23
かまいたちが瞼を閉じてからも、なかなか刀を収めることができなかった。完全に動きを止めたのか否か、どうにもに判断できなかったのだ。
それというのも、断ち切った尾の断面である。白い雷光は見間違いでもなんでもなく、今もなお尾の末端でぱちぱちと迸っている。不規則に明滅するそれが洞窟を怪しく照らすたびに、かまいたちの輪郭も脈動するように揺らぎを見せるのだ。
そう揺らぎに意志が宿っていないと、どうして思えるだろうか。
「もう眠ってるよ」
サナの素っ気ない声が響く。こちらが刀を構えたまま気を張っているのを尻目に、彼女はかまいたちに近づいてその背中をそっと撫ぜた。不可思議な毛並みを梳かれてもかまいたちが起き上がる気配はない。それを見て、漸く腕の力を抜くことができた。
大きく息を吐き、ひとまず懐から手拭いを取り出して刀身を拭うことにする。血濡れのまま鞘に収めることはできないからだ。鍔元から切っ先まで強く拭うと、手拭いはあっという間に赤黒く染まってしまった。
手拭いの匂いを軽く嗅ぎ、思わず顔を顰める。血の匂いに混じって、油のような匂いがした。付着した汚れには、血液とは違ったぬめりがある。かまいたちの体液だろうか。落ち着いた場所に戻ったら、入念に手入れせねば。
可能な限り汚れを拭い、刀を収める。馴染みの重みを腰に感じ、全身の熱が冷める感覚があった。
「……」
その様子をサナがじっと見つめていた。黙っているが何か言いたそうでもある。
「ええと、何か?」
「……あのね、いくら注意を惹いて、って言ったってね、普通は遠くから石を投げたりとかそういう手段を想定するわけで。クロウさんがいきなり突撃したときは、心臓が止まるかと思ったわけよ」
「いや、そう言われても」
「ううん、怒ってるとか責めてるわけじゃないの。ただ、なんて言うのかな……、そう、人間って凄いんだなぁ、とか思っちゃったり」
「なんですか、それ」
彼女の言い回しに、思わず吹き出してしまった。言われみれば確かに多少の無茶はしたかもしれない。しかし、勝算はあった。少なくとも投石で獣の気を惹くのよりは余程ましな行動だっただろう。ちょうど良い大きさの石は近くに見当たらなかったし、あっても暗がりの中で真っ直ぐ投げられるとは思えなかった。
なるほど、そのうち石投げを練習しておくのも良いかもしれない。頬を緩めながらそんなことを思う。サナも釣られてくすくすと笑っていた。
「これで終わりですか?」
ひとしきり笑ってから、サナに問う。
行方不明の侍の消息は(最悪の形とはいえ)知ることができた。食料庫を荒らす妖怪も無力化された。
そうだ。もうすぐ、終わりだ。
自分に任された仕事はほとんど決着に近い。あとはサナがかまいたちとゴンザをどうするのか、それを見届ければいい。
あっけない、とは思わない。けれども、ほんの少しの寂寞がある。ひょっとしたら、名残惜しいのかもしれない。おかしな話だ。事態が解決するのは、間違いなく喜ばしいことのはずなのに。
あまり覚えのない感情だった。らしくない、と思う。それでも胸に細波が立つのは、サナともゴンザとも、これが今生の別れになる予感があるからだろうか。
「そう。これで、終わり」
彼女が頷く。浮かんだ微笑に寂しさが見えたのは、私の願望だろうか。
かまいたちを撫でていた指が持ち上がる。白い、しなやかな指だ。
その指が流れるようにもう片方の手と合流して……。
両手で構えた短筒をこちらに突き付けた。
「サナさん?」
彼女はもう、笑っていない。
「お願いがあります」
かしこまった、否、事務的な口調だった。
筒先に揺らぎはない。引き金には既に指が掛かっている。
「そのまま背中を向けて、洞窟から出てください。それを確認して、わたしたちは退去します」
「……かまいたちを連れていくのを、きちんと確認させてもらえるのでは」
