26
降り出したのは霧雨だった。
降るというよりも、煙ると言ったほうが正確か。全体としては間違いなく地面に向けて落ちているはずなのに、薄絹のような白靄は、ときに浮き上がりながら目の前で不規則に舞い踊っている。
それはつまり、水滴を運ぶ風がそう流れているということ。霧雨は風の動きを可視化したに過ぎない。天候に関わらず、世界には常に風が吹いているはずである。しかし、偏在するはずの風を私たちは直接に見ることが出来ない。肌に感じる以上の風を見ようとするには、何らかの標が必要だった。
(もしも時間に色を塗ることが出来たら、その動きを認識できる?)
霧の中を潜り抜けてもその重さを感じることは無い。水を含んだ着物が肌に引っ掛かるようになって初めて、身体に受け止めた水の量と重さを知った。いつの間にか髪も重い。足の指先も冷えている。
しかし、薄濡れの紅葉の艶やかさを見ることが出来た。雨中に生える紅の美しさは、得も言われぬ。濡れ鼠の対価としては、存外に悪くない。
麓まで下り、市中に入ったときには雨は小雨に変わっていた。激しくは無いが、さりとて止む気配もない。長屋まで走ろうかとも考えたが、どうせ待っているのは冷え切った一人住まいだけである。それならいっそ、と往来の飯屋の暖簾を潜った。
店に入ると、ぼんやりと腰掛けて外の雨を眺めていた女将と目が合った。彼女は目を丸くして相好を崩す。
「いらっしゃい! って、あら、クロウさんじゃないの。久しぶりじゃない?」
「どうも。ご無沙汰しています」
「今帰ってきたところ? こんなところで降られるなんて運が無いねえ」
馴染みの店である。長椅子と机が二組ずつ並んでいる。女将が「よいしょ」と腰を叩きながら立ち上がった。入れ替わるように椅子に腰を下ろす。濡れていることもあって、入り口に近い長椅子の端を選んだ。
「寒かったでしょ? 熱いお茶でいいかい?」
「お願いします。それと、なにか腹に入れるものを」
「はいはい。おーい、あんたぁ!」
女将が奥まった台所に入っていく。飯屋の店主は彼女の旦那だ。台所から出てくることは少ないが、なかなかどうして美味い飯を作る。庵から近いこともあり、自分も含めてタツミの弟子はよくこの店の世話になっていた。
茶を待つ間、暖簾の向こうの往来を眺めていた。人の行き来は忙しないが、ざあざあと続く雨音がその喧騒を掻き消している。普段よりもかえって静けさを感じるほどだった。
不思議な音である。ひとつひとつは雨が地面や木々で弾ける音のはずなのに、渾然一体、いつまでも連続した音のように聞こえてくる。水音と呼ばずに雨音と、最初に呼んだのは誰なのだろう。
「はいお待ち。うんと熱くしたから気を付けなよ」
「ええ、ありがとうございます」
「飯はもうちょい待ってくださいな、っと」
女将の視線が外に向かう。自分もそれに気付いた。
雨中から店の中に誰かが飛び込んでくる。小柄な人影だ。半ば跳ねるように敷居を跨いで、ぴたりと止まる。ずぶ濡れの一歩手前という様子。浅葱色の着物は肩を中心に濡れそぼっている。屋根の下に入ってほっとしたのか、闖入者は掌を膝に置いて大きく息を吐いた。
「うわぁ、びしょびしょ。ついてないなぁ、もう」
人影は身体を捻って自身の濡れ具合を確かめている。
その、少女のような顔立ちを、私は認識した。
目が合う。
彼女がはにかんだ。
「ちょっとちょっと! あんた、見ない顔だけど、どこの娘だい? こんなに濡れちまってまぁ! ほら、手拭い持ってきてやるから、そこに座ってな!」
「あ、すみません。その、雨具の用意がなくって……」
「言い訳はいいからさっさと座る!」
世話焼きの女将が彼女に詰め寄って一気に捲し立てた。女将に肩を抑えられて、彼女は困ったように頬を掻きながら私の隣に腰を下ろした。手を伸ばせば届く距離。彼女の細い指がしとどに濡れた髪を掻き上げる。肩まで伸びた黒髪から水が浮き、白い指先から滴った。
「雨が降るって、わからなかったのですか?」
