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それから数日。
いくつかの宿場を経由して、育ちの故郷に帰り着いた。往路を綺麗に逆さまにした行程で、寄り道は一切無し。実のところ、私にとってそれは珍しいことだった。
寄り道の代わりに、ずっと考えていた。
時間についてだ。
私は時間の正体を知らない。
太陽や星の動きで時の流れを知ることは出来る。あるいは、流れる水や吹き抜ける風によっても。けれどもそれは、あくまでも尺度であって、時間そのものを見ているわけではない。太陽の見えない暗闇に眠っていたって、時間は粛々と動き続けているのだから。
時間は世界に張り付いている。それも、見えない裏側に、ぺったりと。
不可視にして、絶対。
どうして、自分は今までその在り方に疑問を持たなかったのだろう。
剣術に於いて、早さと速さはひとつの窮極である。見切り、判断、体捌き、剣筋……、あらゆる要素の速度が己の有利に直結する。
だが、その速度と呼ばれる業も、時間の存在に裏打ちされたものだ。誰にとっても時間の流れ方は平等である、という前提があるからこそ、私たち剣士は速さを求めるのではないか。もしも時間の流れ方を自在に操る術があるとしたら、私たちの速さにどれほどの価値があろう。
もちろん、人間が時間を支配することはできない。理外の御業だ。だから、その思考は妄想の類であり、一過の杞憂と片付けるのが正常な判断である。
本当に?
その自明の理を、私は疑ってしまっている。
人間は時間を支配できない。今の時代に於いて、それは真実だ。
では、百年か二百年、否、千年か二千年後の技術ではどうだろう。人間は未来永劫に時間の正体を知ることは出来ないと、どうして言い切れようか。
生きて、死んで、繋いで、また死んで。その連鎖の果てに、ほんの指先だけでも、時間の真実に届いたとしたら。
いずれ、遠い未来の人間は、時間を遡る術を手に入れてしまうのではないか。
サナの顔を思い浮かべる。
彼女の視点を想像してみた。
サナの故郷がどれほど先の未来なのかはわからない。しかし、恐らくは十年、二十年ではないだろう。彼女の時代に於いて、現在の人間はすべて鬼籍に入っているはず。もちろん、私も含めてだ。
遥かな未来から彼女が時間を遡ってくる。
その瞬間。
彼女の跳躍に合わせて、世界そのものも、時間を遡るのではないか。
私の時代は彼女にとっては過去であり、文字通り、既に過ぎ去った時間のはず。しかし、その過ぎ去った領域に彼女は降り立ったのだ。
すると、どうなるか。
この時代に生きる人間は、未来に死んだ人間だ。サナが未来の視点を持つ以上、私たちも彼女の着地点まで遡ったのと同義なのではないか。死んだはずなのに、蘇って、若返って……、逆しまに歩みを戻してきたのではないか。
唯一、死ぬまで生きたという、未来の記憶だけを置き去りにして。
なかなかに愉快な想像だと思う。あれやこれやと考えているうちに、自然と口の端が持ち上がった。
時の流れを川に見立て、個人個人が舟で流れを下っているとしよう。その舟の中から、たった一艘でも流れを遡ったのであれば、辻褄合わせに他の舟も川の水ごと上流に遡ってしまうわけだ。
つまり、遠い未来であろうとも、ひとたび人間が時間を遡る術を手に入れれば、過去の人間にも時間を遡っていた可能性が生まれるのではないか、と。
「サナさんに黒法師、ゴンザ殿……。これで、もう三人」
ゴンザはともかく、黒法師もサナと同じ未来の人間に違いない。
順を追って視点を動かすのであれば(そもそも順序という概念が存在するのかという疑問はさておき)黒法師が時間を跳んだときに世界は百年前まで遡り、再び未来まで進んで、今度はサナが跳んだのに合わせて現在まで遡った、という流れになる。
……となれば、今の私は三回目の今を生きているということになるのか。
存外、時間を遡るというのは、さほど珍しいことではないのかもしれない。
ただ単に、気付いていないだけなのだ。
サナや黒法師の他にも時間を跳躍した者がいるのであれば、真実、三回と言わず何度も何度も私たちは今を繰り返しているはず。
もしかしたら……、時間は戻らないと知っているのに「昔に帰りたい」と誰しもが簡単に口にしてしまうのは、記憶が残っていなくても魂が時の可逆を覚えているからなのかも。
「なんて、ね」
口を斜めに呟いて、街道に立ち止まる。市中に入る少し手前である。
空は鈍色の雲に覆われている。やや湿った空気。このまま真っ直ぐ進めば拠点の長屋に辿り着くが、そちらには向かわずに街道を右に逸れた。町の外縁を迂回しながら北に見える山を目指す。町にほど近く、急峻ではないが木々の深い森山である。毎年、今の時節は山全体が紅色と黄色に染まっている。
