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目覚めは最悪だった。
最初に感じたのは背中の痛み。ごつごつとした違和感に寝返りを打つと、全身にごりごりと痛みが走った。佩いたままの愛刀が固い音を鳴らす。無意識に「ぐお」と潰れた声が漏れる。
そこで漸く、目を開くことができた。視界がひっくり返っている。仰向けで眠っていたらしい。背中に伝わる硬質の痛みは、剥き出しの地面によるものだった。その硬さと冷たさを支えにして、ゆっくりと身体を起こす。
「痛っ」
立ち上がると頭の芯がぎしぎしと痛んだ。思考は蛞蝓の如く遅々と這っている。頭を二、三度振り、その尻を蹴っ飛ばす。
大きく息を吐いて、周囲を見渡した。岩壁に囲まれた開けた空間に、天井から僅かな光が射しこんでいる。見間違うはずもない。記憶の最後と変わらぬ、秘密の洞窟だった。
「どうにも、ままならないな」
呟きが空洞に反響して返ってくる。無論、応える者は誰もいない。
ふと、足元に何かが置いてあることに気付いた。
寝ぼけの焦点を合わせる。鞘に収まった日本刀だ。自分のものではない。微かに見覚えのあるそれは、件の侍のものだった。
さらに目を凝らすと、地面に置かれたその鍔を重石にして、二つ折りの和紙が添えられていることに気付く。拾い上げ、中身を確かめた。
「……これまたご丁寧なことで」
和紙には「遺体は埋葬しました」と簡素な一文だけが書かれていた。達筆ではない。毛筆の圧が安定しておらず、書き手の苦労が覗き見えた。
小さく嘆息し、刀も拾い上げる。周囲を見渡すと、書置きの通り、侍の亡骸はなくなっていた。影法師の遺体も消えている。当然、ゴンザやかまいたちの姿も見当たらなかった。唯一、朽ちかけの長持だけが残されていたが、その中身も空っぽだった。
「ここには、もう、何もない」
口から出た言葉に真実は無い。
己の立つ大地がある。壁が、天井が、石柱がある。呼吸のできる空気もあるし、光も、影も、目に見えない小さな虫だっているだろう。それでもそう言ってしまったのは、残されたものよりも消えてしまったものに価値を見出しているからに他ならない。
結局のところ、私は世界を自然のままに捉えることができていない。五感を通して得た光景も心の在り方によっていくらでも変質してしまう。その変質は私という人間の根本であり、同時に、剣士としての未熟の証明でもあった。在るがままの状況を捉えられないようでは、精確な立ち居振る舞いなど望むべくもない。
「……帰ろう」
そう呟いて、洞窟を後にした。侍の遺品を携えて隘路を抜け、渓流に戻る。見上げると、太陽はまだ高い位置にあった。午を過ぎて傾き始めた頃合いと見える。どうやらそれほど長く眠っていたわけでもないらしい。
川辺を下り、宿場を目指した。淀みなく流れる水の音が足を急かす。それもまた己の心が生み出した錯覚である。本当は焦る理由も急ぐ必要も存在しない。それでも、動き出した足は止まらなかった。言葉を交わす供もない。無言のまま早足で川沿いを進んでいく。
気が付くと、宿場の入り口に立っていた。
道中の記憶ははっきりしない。多分、無心で歩いていたのだろう。目にしたはずの風景もまるで霞のように曖昧。それを自覚して、特大の溜め息を吐いた。
まったくもって不覚である。
「行かないと」
仕事を終わらせなければならない。
真っ直ぐに歩き、宿場の中心にある旅籠の暖簾を潜る。玄関から上がったところで、旅籠の主人と番頭が世間話をしていた。二人は三和土に立ったこちらに気付き、揃って目を丸くする。
「おや、クロウ殿ではありませんか。そのような所で立ち止まって、如何されました? ささ、どうぞお上がりください。番頭、すぐにお茶を……」
「いえ、結構です」
好々爺然とした表情の主人を遮り、片側の眉を傾けた彼に侍の遺刀を手渡した。有無を言わさず押し付けたと言ってもいい。反射的に受け取ってしまった主人は怪訝そうに首を傾ける。