「気象観測のデータ集積はもっとずっと先。この時代、一日単位の天候の記録はあんまり残っていないからね。予報をしようにも衛星だってないし、こればっかりは出たとこ勝負」
「今日は飛ばしてますね」
「ブレーキを忘れてきたのかも」
口の端を持ち上げて、サナが微笑んだ。
動悸が早まるのを自覚した。不意打ちである。早急に体勢を立て直さなくてはならない。彼女に悟られぬよう小さく息を入れ替え、こちらも笑みを返す。頭の中で足軽が慌てて柵を立てている。防御力は、甚だ不安だ。
「ん? なんだい、このお嬢ちゃん、クロウさんの知り合いかい?」
「ええ、まあ。女将さん、少し彼女と話をしたいのですが……」
「あらあら、まあまあ! そりゃあもちろん。どうぞどうぞ、ごゆっくり」
棚から引っ張り出した手拭いをサナに手渡して、女将は意味深な笑みを浮かべて店の奥に引っ込んだ。なにか誤解がありそうだが、とりあえず今は都合が良い。
「うーん、おかしいな」
「何がですか?」
「クロウさんが驚いてない」
「驚いてますよ」
「全然、そうは見えないな、って話」
彼女は唇に指を当てて首を捻る。
「わたしが会いに来るって、知ってたはずもないよね」
「もちろんです」
「だったらさ、わあって、もっと驚いてくれてもいいんじゃない?」
「サナさんの方から会いに来るとは思ってませんでした。けど、会いに行く方法はずっと考えてましたから。驚いても、それより、嬉しいですね」
「……」
サナは目を丸くして、ぽかんと口を開き、それから頬を膨らませてぐっとこちらを睨みつけた。面白い遷移である。視線から何らかの抗議を感じる。こちらが素知らぬ顔でお茶を一口飲むと、彼女は眉の力を抜いて溜め息を零した。
「そういうこと、素面で言っちゃう? キャラクターが違くない?」
「少し心境の変化がありまして。思ったことははっきり口にしようかと」
「誰にでも?」
「あなただけに、です」
「うわぁ」
サナは大袈裟にのけ反った。
「ちょっと、もう、恥ずかしいなぁ」
「サナさんが? それとも、私が?」
「両方」
彼女はのけ反ったままの姿勢で天井を仰ぐ。釣られて見上げてみても、もちろん何もない。
「それで、どうして会いに来てくれたのですか?」
「……うん。じゃあ、本題に入ります」
天井から天上に飛んでいたサナの視線が戻ってくる。長椅子の上で居住まいを正し、彼女はこちらに頭を下げた。
「先日はご協力ありがとうございました。あの子と彼が無事に帰ることが出来たのも、クロウさんのおかげです」
「いえ、礼を言うのはこちらの方です。私ひとりではきっと事態の解決まで至れませんでした。無事に依頼を終えられたのもサナさんの知識があってこそです」
「……えっと、怒ってません?」
「怒ってません」
彼女が気まずそうに尋ねる。最後に短筒を持ち出した件についてだろう。
「避けられなかったのは、私の未熟です。お気になさらず」
「未熟、って……。そういうレベルなのかなぁ」
片頬を引きつらせて微妙な笑みを浮かべる彼女を見て、ふと思い当たった。
自分とサナとで体力的な差はそれほどないように思える。一方で、扱う道具の性能に於いては、文字通り、隔世の感があった。どうやら人間の進歩は肉体的な変化ではなく、技術的な革新に偏っているらしい。
道理といえば道理である。どれだけ身体を鍛えてもそれは己の一代限りのことであるが、技術と知識であれば次の代に継承することが出来る、ということだろう。ともすれば、道具が便利になることで使われなくなる技能もあるかもしれない。
……ならば、もしも。再び未来の人間と戦うことがあるのなら。
「狙うべきは、その間隙か」
「え?」
「なんでもありません。続きをどうぞ」
「続き……、そう、ゴンザさん。あの後、彼には元の場所に戻ってもらいました。それ以降、わたしたちからは何も干渉していません」
口を結んだ彼女がこちらを見る。小さく頷きを返した。