その中腹にタツミの庵がある。
凸凹の目立つ細道が続いている。山菜を取りに踏み入る町人もいるが、それはごくごく少数。この道を通る大抵は、タツミに用向きのある者ばかりである。当然、自分も幾度となくここを通っている。初見であれば見失いかねない怪しい山道も、もはや慣れたものだ。
空を覆う雲は厚みを増しつつある。くすんで見える紅葉を潜り抜け、山中の小広場に辿り着いた。山林の切れ間に踏み均された地面が水平に広がっている。ちょっとした庭園ほどの広さだが、飾り気はまるでない。
その片隅に質素な山小屋があった。
茅葺の屋根が薄く煙っている。燻蒸だ。どうやら留守ではないらしい。胸を撫でおろして、庵の入り口に近づいた。少し緊張している。しかし、その負荷が体を末端まで温めていた。木戸は閉められていたが、こちらが開けるよりも早く声が掛かる。
「誰だ?」
「クロウです。只今戻りました」
「おう」
師の言葉は、いつも短い。
木戸を開けると、思った通り、タツミは囲炉裏端に座って灰をかき混ぜていた。白髪に白髭、皺くちゃの肌。一見して枯れ木のような老人だが、しかし、その背筋には芯が通っていて、ひとつひとつの所作には気力が充溢していた。細身の瞳は猛禽の鋭さを彷彿とさせる。その首が動き、庵の入り口で立ち止まった私を鷲の目が捉えた。
「どうした?」
「此度の仕事は終えました」
「うん。何を斬った?」
「かまいたちを斬りました」
「……ほう」
タツミの瞼が小さく持ち上がった。目を丸くした、のだろうか。師にしては珍しい表情だ。
本心か、それとも惚けているのか。表情からは真意が読めない。堪らず、彼に問い掛けた。
「どこまで知っていたのですか?」
「知っていた、とは?」
「かまいたちの正体について、です」
タツミの指先で、火箸が円を描く。
「何も」
「何も?」
「下調べはした。侍が消えたと聞き、そ奴が質屋に銘刀を売ったとも知った。だが、近隣の集落に侍の目撃談はない。故に、宿場の近くに潜んでいると読んだ」
「……」
「妖怪噺は勘違い。侍を見つけ、倉荒らしの獣を始末すれば依頼は終わる。山に慣れたお前向きの仕事だ。……そう、思ったのだがな」
そう言ってタツミはくつくつと喉を鳴らした。
その様子を見て、肩の力が抜けた。実のところ、タツミは『未来』を知っていてその上で自分に依頼を振ったのではないかと、密かに疑っていたのだ。もしそうであれば、彼がサナについても何か知っているのではないかという僅かな期待もあった。
結局、それはどちらも己の考えすぎだったらしい。落胆したような、安堵したような、不思議な心持ちだった。
「それで?」
「え?」
「かまいたちは、強かったか?」
「ああ……。はい。尋常の獣ではありませんでした」
「ふむ?」
それから、かまいたちとの立ち合いの顛末についてタツミに報告した。師は終始、興味深そうに瞳が輝かせていた。これもまた珍しい。
ただ、サナとゴンザ、それから黒法師については、報告の中に登場させなかった。語るべきではない、広めるべきではない、と自然に思考していた。タツミに話せばまた別の知見を得られたのかもしれない。それでも、口を噤んだ。
何故か。彼女が口にした『るうる』が引っ掛かったからか、それとも、自分だけの秘密にしておくことに価値を感じたからか。明確に言語化できない。直感的な判断だった。
「……以上です」
「うん。面白かった」
「面白い、ですか?」
「想定外の出来事は、いつだって面白い」
「そういうものですか」
「お前は面白くなかったか?」
「……」
率直に言えば、面白かったし、楽しくさえあった。サナもゴンザも今まで出会ったことのない価値観の持ち主で彼女たちの意見は常に刺激的だったし、かまいたち(と黒法師)との立ち合いも他に類を見ない経験となった。たったの一日にも満たない出来事であったが、今でもその情景ははっきりと思い出すことが出来る。巨匠の掛け軸よりも鮮やかだ。きっと、この先も忘れることはないだろう。
しかし、それを面白いの一言に集約するのは横着が過ぎる。見透かしたようなタツミのしたり顔に頷くのもしゃくだった。口を横に結んで彼を睨むと、揶揄うような笑みが返ってきた。
暫し視線をぶつけ合い、結局、こちらが根負けした。小さく溜め息。一歩下がり、一礼。
「そろそろ、失礼します」
「おう」
タツミはもうこちらを見ていなかった。視線の鋭さだけはそのままに、囲炉裏の灰との格闘に戻っている。肩を竦めて、踵を返し、木戸を出たところで声が届く。
「雨が近い。山を下るなら、急ぐことだ」
「……はい」
もう一度、溜め息。
木戸を閉め直す、その寸前。タツミの柔らかい笑顔が、一瞬だけ見えた。




