20
それからどれほど歩いただろうか。
体感では半刻ほど。しかし、いつからか高く聳える崖が太陽を隠してしまったため、正確なところはわからない。
河原と呼べるほどの広さはもうない。渓流に沿ってごつごつした岩場を乗り越えながら進んでいく。川の流れは激しく、荒々しい。白く泡立つ川面からはその深さを推し量ることもできない。まるで獲物を呑む獣の顎のよう。ごうごうという音が崖に反射してやけに五月蠅い。
首筋に汗が滲む。日陰の涼しさが救いだった。
「ここだ。ああ、間違いない」
隠れ家といっても、建物があるわけではなかった。
不意に立ち止まったゴンザが指差したのは、大岩の陰に隠された崖の亀裂だった。洞窟だ。言われなければ気付かなかっただろう。縦方向に高く伸びた裂け目は、崖(つまり、峠道の通る山)をくり抜いて奥の方まで続いている。
入り口の横幅は一間もない。覗き込むと内部は暗く、足元さえ覚束ない。壁となる岩肌は鋭利で、触れるとざらざらとした感触を掌に返した。まるで牙。細長い隘路が蛇を連想させる。
「入り口はここだけなの?」
サナが問う。
「いや、奥にもうひとつ。キタガワ領内の古井戸から降りられる場所がある」
「あ、じゃあ、こっちが出口なわけか」
三人で横に並び、洞窟の奥をじっと見つめる。暗闇に慣らそうと目を細めると、足元で細い何かが光った。
拾い上げると、それは艶のある獣の毛だった。はっきりとではないが、見覚えがある。サナに手渡すと、彼女も頷いた。
「あの子の毛だ」
「では、本当にここに?」
「うん。調べてみる価値はあるね」
彼女はそう言って、洞窟から這い出た冷気に身を震わせた。
妖怪の塒、か。
ひとつ息を吐き、畳んで持ち運んでいた提灯を広げる。火打ちで種火を点け、洞窟の闇にかざす。天然の石造りの通路が茫と照らし出された。
「一本道ですか?」
「あ、うむ。しばらく行けば、開けた洞に出るはずだ」
「行きましょう」
そのまま提灯を掲げ、先頭に立って洞窟に踏み込んだ。二歩と進まぬうちに空気が変わる。冷たく、湿っている。光量は頼りない上に、足元がごつごつしていて歩きにくい。小さく舌打ち。しかし、進むしかない。
背中から影が落ちてきた。ゴンザが洞窟に入ったらしい。振り返ると、彼の巨躯が外界の景色を見事に遮っていた。薄闇の中に見えた表情はぎこちない。彼も緊張しているのか。
その更に後ろから、サナの軽い足音が響いた。
「こういうの、虎穴に入らずんば虎子を得ず、って言うのよね」
「見たことがあります?」
「え、なにを?」
「虎の子」
「とっておき?」
「ではなくて」
洞窟の岩肌は薄く水気を帯びている。川辺の崖は白色にくすんでいたが、目の前の壁は黄色か茶褐色に近い。爬虫類を連想させる色合いとぬめりだったが、硬質な手触りと冷たさはその真逆だった。その硬さを頼りにして、でこぼこした足場を一歩ずつ進んでいく。
「生きている虎というのを、私は見たことがありません」
「外つ国の獣だろう?」
背中からゴンザの声。
「生きているのは某も見たことはない。だが、確か殿が虎皮を所蔵していたな。なにかの祝い品に貰ったという話だったか」
「掛け軸や屏風に描かれたものは私も知っています。ですが、絵師も実物を見て描いたわけではないでしょう? 虎皮だって、本当は別の生き物の皮なのかも」
「つまり?」
「膾炙してますけど、虎も妖怪みたいじゃありませんか? 伝聞ばかりで、実物を見た人はほとんどいない」
「何を言うかと思えば。虎というのは、ほれ、どでかい猫に過ぎんだろうに」
「もしかして、化け猫だったり」
