数日前か、遠い未来か
誰かに呼ばれた気がして、彼女は目を覚ました。
瞼を持ち上げた先に映ったのは、無機質で寒々としたオフィス。部屋の中には他に誰もおらず、ひとりぼっち。都市ビルの高層階、直方体の大部屋に設えられた窓ガラスの向こうは真っ暗な夜。空調は元気に働いていて暖かすぎるくらい。ただ、スチールデスクに押し付けられていた頬っぺたが片側だけ冷たかった。机に突っ伏した姿勢でいたためか、身体ががちがちに痛い。
ぼんやりとした頭にくぐもった振動音が届く。机の上でプライベート用の携帯端末が鳴動していた。カードサイズの薄型デバイスがメッセージの到着を懸命に主張している。その表面を軽くタッチ。
「……またお母さんからだし」
瞬間的に表示された発信者の名前と本文とを眺めて思わず溜め息。寝起きにボディブローを捻じ込まれた気分である。
メッセージの内容はお決まりのもの。「元気か」に始まり、「休みは無いのか」「たまには帰ってこれないのか」「仕事の調子はどうだ」と続いて、最後に「そろそろいい歳なんだから、好い人の一人や二人作ったらどうなの」で結ばれるパターンだ。この後に「誰々さんの息子が云々」と続くケースが稀にあることを考えると、今日のメッセージは短い部類とも言える。が、だからといって煩わしさが軽減されるわけでもなかった。
「出会いなんてありませんよう、っと」
既読を付けたメッセージに当たり障りのない短文を返した。新たな溜め息が生まれそうになるのを鋼の心で自制する。
仕方ないのだ。両親にだって想像も出来ないだろう。
「まさか娘がタイム・パトロールになっていただなんて、ね」
軽く頬を叩いて目を強く開く。思考にエンジンが掛かり始めた。
タイム・トラベルに関する技術は、今のところ政府が独占・秘匿している状態だ。世間にはその存在自体が公表されていない。一般の人々にとって、時間旅行はまだまだフィクションの領域である。当然、時間管理局なる組織の存在を知るのは極々限られた人間だけであった。
彼女自身、実際に配属されるまではその存在をまったく関知していなかった。以前の配属先でいつの間にか行われていた適性検査に引っ掛かり、そこから更にいくつかのテストを経て、ようやくその存在を明かされたのだ。ちなみに管理局に配属された今でも、表向き彼女の所属は普通の(ただし、実体のない課の)刑事ということになっている。
「そりゃあ、秘密のエージェントとか、確かに憧れてはいたけどさ……」
仕事そのものに文句はない。なにしろ人類史の最前線とも言うべき職場である。大袈裟でもなんでもなく、世界の存続を守るのがここでの任務なのだ。日々直面する難問は尽きないが、刑事を志した人間として、モチベーションは非常に高い。ついでに言えば、お給料だってバッチリだ。
ただ、どうしても困ってしまうことをひとつ挙げるとすれば、やはり、時間感覚の混乱、これに尽きるだろう。
管理局の捜査官にはそれぞれが担当するミッションがある。それぞれが担当する時代を持っていると言い換えてもいい。時間跳躍のスケジュールも当然まちまちで、同僚同士で会話をしていても日付や時刻の認識が微妙に食い違ってしまうことが非常に多い。ましてや管理局に所属していない一般人との会話ともなれば、いつどこで襤褸を出してしまうか分かったものではない。
そんなわけで恋愛や結婚、つまり、パートナーと『時間を共有する』という関係性の構築は、彼女にとって絶賛棚上げ中のトピックなのであった。
大体、同年代でなおかつ独身、ドキっとするような異性との出会いなんて、仕事人間が大多数を占める管理局では望むべくもない。
ここ最近でドキドキした記憶と言えば、思いつくのは、そう、あの時代の……。
「いやいや、駄目だって。あれはノーカン。……ノーカンにしないと」
思い浮かんだ彼の表情を首を振って追い払う。省電力モードになった端末のディスプレイに自分の顔が写っているいるのが見えた。歳に似合わない(と評されがちな)童顔が、眉を顰めて頬を膨らませていた。
その膨れっ面をじっと見つめる彼女の背に、低い男の声が掛かる。
「あれ、起きてる?」
「わっ! あ、主任。はい、起きてます、起きてます」
「うん、お疲れ様。まだ残ってたんだ?」
深みのあるバリトンは、彼女の上司にあたる『主任』のものだった。トレンチコートを腕に引っ掛けたナイスミドルの視線が壁の高いところに掛けられた時計に向かう。釣られて彼女も見ると、短針は既に十二時を回っていた。思わず表情を歪ませた彼女に、主任が肩を竦めながら紙の束を手渡す。
「はい、それ、倫理委員会の決議書。一応、目を通しておいて」
「ああ、そうだ、これを待ってたんだった。会議、こんな時間まで掛ったんですね。参っちゃうなぁ、もう」
「ま、仕方ない。あの事件が起きてから、委員会の仕事は雪崩みたいに膨れ上がったからね。昔は窓際部署みたいに言われてたのに、今じゃ管理局でも一、二を争うブラック環境だもの」
あの事件。決議書のページを捲りながらその言葉を口の中で繰り返す。
管理局は現在、未曽有の時間犯罪の捜査に追われている。発生したのは半年前で、ほぼ全ての捜査官が動員されている。つい先日まで行われていた彼女のミッションもまた、その事件に関わるものだった。
適当なオフィスチェアを引き寄せて、どっかりと腰を下ろした主任が天井を見上げながら呟く。