「ここからは記録を調べてわかったことです。まず、キタガワ家は幕府が開かれるまで存続していました。ニシヤマ家との小競り合いはずっと続いていたようですが、どちらかが滅亡するとか、そういった結末には至っていません」
「あれ? なら、あの隠れ家にあった守り刀は……」
「キタガワ家の当主が遺した手記に、ある戦の顛末が記されていました。ニシヤマ家の奇襲により当主が追い詰められたところ、殿を務めたために生死もしれなかった家臣がどこからともなく敵陣を急襲し、その隙に当主が態勢を立て直した、ということがあったみたいです」
「……それって」
驚きに目を瞠る。サナは口元を和らげた。
「その侍は忠義の証としてキタガワ家家伝の守り刀を所望したそうです。それ以外の褒賞は一切不要、と言い切るほどの熱望振りだったとか。ともあれ、危地を救われたお殿様はいたく感動して、望み通り彼に守り刀を下賜した、と」
「……」
「それ以降の刀の行方を示す記録はどこにも残っていませんでした。だから、きっと、その侍が何か思うところがあってあの洞窟の長持に守り刀を安置した、ということなのでしょう」
言葉が途切れ、視線がぶつかる。彼女は目を逸らさない。ただ静かに微笑んでいる。嘘はないように思えるし、嘘を吐く理由も見当たらない。
つまり、未来を知ったゴンザが未来にいる過去の自分のために道標を残した、ということか。あるいは、彼からしてみれば『主家が滅んで宝刀が隠れ家に遺される』という可能性に対して先手を打つつもりだったのかもしれない。いずれにせよ、洞窟の長持に刀が入ってさえいれば、確かに私たちの視点に於いては矛盾が無くなる。
しかし……、これでは、因果が循環しているのではないか。
「難しい顔してる。納得できない?」
「……最初の。短刀が洞窟に置かれた最初の理由は」
「わからない」
「わからない、って……」
「うん、確かにゴンザさんの行動はループしてる。自分の行動の結果を見てから巻き戻ってその行動を起こす、そういう円環だね。だからクロウさんの言う通り、この循環に至る『最初の理由』っていうのが何かあるはず」
指で宙に円を描きながらサナは語る。そうだ、そうでなければ理屈が合わない。私が頷くと、しかし、彼女は指でばってんを作った。
「でも、それはもう観測できない。する必要もない。掘り返そうとするのはむしろ危険とも言える。時間の流れは現在の形で安定している。大事なのは、その安定」
「知りたい、とは思いませんか?」
「今の世界を壊してでも? 時間の破綻がどれほど簡単に起こるのか、わたしにも正確にはわからない。もしかしたら、もう世界は何度も壊れていて、単にそれを認識できていないだけかもしれない。だからといって、この奇跡のような均衡を崩すわけにはいかない。守っていかなくちゃならない」
サナが微笑む。
最も美しい笑みだった。
「それが、わたしのお仕事」
「……わかりました。いえ、どちらにしろ、私がどうこうできることではありませんけど。ただ……、そう、素敵な仕事ですね」
「ありがとう」
彼女が立ち上がる。追いかけて、自分も立ち上がった。
掌が差し出される。少し迷い、それを握り返した。
細い指はしっとりとしていて、少し冷たい。けれども、血の通う温かさがある。
武器と敵意を持たないことを表明するのが握手の意味だという。けれど、自分の指先にはもっと沢山の想いが宿っている。言葉に尽くすことはできない。目の前で微笑む彼女もそうであればどれほど嬉しいだろうか。
「それで、えー、ここからが本題なんだけど」
「え?」
サナの笑顔が形を変える。悪戯を申告する童のような、気まずい困り顔。思わずぽかんと呆けたこちらから視線を外して、彼女はもごもごと口を動かす。
「その、ね? かまいたちはきちんと連れ帰ったのよ。でも、その後になって別口の捜査の結果が返ってきて……」
沈黙。それから、鯨みたいな溜め息。
首を二、三度振り、彼女は気合を籠めて目線をぶつけてきた。
「この時代に、まだ他の妖怪がいるみたいなの」