「化け虎猫か? それなら尾が二又になっているはずだろう」
「それは猫又では」
「猫又と化け猫とは違うのか?」
「猫といえばさ」
サナがくすりと笑いを零す。
「虎の如きもの、つまり『如虎』が訛って猫って言葉が生まれたっていう話もあるのよね」
「なら、猫の方が化け虎ですか」
「いやいや、化けてない化けてない」
「ははぁん。干支に寅がいて猫がいないのは、そういうわけか」
「それもまた別の理由があって……、って、もう、何の話だっけ?」
「虎の子ですよ」
洞窟の隘路は緩やかに蛇行している。高低の動きはほとんどなく、水平に進んでいるように思える。閉暗所の圧迫感はあるが、一方で僅かな風の流れも感じる。進んだ先がまったくの行き止まりということはなさそうだ。
「そうそう。うん、わたしは見たことあるよ」
「へえ、どんな感じでした?」
「うーん、やっぱり可愛かったなぁ」
「え、虎の子が?」
「親虎も可愛かったけど」
「ええ……?」
思わず怪訝な声が漏れる。
「荒々しいとか恐ろしいじゃなくて、可愛い、ですか?」
「そうそう。でも、そっか。そういう風に感じるのが本当は自然なのかも。わたしが見たのは生まれた時から人に飼い慣らされた子だったからね」
「それにしたって可愛い虎っていうのは……、ちょっと想像できませんね」
「言葉では説明しにくいなぁ。一目見ればわかると思うんだけど。百聞は一見に如かず、ってやつ」
「かまいたちが実在する、ということも?」
「そうだね。うん。きっと、もうすぐはっきりするよ」
洞窟に入ってから四半刻も経っていないだろう。
一本道の隘路を大きく左に曲がった先で、不意に視界が開けた。隘路が大きく口を開けて、広々とした空間に接続している。端から端まで二十歩ほどか。ちょうど剣術の道場を想起させる広さだ。薄闇の中で人の胴ほどの石筍が四つほど伸びている。
外に出たわけではないが、頭上から微かに光が射していた。見上げると、天井の岩肌に幾つか穴が空いているのが見える。歪な形で、井戸と呼べるほど大きくもない。おそらく、自然に空いたものだろう。天井の高さは一様ではなく、高いところもあれば低いところもある。地面と天井の近い場所では、石筍が成長して石灰色の石柱を作っていた。
空間は反対側の壁際で窄まり、細道が更に奥へと続いている。おそらくその先を進めば、もうひとつの入り口である古井戸に行き着くのだろう。
「嗚呼……」
一歩遅れて空間に踏み込んだゴンザが、重苦しく声を絞り出した。
彼の視線を追うと、空洞の端の辺りに、人工的な直方体が見えた。目を凝らすと、それが木製の長持であると気付いた。変色し、朽ちかけているが、辛うじて原型を保っている。キタガワ家の領主が持ち込んだものだろうか。
だが、しかし……。
それ以上に、視線を奪うものがある。
朽ちた長持に寄り添うように、それはあった。
「ねえ、あれって……」
「ええ」
サナの指が私の肩に触れた。細い指が、縋るように肩を握る。
水と土の匂いに混じって、饐えた腐臭が届く。
小さく息を吸って、ゆっくりと吐く。首だけ振り返り、サナに向けて頷き、長持に近づいていく。
まず、地面に横たわる着物が見えた。柄物ではない、深い藍色。染みと虫食いで生地に斑の濃淡が浮かんでいる。衿は上向き。つまり、仰向けの形だ。
「っ」
すぐ後ろでサナが喉を詰まらせる。彼女の指は肩に掛かったまま。
粘ついた異臭が鼻の奥を苛む。自分も口元を着物の袖で抑えた。