「ごめんなさい。なるべく嘘は言わないようにしていましたけど、その約束だけはわたしの事情を優先しました。跳躍の瞬間を見られるわけにも、あなたを巻き込むわけにもいけません。ですが、この子はわたしが責任を持って連れ帰ります。ゴンザさんも元の時代に送り届けると約束しましょう」
視線に芯がある。彼女に迷いはない。
距離は近い。彼女が撃つよりも早く、短筒を封じることは可能だろう。
……困ったことに、そうする気はまるきり起きないのだが。
「信じてもらえませんか?」
「……ずるいですよね、その言い方。ええ、降参です」
苦笑して、肩を竦めた。サナに何の反応もないのが、少し残念。彼女に顔を向けたまま二、三歩下がる。間合いの利を捨てた。もう腕は届かない。けれど、それでも良かった。
「最後に、ひとつ聞いても?」
「答えられることなら」
「サナさんの故郷について、です」
「……」
沈黙。彼女の表情が僅かに固くなった。
次の言葉がなかなか出てこなかった。視線が彷徨う。遠くに伏せるゴンザ、彼女の傍で眠るかまいたち、侍の亡骸、黒法師の遺体、朽ちた長持と天井から漏れる光。そのすべてを見た。
自分の足場がはっきりした気がする。もちろん錯覚だが、喉を動かす切っ掛けには十分だった。
「サナさん、あなたは」
賢い選択ではない。彼女の指示に従うのであればこのまま外に出るべきだったし、そうでないなら距離を離す前に彼女を組み伏せるべきだった。ここで立ち止まるのは、なにもかもが中途半端だ。
けれど、心の内から湧き上がった言葉を止めることはどうしてもできなかった。
「あなたは、今ではない、ずっと先の未来から来たのですね」
質問ではなく、確認だった。
サナも、黒法師も、あるいはかまいたちも。今の世においては、明らかに異質だ。いかなる名工や名医であっても、彼女たちが扱う短筒や薬品を生み出すことは叶わないだろう。かまいたちもまた同じ。尻尾の大太刀は自然に備わったものではない。動物の身体に道具を融合させるという、異様の技術の片鱗がそこに覗いていた。
「突飛ですよね。こんなこと、最初は思いつきもしませんでした」
「……」
「けれど、ゴンザさんが現れた。あれは、あなたにとっても想定外だったのでしょう?」
気のせいでなければ、ゴンザと遭遇してからの彼女は、自身の出自を察せらてしまうことを半ば諦めていたように思える。決定的な物言いは避けていたが、秘密を守るよりも事態の解決を優先していた印象だ。そうでなければ、彼を元の時代に戻せるなどと口にするはずもない。
サナは答えず、しかし、否定もしなかった。
ほんの少しの沈黙。お互いに瞳を見つめ合う。不思議と嫌な感じはしなかった。
絡んだ視線を先に外したのは、サナの方。短筒を構えたまま、目を伏せ、小さなため息。彼女はぎこちなく口の端を持ち上げる。
「ルールがあるの」
口元は笑っているのに、眉は泣いていた。
涙は無い。
「るうる」
「そう。わたしがどこから来たのか、気付いた人には、こうするっていうきまり」
白い指が引き金を引いた。
それを見た。
乾いた銃声が耳朶を震わせる。
胸を突き飛ばされる感覚。
よろめく。後ずさる。
胸元に細い痛み。
視線を落とす。
尻の膨らんだ針が、刺さっていた。
サナを見る。
その視界が、千々に罅割れた。
世界に亀裂が走り、広がり、無明の闇が迫る。
「さようなら」
サナが言った。
粉雪の如く、溶けて、沁みる。
そうか……。
彼女の引き金を、私が引いたのだ。
砕けた世界が黒に呑まれていく。
サナは笑っているのか、それとも、泣いているのか。
もう、わからない。
それでも、小さな意識の破片を搔き集めて。
足掻くように。
喉を震わせて。
「さようなら」
その言葉を形に出来たのか。
それだけが、気掛かりだった。