「政府所管の保護施設を襲撃して、前大戦の動物兵器を強奪。捜査機関の追跡から逃れるために未登録のタイムマシンを使用。不特定多数の時代に犯罪者とオーパーツが拡散、と。何度振り返っても役満だな」
「主任、言い方が……」
「すまないね。近頃、卓を囲む暇もなくてさ」
主任が椅子を軋ませて足を組み替えた。
A4にコピーされた堅苦しい文章を追っていた彼女が目を上げる。
「なにか、新しいことは判明しましたか?」
「全然駄目だね。今のところ拡散した動物兵器の収容で手一杯。犯人グループの全貌は今も藪の中」
「ですが、確保した被疑者も何人かいますよね?」
「そう……。報酬目当ての雇われチンピラに、過激派環境論者、アナーキスト、右派、左派、前科者、それから、どこにでもいるような一般人まで。……まるで統一性が無い」
主任が両手を持ち上げた。お手上げのポーズ。
つまり、今のところ『主犯格』に繋がる情報は得られていないということか。
「少なくとも、時間跳躍の理論を政府から盗み出すか、あるいは、自力で完成させたヤツがいるはずなんだ。ソイツが中心に近い場所にいるのは間違いない」
「その人物が、どこにいるのか……」
「加えて、どの時代にいるのか、だな」
彼女のページを捲る手が止まる。
犯人グループのタイムマシンを作り上げた人物。いったい何者なのか。捜査チームはまだその影すら掴めていない。確保した被疑者からも足取りが追えないあたり、かなり慎重な人物と見える。
また、それと同一人物なのかは不明だが、犯人グループに動物兵器の命令プロトコルに手を加えられる人物がいるとも推測されている。軍が作成したプロテクトを突破できる技術者だ。こちらも要注意情報として捜査官の間で共有されていた。
いずれにせよ、敵には(陳腐な表現だが)世紀の頭脳の持ち主がいるということ。
彼、ないし彼女がいかなる動機で事件を起こしたのか。管理局内でも様々な憶測が飛び交っている。
「ま、今はグループの構成員の確保と兵器の収容を優先するしかないだろう。うだうだ考えるよりも足を動かさないと」
「ですね。主犯格を捕まえたとしても、あの子たちを連れ帰らないといけないのは変わりませんから」
ふんす、と気合を入れた彼女を見て主任が笑みを零す。
再び決議書に取り掛かった彼女をなんとはなしに見つめながら、主任は呟いた。
「石動流の九郎、か」
「あ、そちらの情報はどうですか? わたしがネットで調べたくらいだと上手くヒットしませんでしたけど……」
「首都大の研究室が文献を当たってくれたよ。詳細はそのレポートにも載ってる。実在は確かみたいだけど、なんというか、マイナーな立ち位置だよね」
前回のミッションで接触したサムライの表情が浮かぶ。
主任の口調はゆったりとしたものだが、彼女の心中はフラットではなかった。大荒れではないが、細波が立っている。こういうときこそ繊細な対応が必要なのだ、と彼女は自身のメンタルを分析していた。
「剣豪・石動辰巳の高弟のひとり。けど、歴史に名を残すような業績があったかといえば、師匠の覚書に何度か名前が出てくる程度で、全然。剣術マニアならもしかしたら知ってるかも、ってレベルかな」
主任は一旦言葉を切り、「ただ……」と続ける。
「ただ?」
「これも石動辰巳の覚書の中のことだけど、『弟子の中に妖怪絡みの依頼を好む変わり者がいる』っていう下りがあるんだ。これがクロウ氏のことじゃないか、って意見が倫理委員会でも取り上げられたみたい」
「あちゃあ……、ひょっとして、わたしのせいになっちゃいます?」
「微妙なライン。大丈夫、どっちにしろ修正力の範囲内、ってことで決着したよ。君の担当する時代もそのままだ。それどころか現地の情報提供者としてクロウ氏を利用するプランが出たくらい」
「わ、それ、大胆ですね」
「上の方もケツに火が点いてるんだ。早々に事態を収拾しないと、今の歴史がいつ吹っ飛ぶのか分かったものじゃない。使えるものは猫の手でも使うつもりみたいだね」
主任の言葉にホッとしたが、しかし、彼女はそれを表情に出さないように慎重にコントロールした。同時に、なぜ自分がホッとしているのか、その原因の検討を試みる。数パターンのワードが心の細波に浮かび、揺れて、沈んでいった。
「よかったね」
「何がですか?」
見透かしたような主任の声に、努めて澄ました態度で応える。
苦笑しながら、上司は椅子から立ち上がった。
「次のジャンプは二日後だ。準備は怠らないように」
「わかりました。……あ、そうだ」
用は済んだとばかりに立ち去ろうとした主任の背中が振り向いた。胡乱な瞳の下に、ぼんやりとした隈。やはり、彼も疲労が溜まっているらしい。
一瞬、気が咎めた。しかし、ここで黙ってしまうのも逆に気を揉ませてしまうだろう。そう自己弁護しつつ、彼女はふとした思い付きを口に出す。
「主任は、虎って好きですか?」
「トラ? え、なんで?」
「可愛いと思いません?」
「いきなりだなぁ。うーん、そうだね、私は虎より星が好きかな」
「星?」
「この時期に虎が可愛いって、君も結構サディスティックなこと言うよね」
「あれ、わたし、何かマズいこと言いました?」
「なにも。でも、受け取り方次第で要注意」
「……ええと、何の話です?」
彼女が首を傾げると、主任が口の端を持ち上げた。
「つまり、次の季節はまた頑張ろう、ってこと」