「あの、これは?」
「行方不明になった侍の持ち物です」
「と、言いますと」
「彼は、既に亡くなっていました」
主人が大きく目を見開いた。心底驚いている様子に演技は無い。しかし、それも一瞬。持ち上がった瞼はあっという間に下がり、納得したように伏せられた。それもそうだ。侍が行方を晦ませてから既にひと月。こういった結末も考えなかったわけではないだろう。
「左様ですか。して、彼は何故?」
「……」
率直に言って、事の顛末を説明するのはひどく億劫だった。そも、事実を語ったとして信じてもらえるとも限らない。それほどまでに常識外れの経験だった。それに誰彼構わずサナの事情を吹聴することは、他ならぬ私自身が避けたかった。
「かまいたちに討たれたのでしょう」
「は?」
「倉を荒らす獣も、もう現れません」
「え、いや、それはどういう……」
疑問を孕んだ曖昧な愛想笑いが主人に浮かぶ。探るようなその視線に、背中を向けた。
「妖怪退治は終わりました。仔細あればタツミの庵に。では、これにて御免」
「あ、ちょっと!」
突っ慳貪に言い放ち、敷居を跨いで外に出る。背後から届いた声は聞き流した。
依頼は果たした。宿場の問題は解決する。何も問題はない。過程など、結果の前には些細なことだ。あとは依頼人がお上と折り合いをつければいい。そういった言葉が心中に浮かぶのは、自分の言い訳だろうか。
見上げた空が橙色に染まり始めている。宿場に長居する気にはなれなかった。留まる理由がない。今から歩き出せば、日が完全に沈む前には隣の集落に間に合うはず。
地面に張り付いた足を持ち上げて、一歩目を踏み出す。その背を、呼び止められた。
「お待ちを、クロウ殿!」
「……なにか?」
慌てた様子で旅籠から出てきたのは番頭の男だった。身体の向きは変えず肩越しに彼の顔を見る。額を拭う仕草。玄関からここまで、汗などほとんど流していないだろうに。
「その、ひとつだけ。お部屋の具足のことなのですが」
「ああ……、そうか。いや、処分はお任せします」
言われてからゴンザの具足の存在を思い出した。確かに出立に際して預けたままだった。だが、あれを身に着ける者はもう存在しない。持ち主が取りに戻ることも最早あり得ないだろう。かといって、私が貰い受けるのも道理に合わない。となれば結局、旅籠に処分してもらうより他はない。
「やはり、ご存じではありませんでしたか」
「……? どういうことです?」
しかし、番頭は私の言葉を聞いて得心したように頷いた。
「実は、ほんの暫くしばらく前にですね、お連れの娘さんが受け取りに来たのですよ」
「え?」
「おひとりでした。ひとまず預かり物を確認してもらおうと、具足を保管していた部屋にご案内したのですが……」
ぱっ、と番頭が顔の横で掌を開いた。
「ちょっと目を離した隙に、どろん、と」
「どろん」
「ええ、娘さんも具足も、煙のように消えてしまって。これはいったいどういうことなのかと……」
困り顔の番頭が腕を組んで首を捻る。
すとん、と何かが腑に落ちた。
「……まったく、抜け目ないな」
否、抜けていたのは自分の方か。目が覚めてからすぐに宿場を目指していれば、もしかしたら彼女と鉢合わせることが出来たかもしれないではない。
急ぐ理由は無い、なんて気取ったことを考えているからこうなるのだ。もっと感情的になって駆けていれば良かった。冷静になろうとばかりしていて、結局、遠回りである。
そう思うと、なんだか笑えてきた。
「あの……、クロウ殿?」
「いや、失礼。大丈夫、荷物はそれで問題ありません」
「はぁ。なら、良いのですが」
「ありがとうございました」
番頭に向き直って一礼する。顔を上げると、彼は狐に摘ままれた表情だった。別れの言葉を告げ、再び彼に背を向ける。
気負いなく、地面を蹴った。真っ直ぐに街道を走り抜ける。
熱を持って動き出した身体は、しばらく止まりそうになかった。




