02
翌日、馴染みの飯屋に顔を出した。いつぞやの雨の日に、サナと最後に会ったあの店である。
昼餉にはいささか早い時間だった。店内に客の姿はない。これ幸いとばかりに、手持ち無沙汰な女将に声を掛けて伝言を頼む。
これから仕事で旅に出ること、行き先は西の藩にある商家の別邸であること、そこで『探しもの』が見つかるかもしれないということ……。細かい事情を端折った内容を女将に伝え、私が留守の間にサナが来店したら伝えてもらうように頼んだ。
実のところ、どうすればサナと連絡が取れるのか、よくわかっていなかった。女将に伝言を頼むのも、ただ単に、この街で彼女と接点のある場所がここしか思い浮かばなかったからだ。
果たしてこんな方法で彼女に伝わるのか。連絡手段を残してくれなかった彼女に文句のひとつでも言いたい気分だったが、だからといってうだうだとこの地で彼女を待ち続けるわけにもいかない。多少の不安は飲み込んで、先んじて動き始めるつもりだ。
伝言を受け取った女将はあからさまに呆れ顔だった。
「はぁ、クロウさんの春は遠そうね……」と盛大にため息をついた女将に曖昧な笑顔で一礼して、故郷の街を足早に出立した。うっかり長居をしようものなら何を言われたかわかったものじゃない。
西の藩まで徒歩で三日。アガツマ屋の本店は城下にあるが、別邸は主街道から逸れた場所にある。藩境を越えてしばらく進んだ後、タツミに教えられた道標を見つけて道を折れた。
狭い道ではない。しかし、人の往来はあまり無いようだ。道は穏やかで細い川に沿って続いている。助走をつければ飛び越えられそうな、本当に小さな川だった。水面をちらちらと落ち葉が流れている。葉の色はもう枯れた色。紅葉の鮮やかさは、過去のものだ。
鉛色の雲が低い位置で空を覆っている。
いよいよもって雪が降り出しそうな、そんな空模様だった。
夕刻、太陽が沈み切る前に、目的地らしい屋敷の門にたどり着いた。
そのまま訪いを告げようかもと思ったが、少し考え、先に周囲をひと回りすることにする。別邸の敷地は四方を塀に囲まれていた。夕闇の中、塀の上部には忍び返しの影が見える。右手を当てて塀を伝っていくと、正門の対辺にあたる位置に勝手口らしき扉があったが、こちらも見るからにがっしりとした造りだった。軽く触れてみるが、やはり動かない。鍵穴は見当たらないので、内側に独立した錠があるらしい。
塀の外で目につくものといえば、川の上流へと続く細い道がある他は周囲に広がる竹林くらい。日中ならいざ知らず、この時間では竹林の奥も闇に沈んでいた。近寄ってみたが、人の気配はない。草葉の掠れる音だけがせせらぎのように聞こえてくる。
竹林と塀とは二、三間ほど離れている。竹を登って塀を飛び越える、などという芸当は難しそうだ。
そのままぐるりと回って、正門に戻ってきた。
「御免」と門を叩き、訪いを告げる。ほどなくして姿を見せたのは、顔立ちに幼さの残る若い男だった。アガツマ屋の奉公人だろう。木製の長い棒を片手で握り、警戒の瞳でこちらを睨めつけている。こちらの腰の物を認めた彼が、はっと息を呑む気配があった。
「御免、こちらはアガツマ屋のご息女の屋敷でよろしいか?」
「……へえ。あの、どちら様で?」
「イスルギ・タツミの紹介で参った、クロウと申します。紹介状はここに」
「お預かりします」
懐から取り出した書状を手渡すと、男はこちらの足先から頭のてっぺんまでをじろじろと疑わしげに見つめてきた。不躾な表情を隠そうともしない。応対役の態度としては拙いのではないか、とも感じたが、だからといって余計な文句を言っても仕方ない。なるべく穏やかな表情を心がけ、そのまま男の対応を待つ。
「……お嬢様に確認してきますので」
「お願いします」
男の体が奥に引っ込み、目の前で門が閉まった。ご丁寧にも閂の掛かる音がわざとらしく聞こえてくる。
小さく溜め息。アガツマ屋の主を通して、タツミの門弟が屋敷に向かうとは伝わっているはずなのだが。書状の確認が必要なのはわかるが、こうも突慳貪な対応をされると流石に気分が沈みそうになってしまう。
ここ数日歩きづめだったので、疲労が溜まっているということもある。その分、気持ちに余裕が無いのかもしれない。しかし、こちらの態度を硬化させ、それで無駄な諍いを起こすのもごめんだ。穏便に話が進むよう自制せねば。
「おまたせしました。お嬢様がお会いします」
しばらく待つと再び門が開いた。先程と同じ男の案内で敷地の中に入る。沈みかけた太陽が塀の内を茜色に染めていた。
目を細め、敷地の中の様子を確認する。正門から飛び石を伝ってまっすぐのところに母屋があり、その右手に漆喰塗の蔵がひとつだけ佇んでいる。建物はこの二棟だけで、その分、中庭を広く取っているらしい。敷地の中央付近には小さな池が見えた。ひょうたん型で、中央に石橋が架かっている。水の跳ねる音が聞こえたので、魚を飼っているのかもしれない。
案内役の男がずんずん進んでしまうので、足を止めて周囲を観察する余裕はなかった。だんまりを決め込む背中を追いかけて、母屋の玄関に至る。男は母屋の戸を開けると、小さく頭を下げ、そのまま門の方へ戻っていった。
すれ違いざまに粘着く視線で睨まれたが、気づかぬ振りをする。足音が遠ざかってから首だけで振り向くと、男の影が門の傍の床几に座り込むところだった。まだ、こちらを見ている気がする。
「イスルギ流のクロウ様ですね? どうぞ、こちらからお上がりください」
母屋の玄関には老齢の使用人が待っていた。深々と頭を下げた彼に促され、屋敷の敷居をまたぐ。門前の男とは打って変わって、老使用人は朗らかな様子でこちらを案内してくれた。どうやら別邸の人間の全員にまるきり歓迎されていないというわけでもないらしい。
板張りの廊下を抜けて母屋を進む。奥まった場所の白い襖の前で使用人はしずしずと正座した。目線で伺われたので、襖の正面に座り、頷きを返す。
「お嬢様。御客人をお連れしました」
「ありがとう、爺や。開けてちょうだい」
「失礼致します」
使用人が引き手を引く。音もなく襖が開いた。
おっとりとした声の主が、たおやかに微笑んでいた。
「お待ちしていましたわ、クロウ様。ようこそ、おいでくださいました」




