも二人ほど、屋敷の雑事を手伝うためにアガツマ屋の奉公人が来てくれています。皆、十年以上も奉公を続けている信頼の置ける方だと、お父様からはそう聞いておりますわ」
「では、昔からこの屋敷に勤めているのは」
「住み込みの爺やがひとりだけです。あとは年に二、三度、大掃除や虫干しの手伝いに人を呼ぶくらいだったかしら」
「この広い屋敷に、二人だけですか? 不便に思うことはないのでしょうか」
「不便? 不便とは、どういった状況を指すのでしょう?」
前を行くシマが、振り返りもせず首を傾げた。
「私は爺やの働きぶりには満足しています。その爺やからも、手が足りないだとか、忙しすぎるとか、そんな不満を聞いたことはありません。いくら屋敷が広いといっても、暮らしているのは二人だけ。静かに日々を過ごすのであれば、余計な人手があっても持て余すだけではありませんか」
話している内に、蔵の入り口に着いた。
庇の下で傘の雪を払ったシマが、無造作に蔵の扉を引き開ける。どうやら鍵も掛けていないらしい。開け放たれた戸口から、くすんだ匂い漏れ出してくる。
「さぁどうぞ、こちらへ。もっとも、大したものをお見せできるわけでもありませんが……」
「では、失礼します」
蔵の中は薄曇りの外よりもいっそう暗かった。とはいえ、真っ暗闇でもない。どうやら高い位置に採光があるらしい。数秒もすると、ぼんやりとした暗がりに目が慣れてきた。
「……蛙?」
最初に見えたのは、赤い舌をべろりと伸ばし、ぎょろりと目を剥いた蛙の顔だった。否、本当に蛙なのかはわからない。愛嬌のある丸みを帯びたその顔貌は、現実の蛙の姿とは大きく異なっている。
絵画だ、とすぐに気づく。蔵の壁に戯画の掛け軸が掛けられているのだ。
さらに目が慣れてくると、どうやら掛け軸はひとつではないとわかってきた。少なくとも、十か二十……、いや、もっとあるかもしれない。きちんと壁に掛けられているものもあれば、殴り描きの習作らしきものが無造作に棚に置かれていたりもする。作風は雑多で、ひょうきんな戯画もあれば風景画や人物画まであるようだ。
「これは、驚いたな。シマ殿が蒐集したものですか? すごい数ですね」
「残念ながら少し違いますね」
「では、御父君の……」
「そうでもなくて。ねえ、クロウ様。これらはいったい誰の作だと思います?」
「作者ですか? あいにく、画家の名前には詳しくないのですが」
そう問われ、改めて掛け軸に目を凝らしてみる。しかし、どの作品にも署名や落款は見当たらない。筆使いから作者を当てるような知識は持っていないので、これでは手掛かり無しに等しい。
ただ……、どうも、いかにも名作だという雰囲気ではない。
掛け軸は蔵の中に所狭しと展示されているが、作品ごとに出来不出来の落差が大きいように見える。なんなら未完成で放置されているらしきものさえある。大胆な筆致で描かれた風景画も、よくよく見ると実際の光景とどこかずれているような違和感を覚えてしまう。
そういえば、屋敷に財産らしい財産は置いていないという話だった。であれば、これらの掛け軸も市場では値のつかない代物なのだろうか。いずれにせよ、作者など見当もつかないというのが正直なところだが。
絵画から目を離し、シマの方を振り向いて肩をすくめた。お手上げだ。
戸口に立った彼女はにこにこと笑顔を浮かべている。悪戯狐の表情である。
声を発さずただ黙って唇を弧にする彼女の様子に、ふと思いつくものがあった。もしやと思いつつ尋ねてみる。
「ひょっとして、シマ殿が描いたものなのですか?」
「ご明察ですわ。やっぱり、素人の筆とわかってしまうものかしら」
「あ、いや……」
「世間知らずの手慰み。ふふ、それはその通りですとも」
なんとなくばつが悪くて、誤魔化すように頭を掻いてしまう。
一方、シマは気にした風もなく、笑顔のまま棚に収められた作品を撫ぜて言葉を続けた。
「時間は余るほどありましたし、画材もお父様が準備してくれました。幼い時分より少しずつ描き続けていたら、いつの間にやらこんなにも作品が増えてしまって。誰かに師事したわけでもなく、好き勝手にやっているだけですから、もちろん売り物にできるようなものでもありません」
「ほら、これなんて」と彼女は一枚の絵画を指さした。
それは最初に目についた蛙の戯画だった。改めて細部まで凝視してみると、墨色の蛙は二本足で立ち、釣り竿を担いでおどけている姿なのがわかる。言うまでもなく、現実にはあり得ない光景だ。
「私もなかなか屋敷の外には出れない身の上ですからね。絵を描くにしても、現実の光景を題材にするのは難しくて。書を読んだり、人の話を聞いたりして、心の内に想像したものばかりを描いてしまいますの。私自身は楽しんで筆を執っていますが……、やはり、他人の目に晒すようなものでもありませんよね」
飄々とした口調でそう言うと、シマはあっさりとした仕草で肩をすくめた。
卑下しているようでいて、その実、気取った口ぶりだった。他人に何を言われようとも自分の価値は自分で知っていると、そういった自尊心が見え隠れしている。私個人の感覚としては、世に拗ねて卑屈になるよりも、そういう態度の方がよほど好感を持てる。
「うーん、世間の絵師が何と言うかはわかりませんが、私はこういう作品も嫌いではありませんよ」
「好きだ、とは言ってくれなくて?」
「そう断言できるほどのめり込めない性質なんです。シマ殿の作品に限らず……、きっと芸術を鑑賞するための素養が欠けているんですね」
苦笑しながら頬を掻く。「正直な方」とシマが憮然と呟いた。
事実、蔵に収められた作品の数には圧倒されるものの、描かれた内容にことさら感動を覚えることはなかった。名のある巨匠の作品を見ても、多分同じだろう。
結局のところ、私の嗜好は、現実の特定の事象に集中しているらしい。
「目に写ったものをどう捉えるかは人それぞれでしょう? シマ殿が見て、聞いて、心に感じたことを紙の上に表現したのであれば、それはやはり、シマ殿だけが描けるものなのだと思います。私には描けません。ですから……、うまく言えませんが、世間の評価や金銭としての価値とは別の意味があるのではないでしょうか」
「褒めていただいたのかしら? それはそれは、どうもありがとうございます」
皮肉げな笑顔を作ったシマが、ふと思いついたように首を傾げた。
「では、クロウ様の目にはこの世界がどう写っているのかしら。私の心の内だけ覗き見られて、なんだか不公平ですわ。是非ともご教授くださいませ」
「剣を振って、切っ先が届くか否か。なによりはじめにそれが写ります」
迷う必要もなく、そう答えた。
常在戦場などと気取るわけでもないが、踏み込みと、腕の長さと、刃渡りとが己のものさしとして常に存在している。改めて意識するまでもない、それはもはや染み付いた習性ともいえる感覚だ。
斬ること、そして斬られることは、剣士の当然であり、必然である。
そういう視界を持った上で、刀を抜かずに道理を通す術を考える。それが難しい。難しいが、そうしなければ人として生きてはいけない。
それが私に見えるこの世界のありかただ。
「それはなんとも……、そう、物騒な心持ちですわね」
顔を顰めて盛大に呆れの表情を見せたシマが、一歩後ろに下がる。
ぐうの音も出ない感想だった。




