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「妖怪」
「うん。わたしの故郷の妖怪」
視線だけを動かして店の奥を窺う。女将も店主も店先に出てくる気配はない。外では雨が降り続き、無遠慮な雨音を絶え間なく運び続けている。囁くようなサナの言葉が耳に届いた端から掻き消されていく。どうやら余人に聞き咎められる心配はないらしい。
天井を見上げて、目を瞑る。水の調べは川底のよう。
深呼吸。彼女の言ったことをゆっくりと消化する。
新たな妖怪の存在、ゴンザの顛末、時間の安定、そして、サナの仕事。
「つまり、サナさんにとっての現代が、今も危ない状況にある、と」
視線を戻す。サナが頷いた。彼女の表情は真剣なものに戻っている。
「正直に言います。これほど大規模な違法時間跳躍は前例がありません。いつ、どんな影響が現れるのか、わたしたちの組織でも正確に把握出来ていない。形振り構っている余裕は、どこにも無い」
茶色の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめている。視線は刃の切っ先の如く鋭い。
「……それで、私にどうしろと?」
「クロウさんの……、この時代に生きる人の、伝手を頼りたいのです」
「具体的には」
「あの子たちの保護を手伝って欲しいとは言いません。妖怪の噂だったり、あるいは奇妙な現象の情報があったら教えて欲しい。わたしたちの組織でも捜索は続けていますけど、未来の視点だけだとどうしても限界があるから」
「それだけですか?」
「それだけでも十分過ぎるほどです」
「言い換えます。私ではそれだけしか手伝えませんか?」
上目遣いの視線を受け止める。彼女が甘えているわけではない。単純に身長の差によるものだ。けれども、そのちょっとした高低差が心象に与える影響は意外にも大きい。気が付くとするりと懐に入り込まれている。ある意味これも彼女の武器のひとつなのかもしれない。
「こちらからの過度な干渉にはリスクがあります」
「りすく」
「危険、の可能性です」
「なるほど。では、私が自分の意思で行動するのであれば?」
「……ええ、まあ、余程のことがなければ、こちらが掣肘することもありません」
一瞬だけ頬を膨らませてから、サナは諦めた様に目尻を下げて笑みを零した。「しょうがないなぁ」と言外に言われた気がした。
口を斜めにして返すと、彼女は宙に視線を彷徨わせた。自分には何も見えないが、彼女には何かが見えたらしい。さっと一歩後ずさると、彼女は頭を軽く下げた。
「もう行かないと」
「また会えますか?」
「うん。きっと、そう遠くないうちに」
「情報も教えてもらわないとだからね」と言い足して、サナは背中を向けて歩き出した。彼女は飯屋の入り口の近くで立ち止まり、首だけで振り返る。
「それじゃ、また」
「ええ。また」
ひらひらと手を振りながら、彼女は店から出ていく。外はまだ雨。小走りになった彼女が往来を左に曲がるのが見えた。あの先は袋小路のはず。だが、きっとその方が彼女にとっては都合がいいのだろう。
追いかけようとは思わなかった。彼女の背中が消えるまで見送り、長椅子に腰を下ろす。卓に置いておいた碗を手に取ると、中身のお茶はすっかり冷めてしまっていた。ぐい、と喉を通すと、むしろその冷たさが心地良い。
ぱたぱたと台所から足音が聞こえる。サナがいなくなったのを見計らってか、女将が満面の笑みを浮かべてこちらに駆けてきた。熟達の足運びで間合いを詰めた彼女にそのままばんばんと背中を叩かれる。
「ちょっとちょっと、可愛い子だったじゃない! よっ、色男!」
「なんで女将さんが嬉しそうなんです?」
「そりゃねえ、剣術一筋で浮いた話のひとつもなかったクロウさんに、ようやく春が来そうなわけなんだから! あたしはもう、このままイスルギのご隠居みたいにどっかの山で仙人みたいになっちまうんじゃないかって心配で心配で」
「それも悪くないですね」
「なに枯れたこと言ってんだい! いいかい、クロウさんも憎からず思ってるってんなら、絶対に逃がすんじゃないよ!」
逃がさない、か。思わず苦笑が浮かぶ。なんとも難題ではないか。
あれやこれやとひとしきり助言を言い連ねた女将は、「そうそう、食事だったね」と思い出したように呟くと蜻蛉返りに台所に戻っていった。無闇に叩かれた肩を軽く撫ぜる。冷え切ったお茶で再び喉を潤して、ぼんやりと外を眺める。降りしきる雨の粒が、線となって曇天の空から墨を引いていく。
思考は過去に飛躍した。
鮮やかに閃いたのはゴンザの太刀筋。流星のように速く、巌のように強い。
不抜、不迷、ゆえに不壊。剛剣の極致を夢想する。
ゴンザは過去に戻った。己の戦場に戻ったのだ。なればこそ、その剣に迷いはなく、心技は一致にあったはず。
主君のために振るう剣こそ己の剣である、とゴンザは語った。
その本懐を、彼は果たしたのだ。
「羨ましい、のかな」
何故、剣を振るうのか。その答えを得て、過たずに果たす。
剣の道を生きる者として、その結実には眩しいほどの憧憬があった。
彼の至った地平に果たして自分は辿り着けるのだろうか。
ゴンザの生きた時代から百年が経っている。その間、どれだけの剣士がその境地に至ったのだろう。あるいは、どれだけの剣士が道半ばで倒れたのだろう。
前途は不明。歩みは遅々。時の流れすらも迷路の如し。
それでも、歩いていくしかない。
自分は、そう生きていくしかない。
ただひとつだけ。
本気のゴンザと立ち合うことが出来なかったこと、それだけが心残りだった。
ふと、そう考えている自分に気付いてしまう。
まったく……。相も変わらず剣にいかれている。
自然と眉が斜めになる。結局、それが己の性分なのだろう。
今は秋。
あらゆる春は、まだ遠い。




