01
季節が変わった。
木々を飾り立てていた紅葉は散り落ちて、朝夕の冷え込みが厳しさを増しつつある。冬の気配だ。そう遠くないうちに雪の降る日がやってくるだろう。
霜柱の残る早朝から、細い山道を登っていた。タツミの庵に続く道である。吐息が白く染まっている。気温は低いが、風はない。山の空気の醒めるような涼やかさは、嫌いではなかった。
タツミは冬になっても山を下りない。山道が雪に閉ざされても、山の中腹の庵に留まるつもりだろう。今まで通り、心境に変化がなければ、だが。
麓の街の人々からは、せめて冬の間くらいは街に下りてきてはどうか、という声があった。私とて、老齢の師匠が心配でないといえば嘘になる。多くの兄弟子たちも同じ意見だろう。
しかし、タツミは頑として首を縦に振らなかった。冬の間もやることがある、と彼は言う。山に残ることで得られるものと、街に下りることで得られるもの、それを天秤にかけて前者を選んだのだ、とも。
そうと決めたら梃子でも動かない人なのだ。街の人も、弟子たちも、結局はタツミの意思を尊重することになった。偏狭ではなく、むしろ視界が広く、判断が正確な人だとも知られている。本当に助けが必要なときには、きっと素直に頼ってくれるだろうという信頼もあった。
細道を辿り、山中の広場についた。庵からは今日も細い煙が上がっている。
外から名を名乗り、庵の戸を動かした。タツミは囲炉裏の前に座っていた。猛禽に似た視線がこちらを捉える。顎をしゃくられたので、会釈を返して囲炉裏を挟んだ向かいに腰掛けた。
「おはようございます」
「おう」
「頼まれていた品です。新しい鉄瓶と番傘、それから……」
「助かる。そこら辺に置いといてくれ」
庵を見回すと、前に訪れたときよりも荷物が増えていることに気づいた。冬を越すための道具である。しっかりと冬ごもりの支度を進めているようだ。少し、ほっとする。
持ってきた荷物を床に置き、囲炉裏に座り直す。かじかんだ指をかざした。じわじわと伝わる暖かさが心地よい。
「クロウ」
「はい」
「仕事だ」
灰掻き棒を動かしながら、タツミが口を開いた。
「アガツマ屋という商家がある。大店だ。西の藩で、御用達を任されている」
「名前は聞いたことがあります」
「賊が狙っているやもしれん」
「賊、というと……」
「独りではない。集団だ。後ろ暗い連中が集まろうとしている気配がある」
山中の庵に隠棲しながらも、タツミは今なお独自の情報網を持っている。それは、裏社会にも通じる特別な人脈だ。
若い時分、彼は流浪の遊侠だった。本人は語らないが、有名な話だ。諸国を放浪しつつ、数多の悪漢を退治し、ときに腐敗した領主の不正を糺すことさえあったという。各地の顔役、商家、あるいは無頼の徒との繋がりは、そのときに生まれたものらしい。
後年、剣豪として名を馳せたタツミは、とある藩の剣術指南役として出仕することになる。それから彼が職を辞するまで数十年。かつて築かれた情報網は、その間も脈々と維持されていたようだ。
「アガツマ屋の主とは知らぬ仲でもない。警告の書状を発したのだが、返信で助力を請われてな」
言って、タツミは白い髭を撫ぜた。
「あやつはあれで抜け目のない男だ。自分と店を守る手立ては日頃から整えておる。此度は、領主の兵も借りて賊の動きに備えるらしい」
「正規の兵が動くのであれば、私が出張ったところで役に立てるとは思えませんが」
「そうか? いや、まあいい。お前に頼みたいことは別にある」
ぱちり、と囲炉裏の薪が弾けた。
「あそこの主には娘がいる。一緒には暮らしておらん。市中から離れたところに別邸があって、娘はそちらに住んでいる。身体があまり強くなく、幼い頃から別邸にこもりがちだという」
「箱入りですね」
「市中の本店と比べれば別邸の警備は手薄だ。もっとも、別邸に財産らしい財産は置いていないらしいからな。ゆえに、これまでは最低限の警備でも問題はなかった、のだが……」
囲炉裏の向こう側でタツミが目を細めた。ふっと天井を見上げた老師匠の表情は、なにか言葉を探しているかのようだった。
珍しい。仕事の説明の途中でタツミがこんな表情を見せたのは初めてのことかもしれない。
「2ヶ月ほど前に、娘が『雷獣』を拾ったらしい」
「らいじゅう?」
「雷の獣で雷獣だ。……わかるか? 妖怪だよ」
鼓動が跳ねた。前のめりになりそうな身体を意識して抑える。脳裏に黒髪の彼女の面影が浮かんだ。それを隠すように、一瞬だけ目を閉じて、細く息を吐く。
瞼を持ち上げたときには、もう動揺は消えていた。普段どおりの平常心。そのはずなのに、対面のタツミは愉快そうな面持ちでこちらを見つめてきている。あの目に見られると、どうにも心の中を見透かされているような気分になってしまう。唐突に妖怪などと言い出したのも、不意打ちのつもりだろうか。まったく、我が師ながらいい性格をしている。
「それは、真実ですか」
「知らん。所詮は伝聞よ」
くつくつと老剣豪が喉を鳴らした。
深い皺の刻まれた顔の奥から好奇に輝く瞳がこちらを覗き込む。
そう、私が妖怪の情報を欲していることを、タツミは既に知っている。
かまいたちの一件以来、私もあれこれと情報を集めてみたし、耳にした与太話についてそれとなくタツミの知見を求めてみることもあった。今のところ妖怪の所在について具体的な手掛かりを得るには至っていないのだが……、まぁ、そんな様子を見れば、私が相当にいれこんでいることくらい、タツミにとっては一目瞭然だったことだろう。
「だが、結局は、己の目で確かめる他あるまい。そうだろう?」
無論、問われるまでもないことである。