仰向けになった着物の中身は、人の形を保っていなかった。肉と皮がぐずぐずに崩れ、こそげ落ちた合間からは黄色にくすんだ白骨が覗いている。提灯を翳すと、米粒ほどの黒い影がざっと動いた。無数の虫の群れが光を避けるように洞窟の闇に消えていく。
二本の腕に、二本の足。眼窩の陥没した頭部。
疑いようもなく、人間の死体であった。
「それが、件の侍か?」
「おそらくは」
ゴンザは長持の方を調べている。出来る限り呼気を抑えながら彼に応える。
侍が行方不明になったのは一か月前。遺体の様子を見る限り、姿を消してすぐに落命したのだろう。肉体の損壊は激しく、人相すら確かめられそうにないが、腰に大小を差している。持ち帰れば身許の証明になるかもしれない。
「……いや、太刀が抜かれている?」
「クロウさん、あそこ」
二本差しの内、片方の鞘が空になっていることに気付いた。サナが指差した先に視線を送ると、抜き身の刀が洞窟の地面に転がっていた。遺体からはそう遠くない。侍の死後に抜き取られたというよりは、構えた刀を何かの衝撃で取り落としたという印象を受ける。
もう一度、遺体を観察する。肉体は朽ち、外傷は特定できない。しかし、着物に目を向けてみると、虫食いの他に、肩口から袈裟懸けに断たれた痕跡があった。その斬られ方は、両断された食料庫の木戸によく似ていた。
侍は、何かに応戦しようとしたのだ。
その、何かとは。
決まっている。
「かまいたちと戦おうとしたのですね」
「……そう、なのかも」
サナが沈痛な面持ちで目を伏せた。
かまいたちが人を襲うのは自身に危険が迫ったとき、と彼女は語っていた。どちらが先に手を出したのかは定かではないが、結果として侍は致命傷を負い、かまいたちは生き延びた。侍の遺体だけがここに残されていることからも、それは明らかだろう。
「蓋のところに、抉じ開けられた痕がある」
長持を調べていたゴンザが呟く。
「記された家紋はキタガワのものだ。だが、中身がなにもない」
「では、やはり、あの懐刀はここから持ち出されたものだと」
「かもしれん。……いや、他に可能性は無い、か」
ゴンザが溜め息を吐き、遺体を横目に見て、露骨に顔を顰めた。
洞窟に沈黙の帳が落ちる。サナもゴンザも、口を閉じて何かを思案していた。
……事の順序を考えよう。
侍は妖怪を調査する過程で(おそらくは偶然に)この洞窟を見つけ出した。その時、かまいたちは洞窟にいなかったのだろう。侍は古びた長持を見つけ、中からキタガワ家の懐刀を持ち去ってしまう。
それから侍は宿場に戻り、旅籠で一晩休んでから、懐刀を質屋に持ち込む。懐刀が値打物だと知った彼は、他に財宝が残されていないかと、再び洞窟に舞い戻ったのだろう。
そして、今度こそ、かまいたちと遭遇した……。
一連の流れとして辻褄は合う。
「……ここにも体毛が残ってる」
提灯に照らされた地面から、サナが黄色の毛を拾い上げた。
「うん。あの子がここを拠点にしてるのは、間違いないと思う」
「それで、今、かまいたちはどこへ?」
「もしかしたら、縄張りの見回りに出ているのかも」
サナの視線が入り口に向かう。釣られてゴンザもそちらを向いた。
けれど。
自分の耳には。
反対側、もうひとつの細道から、微かな足音が聞こえた。
振り向く。隘路で影が動いた。
黒ずくめの、人の形。
奇妙な着物。足も腕も、すっと細い。胸元だけが、逆三角形の白。
顔の上半分にも、のっぺりと黒い板が貼り付いている。
「黒法師……」
呟く。サナとゴンザが振り向く。
それよりも早く。
黒法師が右腕を持ち上げた。
その掌に、くの字の黒い塊。
あれは。
あの時、サナが持っていた。
短筒。
「死ね」
黒法師が口元を歪めた。




